〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

平成22年度

   第一回 〔 日向国 諸県郡 志布志郷 @ 〕


 ※志布志郷は現在の宮崎県都城市を中心とする日向国の「諸県郡」に属していた。「地頭館」(御仮屋)は志布志小学校の所にあった。

位  置 概        要 備  考
<山 水>
笠祇嶽 地頭館より
東北東へ2里
 この嶽の東は日向国那珂郡福島郷で、山頂には笠祇神社が建つ。神社の鳥居の脚は両郡にまたがっている。西の柱は志布志郷に、東のは那珂郡福島郷に立っている。
 神社は元は志布志郷の内之蔵村にあったがここに移された。その際、山の名は「前嶽」だったのが「笠祇嶽」に改名された。
 また、関東の「一之平」という所から馬が航送されたが、福島沖で沈没し、馬だけが助かり、この笠祇嶽周辺に移されて牧場が開かれたゆえに、笠祇神社には牧畜の神が祭られている、という地元の伝承がある。
御在所嶽 地頭館より
東北へ2里
 田ノ浦にあるため田ノ浦嶽ともいう。山頂には天智天皇の「神廟」がある。そのいわれとして「山宮大明神社旧記」に、・・・むかし天皇は薩摩国の頴娃開聞に玉依姫をたずねたが、その帰途、この嶽に登ってはるかに開聞岳を望んだ。去るに忍びず、ここに廟を建てるよう詔して、都に戻った・・・との記述がある。 御在所岳の標高は530m
霧嶽 地頭館より
北西へ2里
井崎田村にある。土地の狩場となっている。 霧岳山塊の最高点は408m
飯盛山 地頭館より
東南東へ1里
夏井村の海辺にある。邦君(27代島津斉興)が巡検したとき、ここに行亭を建て、福島領との境をはるかに望んだ。 全長80mの飯盛山古墳が
あった。
志布志川  地元では前川と呼ぶ。水源は内之蔵村の山中。河口には「権現島」が蟠り、風波を防ぐので河口は船舶の停泊として名高い。
 川の両岸には人家が多く、すこぶる賑わっている。12月から翌2月まで白魚がよく獲れる。名産である。
安楽川 末吉郷から流れてくる。鮎や鱸がよく獲れる。
野井倉川 大崎郷では「菱田川」と呼ばれる。上流の大鳥川・月野川・市芝川が合流して、当郷では野井倉川という。 大隅半島では最長の河川
蒲葵島 地頭館より
南へ2里
 志布志村(湾)の海上にある。この島には「蒲葵御前社」があり、天智天皇と玉依姫の皇女「乙姫宮」を祭る。
 島の特産の「蒲葵(びろう)の葉」は奈良時代より珍重され、渤海王への贈り物としたり、丸笠や牛車の蔀窓の日除けとして使われたりした。
権現島 地頭館より
南南東へ5町
この島の周囲は5町余り、満潮の時は完全な島だが、干潮になると陸繋の砂州が現れる。頂の権現社は宝満寺の鎮守である。
弁天島 地頭館より
東南東へ1里
夏井村にあり。海岸からわずか10余歩しか離れていない。頂上に弁天社を祭っている。
平洲
(ヒラセ)
地頭館より
東南東へ33町
夏井村の海上にあり。広さ5〜6反、満潮時には海中に姿を消してしまう。
夏井 地頭館より
東方31町
夏井村にあり。当村の名水である。
有明浦  志布志村の海岸一帯の呼称。那珂郡福島郷の先端の「戸肥岬(都井岬)」から白砂青松の大湾をなし、南は内之浦邑の南方「火の岬」までの8里が有明浦に属している。
 往古、日向国の府治であった都城の郡本村は、また、島津御荘の中心だが、海辺として最も近いのはこの志布志であり、当時、上方のみならず薩隅および種子・屋久等の島々への船運は志布志津が拠点であり、島津御荘の水門と言われていた。
 今(江戸末期)に到るまで「(志布志)千家の町」という口碑もあり、昔の港としての繁華をしのばせている。
日向国の府治とは国府のことだが、律令制下の国府は西都原の南の都於郡にあったとされる。
<居 処>
夏井関 地頭館より
東南東へ28町
夏井村にあり。那珂郡福島郷との境へ通じる大道があるゆえ、関所が設けられた。関所を「番所(ばんどころ)」と通称した。
八郎ヶ野関 地頭館より
北東へ3里
志布志郷の内之蔵村にあり。飫肥藩領へ通じる関所である。
<神 社>
 正一位
山口六社
 大明神社
地頭館より
西南西へ28町
 安楽村にあり。祭神は「天智天皇」「倭姫」「玉依姫」「大友皇子」「持統天皇」「乙姫宮」の六座。
 御在所嶽の項で記すように、天智天皇は崩御の後、御在所嶽に御廟を造るよう依頼し、それを「山宮大明神」と号した。また大友皇子の御霊社をその麓に創建し「山口大明神」と号した。そしてその他に、鎮母神社(倭姫)、若宮(持統天皇)、中之宮(玉依姫)、蒲葵御前社(乙姫宮)が創建された。
 これら6社は散在していたので、大同2(807)年に山宮大明神を山口大明神社に遷し、さらに安楽村の現在地にその山口大明神を遷して他の4座をも併せ祭ることになった。それが今の「山口大明神社」である。
 山口神社始末の大意は山宮・山口両神社の旧記に見えているが、それによると(原漢文)、
  <天智天皇は志布志の安楽浜に到着し、地元の老人に開聞岳の方角をお聞きになったところ、西南へ海路30里にあるとの答え。開聞には5,6ヶ月ご滞在になり、帰ってから白馬で御在所嶽に登り、開聞岳を遥かに望みながら「死後はここに廟を建てよ」と詔して、大和へお帰りになった。その時の「御腰掛石」は今に存在する。天皇が崩御されてから山上に廟を建てて祭り、山宮大明神と称し、山の名も御在所嶽とした。また大友皇子を麓に祭り、山口大明神と称した。・・・・・> とある。
 元明天皇の時代に、岡本意美丸なる人物がここに下って来て両神社の祭職(神官)となり、神田を管理するようになったという。
冷泉天皇の安和元年(968)、神領500町を受け、その後肝付氏や島津氏の庇護があったが、永禄4(1561)年、神領はすべて官府に収公された。
 その後、江戸期の享保19(1734)年、侍従・卜部兼雄が正一位の宣旨を持参し、鳥居に「正一位 山口大明神」の額が掲げられた。志布志郷の宗廟で、座主は千手院の社司で小川氏。
 この山口大明神社は現在「(安楽)山宮神社」と呼ばれている。
 山口大明神は由来にあるように大友皇子の神号であるから、天智天皇の神号「山宮大明神」の名称のほうがふさわしい。
若宮神社 地頭館より
東南へ1町余
 志布志村にある。祭神は一座「持統天皇」。前項・山口大明神の記述の中にある割注によれば、持統天皇は天智天皇の次女である。
 祭日は正月初戌の日。この日は「市渡り」といって、山口大明神の神輿が到来し、神事が行われる。
天智天皇の皇子女は1大田皇女 2持統天皇 3元明天皇 4施貴皇子 5大友皇子の5人。
一宮神社 地頭館より
西南西へ1里半
安楽村にあり。天皇に開聞岳の所在地を教え、かつ一夜の宿と食膳を提供した老夫婦を一宮として祭った。
熊野三所
   権現社
地頭館より
西方へ2里
堀内村の蓬原にある。大崎郷の飯隈山照信院の熊野社はもとはここにあったという。
河上大明神 地頭館より
西北西へ5里余
槻野村にあり。社殿のすぐ脇の絶壁から、清泉がほとばしり落ちている。樹木が崖上を覆い、景色が幽邃である。 槻野は今、月野と書く。

神社合記

中之宮大神社…安楽村。祭神は玉依姫。  ○天満神社…槻野村。  ○霧島大権現社…槻野村。  ○大田大明神社…槻野村。本地・十一面観音。背に大永8年(1528)と刻字あり。文禄3(1594)の再興の棟札に「大願主 藤原義弘」とある。  ○歳之神社…槻野村。  ○白鳥権現社…井崎田村。天正6(1558)の再興の棟札。また、慶長10(1605)年の再興の棟札には「大檀越 藤原義久並びに藤原義弘」とある。  ○霧島権現社…井崎田村。文明10(1478)年造立の棟札。  ○早鈴大明神社…井崎田村。文和元年(1353)建立という。  ○白山権現社…志布志村。  ○諏方大明神社…堀内村。元亀4(1573)年の再興の棟札に「大檀那 伴兼亮」とある。  ○鎮母大明神社…安楽村。祭神は倭姫。祭日は正月末日で「打植祭」と号す。 ・玉依姫は天智天皇の側室で、薩摩国頴娃郷の出身。乙姫宮を産んだ。
・倭姫は天智天皇の正室で、「鎮母」と書いて「ジツボ」と読ませる。今の安良神社のこと。

 
        ( 志布志郷@ 終わり )                 おおすみ歴史講座の目次に戻る