安閑紀・宣化紀を読む


 日本書紀でこの両天皇の記述は同じ第18巻に載せてあるので、ここでもそれに従う。


  <安閑天皇>

父母      父・・・継体天皇(和名:男大迹天皇)の長子
         母・・・目子媛(メコヒメ:尾張連草香の娘)

和風諡号   広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)

 
宮       勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)

皇后       春日山田皇女(仁賢天皇の娘)

皇子・皇女   皇子・皇女ともに無し。

墳墓       河内の旧市高屋丘(ふるいちのたかやのおか)
          古事記:ほぼ同じ(旧→古)


      
 <時代順の事績>

事        績 備   考
即位前紀 継体天皇25年2月7日に立太子。継体天皇はその日に崩御する。この月に大伴金村と物部麁鹿火とは以前同様、大連に就任する。 25年に天皇崩御というのは「百済本記」による。
元 年 正月、都を勾金橋宮に定める。3月、春日山田皇女を正妃とする。他にサデ媛、カガアリ媛、ヤカ媛を迎える。
 4月、伊甚国に珠を求めるが、伊甚国造の到着が遅く、粗相があったとして伊甚に屯倉を置く。上総国に所属させる。
 10月、子無きがゆえに、皇后と三妃のために諸国に屯倉を開かせ、それぞれに給与する。このとき摂津三島の県主・飯粒が領内の5箇所の良田あわせて40町を上納する。
 武蔵国造・笠原直使主(おみ)と同族の小杵(をき)とが国造の地位を争って朝廷にも聞こえるようになり、ついに小杵を誅伐して使主を正式な国造に就ける。使主は感謝して領内に4つの屯倉を設置し、朝廷の直営地として献上する。
太歳甲寅は西暦534年。即位前紀では「百済本記」の説を採用しており、それに従えば、西暦では532年に当たることになる。
2 年  5月、13の国に28の屯倉を置く。(以下、屯倉を省く)
 筑紫国(穂波・鎌)、豊国(御崎・桑原・肝等・大抜・我鹿)、火国(春日部)、播磨国(越部・牛鹿)、吉備後国(後城・多彌・来履・葉稚・河音)、婀娜国(膽殖・膽年部)、阿波国(春日部)、紀国(経喘・河部)、
丹波国(蘇斯岐)、近江国(葦浦)、尾張国(間敷・入鹿)、上毛野国(緑野)、駿河国(稚贄)。
 9月、桜井田部連・県犬養連・難波吉士らに屯倉の税を掌握させた。
 12月17日、天皇、勾金橋宮にて崩御。70歳。
 御陵は河内の古市高屋丘陵。
西暦 535年
(533年)

(注)
伊甚国・・・いじみのくに。房総半島に所在する安房国・上総国と並ぶ一国。ここに朝廷の直轄地である屯倉を置き、それを上総国に所属させたということは、伊甚国自体の存続が断たれたと言うに等しい。
 
屯倉・・・・みやけ。後世には三宅と当て字さるが、いずれにしても朝廷直属の田畑であり、租税徴収機関でもあった。2年の9月の条によれば、全国にそういった屯倉が設置され、桜井・犬養という名の連たちが現地に派遣され、租税関係の掌握つまり事務方いっさいを任されたらしい。

肝等屯倉・・・きもとのみやけ。豊国(今日の大分県全域と、福岡県最東部)に置かれた屯倉。鹿児島ではこの屯倉を「肝付屯倉」(きもつきのみやけ)と読み替えて、これを鹿児島の大隅半島肝属郡のことだろうとしている郷土史家が多いが、豊国内のことなので、それは採用できない見方である。

婀娜国・・・あなのくに。これは「穴門国」の略称の「穴(あな)国」である。これも鹿児島の郷土史家で薩摩半島の「阿多(あた)国」だろうと考える人がいる。古い人物では江戸末期の薩摩藩の国学者・白尾国柱がいる。彼は『麑(ゲイ)藩名勝考』の中で、婀娜(あな)を阿多(あた)のことであるとしている。
 阿多は「阿多隼人」という形で日本書紀の天武天皇紀に、またいわゆる日向神話として「吾田の長屋の笠沙之崎」とこちらは「吾田」ではあるがそのように表現されており、そのいずれかを使用するのが順当であろうから、婀娜を「阿多・吾田」の替え字と指定することは無理である。



     <宣化天皇>
 
父母       安閑天皇と同じ。

和風諡号    武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)

 宮        檜隈櫨入野宮(ひのくまのいほりぬのみや)

皇后       橘仲皇女(仁賢天皇の娘)

皇子・皇女    皇子 上殖葉(カムエハ)皇子(母:橘仲皇女)
                火焔(ホノホ)皇子(母:大河内稚子媛)
          皇女  イワノヒメ  オイワノヒメ  クラワカアヤヒメ(以上の母:橘仲皇女)


墳墓       大倭国身狭
(むさ)桃花鳥(つき)坂上陵(皇后:橘皇女と幼児を合葬)
           古事記:記載なし

       
         
<時代順の事績>

                 事    績      備  考
 元 年 ・2月、大伴金村・物部麁鹿火の二人を大連、蘇我稲目を大臣とする。また阿部大麻呂を大夫に任命する。
・5月、詔を出し、筑紫国に河内国、尾張国、伊賀国などから穀物を運ばせる。また、那の津に官家を設営し、筑紫・肥・豊三国の屯倉からそこへ非常用の穀物を集めさせる。
・7月、物部麁鹿火の死。
 太歳丙辰とある。これは西暦536年。
 2 年 ・10月、大伴金村の子・磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)に新羅に攻められている任那を救援させる。磐は筑紫にとどまり、狭手彦は任那に行き任那・百済に加担する。
   537年
 4 年 ・2月、天皇、檜隈櫨入野宮において崩御。御年、73歳。
・11月、大和の身狭桃花鳥坂上陵に葬る。ここには、橘仲皇女とその子をも併せて葬る。
   539年


(注)
蘇我稲目・・・そがのいなめ。蘇我氏で、王権内に頭角を現した最初の人物が稲目である。蘇我氏の初代は蘇我石川宿禰で、南九州系の王「武内宿禰」の子の一人。武内宿禰の子では葛城ソツ彦や紀ツヌ宿禰のように朝鮮半島に渡って活躍している。蘇我石川宿禰の後裔も半島に渡っていたらしいことは、稲目の父が「高麗(こま)」、祖父が「韓子(からこ)」などという名であることからも分かる。
 また曽祖父「満智(まち・まんち)」は応神天皇紀の25年条の分注の「百済記にいう。木満致(モクマンチ)はこれ木羅斤資(モクラコンシ)の新羅を討ちしときに、その国の婦を娶りて生めるところ(の者)なり。・・・・・」とある木満致のことではないかという説があるが、たしかに「満致」と「満智」とは同名と言ってよいほど似ているが、蘇我氏の後裔であるならばなぜ姓が「木」または「木羅」なのであろうか?「蘇」あるいは「蘇我」が姓ならば「蘇我満致」は「蘇我満智」のことと言って構わないと思うが・・・。
 姓が「木」であるのならば、むしろ「木=紀」で「紀氏」の後裔であると言ったほうがより説得力があるのではないか。

那の津の官家・・・なのつのみやけ。那の津は福岡県博多湊。「みやけ」はふつう「屯倉」だが、官家と書いてこれも「みやけ」と読ませる。屯倉の中の屯倉ということだろう。安閑紀2年条にあるように、地方の屯倉には有力者が直接赴いて設営し、直轄している。屯倉の中の屯倉「官家」となれば、後世の大宰府がそうであったように「遠の朝廷(とおのみかど)」と言ってもよい。
 それほどに大掛かりな設営がなされたのは、非常に緊迫した状況が、半島の内部で起きていたためである。
『三国史記』「新羅本紀」によれば、法興王の19年(西暦532年)、新羅は半島最南部の「金官国」(現在の金海市一帯)を滅ぼしているのだ。任那が同じ新羅に滅ぼされる30年前のことである。

狭手彦の任那行き・・・大伴狭手彦は肥前国松浦郡(かっての魏志倭人伝中の末廬国)から半島に渡っているが、『肥前風土記』の「松浦郡」条の中の「鏡渡」「褶振峰(ひれふりのみね)」の項に見える弟日姫子(おとひひめこ)との恋愛と別離の話は有名である。

橘仲皇女とその子・・・後注に但し書きがあるように、皇后とその子も同じ御陵にあわせ葬られたのだが、皇后がいつ死去したのか、また一緒に葬られた子が皇子なのか皇女なのかいったい誰なのかの記載がないのが不審に思われている。 
 この不審は継体天皇の死と同時に二人の皇子(一人は皇太子)も死んだのではないか、しかもその時期は525年ごろで、書紀の記載とは6年ほどのずれがある――という継体紀最後の後注にもかかわるものだろう。
 継体天皇から3代にわたる<継体―安閑―宣化>という王権のうち、安閑―宣化の2代は九州に拠点のあった王権ではなかったかという疑いを持っている。



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