『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

第十一回  史跡めぐり (輝北町・福山町・垂水市牛根)

 ・平成23年3月20日(土)

 鹿屋市輝北町中平房にある「加瀬田ヶ城址」入口。
 上り口は昔の大手口だという。
 加瀬田ヶ城は南北朝時代前期、肝付兼隆が守備していたが、島津貞久軍に敗れ、兼隆は戦死した。その後を継いだのが三俣城主・三俣兼重ことのちの肝付氏第8代兼重である。
 
 本丸跡。シイの木の下に「宝塔」がみえるが、「宝筐印塔」と違い、経文を納めるべき中心の角筒石が無い。
 奥のさらに一段高いところには「三宝荒神」の祠がある。
 加瀬田ヶ城のある中平房(ひらぼう)にはおおむね島津方の地頭が置かれ、江戸時代に廃城になる慶長20年(1615)まで、ここに地頭仮屋が置かれた。
 市成郷は元は曽於郡に属していた。肝属郡の百引郷と合併して「輝北町」が誕生したが、平成18年にはその輝北町も鹿屋市と合併し、鹿屋市輝北町となった。
 江戸期の市成郷は敷根氏の私領で、初代は敷根久頼。その室は島津18代家久の娘・虎松。虎松の生んだ嫡子・忠頼は若死にし、それを悼んだ母・虎松が慰霊・供養のために巨大な「宝筐印塔」を建立した。
 市成麓にあった両足寺に立ててあったが、廃仏毀釈で打ち捨てられたのを、後世になってここ「登見ノ丘」へ運び上げ、再建している。
 霧島市福山町の廻(めぐり)城へは市成から国道504号線を国分方面に行き、福山中学校の手前側の信号を左折する。福山町への道路標示がある。
 そこから約1.5キロを下ると右手に小さく「廻城址へ400b」と書いた看板がある。奥に駐車場があるのだが、現在、途中の道路が抉れていて行けないので、路側帯に車を停めて歩く。
 5分で広い駐車場に着く。その一角にさっき見た「宝筐印塔」のような石造物があるので行ってみる。
 調べると昭和59年にこの城の領主「廻氏」の後裔が「廻氏先祖代々の菩提の為に」建立したものであることが判った。中に「経文」のようなものが納められているかどうかは不明だが、先祖への供養にはなると思われる。御影石造りである。
 本丸の跡までは5分で行ける。写真の木立の間の高みがそれである。
 廻氏は清和源氏族・源頼政の後裔という。頼政は官位が従三位であったため「源三位頼政(げんざんみよりまさ)」で親しまれている。後白河天皇の皇子・以仁(もちひと)王を奉じて平氏への叛乱を企てたが、たちまち討ち取られてしまった。
 時代は変わって戦国末期、廻城をめぐる島津氏と肝付氏の攻防では、15代島津貴久の弟で、日本で初めて鉄砲を実践に使ったと言われる忠将が戦死している。この死を悼み、垂水が島津家の直轄地となった時に、忠将を垂水島津氏の初代として顕彰したのは、父親の島津日新斎忠良であった。
 垂水市牛根麓の「宇喜多秀家潜居地跡」(通称・平野屋敷)は霧島市と垂水市を結ぶ国道220号線の道路わきにある。小中野バス停のところだ。
 秀家は備前国主で秀吉に気に入られ、若くして腹心として重用された。秀吉亡き後には、嫡子・秀頼を後見する五大老のひとりになったが関ヶ原の戦いでは反徳川として西軍を率い、敗れたのち薩摩に落ちて来た。
 薩摩は秀家をかばい、ひそかに潜伏させたのがこの牛根の平野屋敷である。ここに2年余り潜んだが、ついに徳川方に知られ、駿府に護送。しかし罪一等を減じられて遠流(島流し)となり、八丈島に送られて余生の50年を過ごし80余歳まで生きたという。
 太崎(たさき)観音は小さな祠であった。ここは牛根麓と牛根境との中間地点で、大きな岩礁が海に突き出ている場所で、福山から牛根までの長い単調な海岸線ではちょっとした景勝地である。
 百引地頭だった平山某が、百引からここへ勧請した―という説明板が立つが、『三国名勝図会』では「延暦2(783)年に建立。その事は石祠の石座に刻んであったが、ともに破壊し、その後、土民が観音の石祠を建立した」とあり、最初の創建は延暦2年、今から実に1200年余り前だとしている。
 霧島市福山町の宮浦神社は『延喜式』の通称「神名帳」の大隅国五座(社)の一つで、祭神は天照大神はじめ天孫三代および神武天皇をまつる古社である。
 『延喜式』に載っているということは、その編纂の年・延長5年以前にはあったという証明になる。延長5年は西暦927年であるから、宮浦神社は少なくとも1100年の歴史を持つことになる。
 境内の巨大イチョウは、説明では樹齢600年から1000年の幅のある説を採っているが、千年でも決しておかしくはない。
 因みに、他の大隅国4社は「鹿児島神社・大穴持神社・韓国宇豆峯神社・益救(やく)神社」である。
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