安康紀・雄略紀を読む

安康天皇も雄略天皇もともに父は允恭天皇・母は忍坂大中姫(オシサカオオナカツヒメ)であり、共通した事績が見られるので一括して扱うことにした。

安  康 雄  略
父母  父:允恭天皇
 母:オシサカオオナカツヒメ
              同じ
和風諡号  アナホ(穴穂)  オオハツセワカタケ(大泊瀬幼武)
 穴穂宮  泊瀬朝倉宮
正妃  ナカシヒメ  クサカノハタヒノヒメミコ
皇子・皇女  眉輪王(マヨワノミコ=ナカシヒメの連れ子) シラガタケヒロクニオシ皇子、ワカタラシヒメ、イワキ皇子、ホシカワ皇子、カスガノオオイラツメ皇女
 ※墳 墓   ・菅原伏見陵 (古事記:菅原伏見岡陵)      ・書紀に無し(古事記:河内の多治比高鷲陵)

    < 年代順の事績 > 
安康紀 事    績 備  考
即位前紀  兄の太子・木梨軽皇子が実の妹を姦淫しようとして支持を失い物部大前宿禰の家に逃れたところを討つ(皇子は自殺)。  古事記では軽皇子は死なずに伊予国に流されたとする。
元年  大草香皇子の妹・ハタヒノヒメミコを弟のワカタケの妃にしようとして根使主を遣わしたが、根使主は皇子が安康天皇に上納した押木玉蔓に目がくらんで我が物とし、「讒言」をする。
 怒った安康は皇子を殺したうえ、妻のナカシヒメを正妃にする。
 この歳は「甲午(454年)」。
2年 ナカシヒメを皇后とする。
3年  ナカシヒメの連れ子で、大草香皇子の子である眉輪王によって殺害される。  事の次第は雄略紀「即位前紀」に詳しい。
雄略紀
即位前紀  兄・安康が死んだと聞いて、眉輪王を追いつつ、長兄のヤツリノシラヒコを殺し、葛城の円(ツブラ)大臣のもとに逃げ込んだ眉輪王と次兄のサカアイノクロヒコを円大臣ともども焼き殺す。
 また、履中天皇の子でいとこのイチノベオシハ皇子御馬皇子の二人も殺害する。
元年  クサカハタヒヒメ(大草香皇子の妹)を皇后とする。
同時に三妃(カラヒメ・ワカヒメ・ヲミナノキミ)を納れる。
太歳は丁酉(457年)。
 カラヒメは円大臣の娘・ワカヒメは吉備上道臣の娘・ヲミナは和邇臣深目の娘。
2年  百済から入内した池津媛を焼き殺す。また、吉野宮行幸中に、御者の大津馬飼を斬り殺す。ために天下の人々は天皇を「大悪天皇」と誹謗した。
 史部の身狭村主・青と檜隈民使・博徳などの側近だけが天皇のお気に入りであった。
 池津媛は割注の「百済新撰」の説明によれば、百済の慕尼夫人の娘で「適稽女郎」(チャクケイ・エハシト)が本名。
3年  カラヒメとの間の娘・タクハタヒメミコは伊勢大神に侍っていたが、ある男との仲を疑われ、大神の神鏡を埋めて自死する。
4年   2月、天皇が葛城山で狩りをしていると、姿形のまったく同じ人物が現れた。名乗りあいで、相手が「葛城一事主神」であることが分かり、狩りを共にする。神と比べて行動に遜色なかったので、百姓は「有徳天皇」と口々に言った。  倭王が方物を貢献する。
            (『宋書』)
5年  4月、百済のコウロ王(加須利君)が弟・軍君(昆支君)を遣わし、天皇に侍史させる。連れて来た妊婦が各羅島(かからじま)で児を産んだので百済に送り返す。この児がのちに武寧王となった。 コウロ王は百済第21代王(455年〜475年)。武寧王は25代(501年〜523年)。
6年  后に蚕を飼わせるようにするため、諸国から蚕を集めさせる。担当したスガルが聞き誤って「嬰児(わかご)」を集めてしまうが、そのまま養わせる。スガルに「小子部連」姓を与える。
 4月、呉国から使いが来る
 西暦462年
 倭王「興」が遣使。「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・慕韓・秦韓七国諸軍事安東大将軍・倭国王」を自称したが「安東将軍倭国王」のみ(『宋書』)。
7年  8月、吉備下道臣・前津屋(さきつや)に謀反の疑いありとして一族70人を誅殺する。
 吉備上道臣・田狭(たさ)の妻・ワカヒメが美しいと聞き、田狭臣を任那国司として赴かせ、その間にワカヒメを入内させる。さらに田狭の子・弟君を百済に遣り、才芸に巧みな者を連れて来るよう命じる。
 田狭は子・弟君に百済と通じるよう命じ、自分は新羅と通じ、半島で勢力を得ようと図る。
8年  2月、呉国へ遣使。使人は身狭村主・青と檜隈民使・博徳。
この歳、高句麗と新羅の間で大規模の戦乱が起こる。任那王は膳臣斑鳩(いかるが)・吉備臣小梨(おなし)・難波吉士赤目子を派遣して新羅を救援する。
 西暦464年
9年  3月、紀小弓宿禰を大将軍とする新羅遠征軍がトク(口へんの碌)の地を獲得する。しかし大伴談(かたり)連・崗前久米連が戦死し、紀小弓宿禰も病死する。
 5月、小弓宿禰の子・紀大磐(おいわ)宿禰が父の残した部隊・武器を専権的に使用したので、小鹿火(おかび)宿禰・蘇我韓子宿禰と対立し、韓子宿禰は殺され、小鹿火宿禰は一緒に帰還するのを拒絶し、「角国(つぬくに)」に留まった。
 7月、田辺史伯孫が誉田陵の下を馬で通ったとき、立派な赤駒に乗った騎士に出会い赤駒と自分の馬を交換してもらうが、翌朝、その赤駒は埴輪になっていたという。
 倭が貢献する(『晋書』)
10年  9月、呉から帰還した身狭村主・青の持参したオオカモ2羽が筑紫の水間君の犬に殺され、水間君はコウノトリ10羽に鳥飼い人を添えてあがなう。
11年  10月、鳥司で飼われている鳥を食い殺した犬の持ち主の顔に黥みを入れ、鳥養部に落とす。
12年  4月、身狭村主・青と檜隈博徳とを呉に遣わす。  西暦468年
13年  3月、采女を犯したハタネ命(狭穂彦の玄孫)を物部目(め)連に付与する。
 8月、播磨国御井隈の文石小麻呂を誅殺する。
14年  身狭村主・青ら、呉より呉国使と才伎人の縫媛らを連れて帰る。
 呉人の供宴の主宰に根使臣(ねのおみ)を選ぶが、根使臣がかぶっていた玉?(たまかずら=金の冠)を見た皇后・ハタヒヒメミコは兄・大草香皇子の所有物と見破る。
 根使臣は大草香皇子から奪った物である事を白状し、逃亡するが誅殺され、子の小根使臣ものちに殺される
15年  渡来人「秦人」の後裔が諸方に分散していたのを集め、秦公酒(はたのきみさけ)に付与する。酒が感謝の貢納品は朝廷にうずたかく積まれたので「ウズマサ(太秦)」姓が与えられる。
16年  10月、漢部(あやべ)を集め、伴造(とものみやっこ)を定める。「直(あたい)」姓を与える。
17年  3月、土師連(はじのむらじ)に御膳に使う器を進上させる。
18年  8月、物部兔代宿禰と物部目連を遣わし、伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を討たせる。不手際だった兔代宿禰の猪名部を、朝日郎を討ち取った目連(めのむらじ)に与える。
19年  3月、穴穂部を置く。
20年  冬、高麗(高句麗)が百済を滅ぼす。  西暦475年
21年  3月、天皇、久麻那利(クマナリ)を百済の遺臣に与えて、百済国を救う。
22年  正月、白髪皇子を皇太子とする。
 7月、丹波国余社郡管川(与謝郡筒川)の水江浦嶋子が、大亀に乗って蓬莱山に行って来たという。
 西暦477年
 倭王「武」による宋への上表。文中「興」と同じ爵号に加えて「開府儀同三司」を自称し、要求している。
23年  4月、百済の文斤王が死んだので、末多王子を後継に立てる。兵器を与えたうえ、筑紫国の兵士500人と共に百済へ帰還させる。末多王子は即位して「東城王」となる。
 筑紫の安致臣(あちのおみ)・馬飼臣ら、水軍を率いて高麗(高句麗)を討つ。
 8月、天皇崩御。
 この頃、征新羅将軍・吉備臣尾代が吉備を過ぎる時、天皇の崩御を耳にした5百人の蝦夷出身の従軍兵が叛乱を起こすが、周防の佐波から丹波へ逃亡した蝦夷らは結局討ち取られる。
 西暦478年
 「東城王」は百済第24代王
    (在位:479年〜501)
 「武」が「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・慕韓・秦韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」に叙せられる。

(注)
押木玉蔓・・・「おしきのたまかずら」。金冠のこと。半島の新羅で特に発達した金・金銅製品で、国王・王妃用の戴冠帽である。和語の「押木(おしき)」とは「押し金」のことで、金塊を叩いて(押して・圧して)平たく延ばし、冠型に仕立てたことからのネーミングだろう。また、「玉蔓(たまかずら)」とは、冠の上辺に施された渦巻き文様の様をそう名付けた。
 この「王者の戴冠品」を大草香皇子が持っていたということの意味を考えてみると、実は大草香皇子こそが安康天皇に匹敵、あるいは対抗して大王位にいたのではないか、という結論に向かわざるを得ない。
 それを、いわば騙し取り、あまつさえ皇子の后であるナカシヒメを我がものにした安康天皇こそが、大草香大王を滅ぼして王位を簒奪したのだろう。大草香の母は日向のカミナガヒメであり、河内の日下(クサカ=神武紀では「孔舎衙」)に本拠地を持ち、葛城勢力とも近い大王だったのだ。
 大草香皇子が大王だったことは和歌山県の隅田八幡宮所蔵の鏡の銘によって証明できる。
 鏡の銘は以下の通り。

 
 <癸未年(みずのとひつじのとし=443年)の八月、日十大王の年、男弟王の意柴沙加宮に在りし時、斯麻(しま)長寿を念じ、開中費(かはちのあたひ)と穢人(わいじん)「今州利(いますり)」の二人を遣わし白銅の上物二百貫を採取し、この鏡を作らしめり。>

 この記事に記されている「日十大王」とは「日下大王」すなわち「大草香大王」である。また、男弟王というのはは「ヲアサヅマワクゴノスクネ」ことのちの允恭天皇であろう。この弟王は、はじめ妻の「オシサカオオナカヒメ」の実家である「忍坂宮」に婿入りの形で居たものだろう。

 
ヤツリノシラヒコ皇子・サカアイノクロヒコ皇子・イチノベオシハ皇子・ミマ皇子・・・ヤツリシラヒコとサカアイクロヒコは雄略天皇の実の兄で、父は允恭天皇、母はオシサカオオナカツヒメ。また、イチノベ皇子・ミマ皇子は履中天皇とクロヒメとの間の子で、雄略の叔父に当たる。
 雄略天皇はこういった血縁の者を、兄・安康天皇の敵討ちとばかり次々に殺害している。そこには皇位継承をめぐる争いがあったと捉えるのが常識だろう。しかし、いくら安康天皇暗殺を防ごうとしなかったからといっても、実の兄二人を無残にも殺してしまうのは非道と言わざるを得ない。

眉輪王・円(つぶら)大臣の誅殺・・・円大臣(つぶらのおおおみ)は葛城ソツヒコの子で、誅殺される直前に「葛城の屋敷七区」を上納して命乞いをしていることからも、その葛城における勢力の大きさが知られる。しかし聞き入れられずに、屋敷ごと安康天皇を殺した眉輪王と共に焼き殺される。
 この惨劇の意味するところは結局、雄略による河内日下勢力(眉輪王)と葛城氏勢力の排除ということである。

大悪天皇
・・・天皇の唯一性と連綿性(単一王朝と万世一系)とを標榜し、日本列島における天皇統治の正当性を謳うはずの書紀に、どうどうとこう書かれるのはどういうことだろうか。
 どんな有徳な天皇の事績にも、このような残虐・非道の一面があり、それを包み隠すことなく記載した。だからこの天皇の時代以降の記述は信用できるではないか――と史学者は言うかもしれないが、もしこれが史実だとすれば、大王(のちの天皇)位の危うさのにじみ出ている時代相が、見事に表れていると思うほかない。次の「一事主神」の出現はまさにその証明になる。

一事主神・・・「ひとことぬしのかみ」。「一言主神」という場合もある。
葛城山で天皇とまったく同じ格好の神が現れた――ということの意味は、葛城地方の勢力は雄略に『匹敵するかそれをしのぐものだったということであろう。つまり雄略天皇の時代に、大王権は葛城と河内日下地方を本拠とするものから、雄略天皇の本拠になったと思われる河内中部(志幾地方)に移ったのだろう。
 「志幾」では「大県主」が、天皇の宮殿に匹敵するような豪邸を構えていた(『古事記』の雄略記による)。そこの領主は定かではないが、安康天皇の使いとして日下の大草香皇子のもとへ行き、例の金冠を横領した「根使主(ねのおみ=『古事記』では根臣)ではないかと思われる。

呉からの使いが来る・・・雄略6(462)年4月。これは倭国側の表現であって、事実は「呉」つまり「宋王朝から倭国王への安東大将軍任命書」を宋使が届けに来た――ということだろう。
 古事記では全く書かれない大陸王朝との交流が、書紀には不十分ではあるが記載されている。もちろん倭国王(後世の日本国王)が、大陸王朝の冊封体制に入ったに等しい「○○大将軍・倭国王」の承認を受けた、というような内容まで踏み込むことがないのは、書紀の編集方針からは当然のことである。

供宴の主宰に根使臣を選ぶ・・・呉(宋)からの使者を歓迎しもてなす宴を、天皇ではなく根使臣に主宰させている。不可解なのは準備を根使臣がして、本番の酒宴で天皇・皇后が登場して始められるという形ではなく、天皇が列席せずに開始されていることである。
 天皇は舎人に様子を見に行かせる。帰って来た舎人は「根使主の金冠は見事なものでした」というので、天皇・皇后はひそかに人を遣って根使主を正装のまま連れて来させる。すると金冠を見た皇后ハタヒヒメが、たちまち実兄の大草香皇子の持っていた物であることを見破り、根使臣の不忠を責めて殺す。
 根使主を供宴の主催者に選んだのは、実は、大草香の金冠を奪った悪事を露呈させるためであるかのような書きぶりだが、それにしても天皇・皇后の開いた宴に呉(宋)使も根使主も正装で来させ、その場で見破ることはできなかったのだろうか?天皇が呉(宋)の使者ごときの面前に出るのは、文飾上、不可能だったのだろうか?
 いずれにしても「王者の戴冠品」である金冠をかぶっていた根使臣は、天皇にも匹敵する勢力を誇っていたのだろう。もしかしたら、呉(宋)使の前でまさに王者としてふるまっていたのかもしれない。

根使臣・小根使臣の誅殺・・・根使主は以上の理由から殺害されるが、子の小根使主が誅殺される前に言ったという言葉は注目に値する。
 小根使主は父の殺害後に、寝物語でこう言ったという。
 「天皇の城は堅からず。我が父の城は堅し」
 城(き)は宮殿、「堅い」とは「堅固である」ということで、父親の造った宮殿のほうが天皇の宮殿よりも堅固で立派だ、と言ったというのである。
 これが天皇に知れて、小根使主は殺されてしまう。
 つまり根使主は天皇家に匹敵するかそれ以上の勢力を持っていたことがうかがわれる記事なのである。古事記に描かれた河内中部の「志幾大県主」の殿舎の大きさと勢力を髣髴とさせる。私は古事記の志幾大県主こそ根使主その人であると思う。
 そこから現れてくるものは「埼玉古墳群・稲荷山古墳出土の鉄剣銘」の新解釈である。

――稲荷山古墳・鉄剣銘(裏面)――

  その児の名「カサハレ」。その児の名「ヲワケノオミ」。世々、杖刀人の首と為りてつかえ奉る
り来て今に至る。獲加多支鹵(ワカタケル)大王の寺が斯鬼宮に在りし時、吾れ天下を治むるを左けり。(因りて)この百錬の利刀を作りて、事(つか)え奉り根原を記すなり。
(辛亥の歳=471年に作っている)

 埼玉の地を支配していた「オワケノオミ(乎獲居臣)」は、かって河内の斯鬼宮(しきのみや)に根拠地を持っていた(宮廷があった)「ワカタケル」大王の時代に、天下統治を支えていた。
 記銘はこのことを知らしめている。
 ここに出てくる「斯鬼宮(しきのみや)」が問題である。定説ではワカタケルは雄略天皇であるが、雄略天皇の宮は大和中部の東「泊瀬朝倉宮」であったので、一致しない。
しかし雄略が志幾の大県主であった根使主を滅ぼして天下に並びなき王者となった雄略14年(470年)に雄略の片腕の一人として活躍した人物が「オワケノオミ」であったとすれば、書紀の記述と埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘とは齟齬なく解釈できる。
 
 
以上をまとめると、雄略天皇はすんなりと王者になったのではなく、まずは河内日下に大王であった大草香皇子をつぶし、河内中部の志幾において大県主として大勢力を築いていた根使主一族を葬り去ることでようやく河内・大和全体の大王になったと理解されるのである。


                   
(安康天皇・雄略天皇の項、終り)      目次に戻る