敏達紀を読む

※日本書紀(全30巻)の第20巻は第30代の敏達天皇に当てられている。

父母     父・・・欽明天皇(アメオシハラキヒロニワ)
        母・・・石姫(イワヒメ=宣化天皇の皇女)

和風諡号  渟中倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)

 
宮      百済大井宮
        訳語田(オサダ)幸玉宮

皇后    広姫(ヒロヒメ=息長真手王の娘)
       豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ=欽明天皇の皇女:母は蘇我稲目の娘キタシヒメ)

墳墓     記載なし
       古事記:川内科長陵
(かわちのしながのみささぎ)

 <皇子・皇女>
(下の一覧表)

皇后・妃名 出自 皇子・皇女名
ヒロヒメ(皇后) 息長真手王の娘  押坂彦人大兄皇子・サカノボリ皇女・ウジノシツカイ皇女
トヨミケカシキヤ ヒメ(皇后)  父:欽明天皇
 母:蘇我稲目の娘
ウジノカイダコ皇女・竹田皇子・オハリダ皇女・ウモリ皇女
尾張皇子・タメ皇女・サクライユミハリ皇女
オミナコ(夫人)  春日臣仲君の娘  難波皇子・春日皇子・クワタ皇女・大派皇子
 ウナコ(采女) 伊勢大鹿首小熊の娘  フトヒメ皇女・ヌカテ皇女


       <年代順の事績>

事       績 備 考
即位前紀  天皇は仏法を信じないで、文史を好まれた。 は論語など。は史記などの歴史書。
元年
(572年)
・4月、百済大井宮を造営。大連の物部守屋、大臣の蘇我馬子は前代より引き続く。
・5月、高麗からの上表文で烏の羽に墨で書かれたもを誰も読めなかったのに、船史の祖・王辰爾が解読した。天皇は賞賛し、近侍に取り立てた。
高麗は高句麗のこと。これを「クレ」と読み「呉国」のこととするのは無理。
2年
(573年)
・5月、高麗(高句麗)人が越の海岸に漂着する。
3年
(574年)
・7月、高麗の使者が再来し、前年の使者で帰ってこなかった者がいると訴える。これにより送り使いだった吉備の海部直難波の不正が発覚する。
・10月、蘇我馬子が管理する吉備の白猪屯倉とその田部を拡大させる。馬子は現地管理人の白猪史膽津(イツ)に田辺姓を与える。
白猪屯倉は馬子が現地に行って屯倉を創始している。(欽明天皇30年条を参照)
4年
(575年)
・正月、息長真手王の娘・ヒロヒメを皇后とする。
・4月、吉士・金子を新羅へ、吉士・木蓮子(イタビコ)を任那へ、吉士・訳語彦(オサヒコ)を百済へ遣わす。
・宮を訳語田(おさだ)に造営し、幸玉宮と呼ぶ。
・11月、ヒロヒメ皇后の死。
吉士は吉師とも書く。安康天皇の元年、大草香皇子に仕える難波吉師ヒガカが初見。
5年
(576年)
・3月、トヨミケカシキヤヒメ皇女を皇后に立てる。 母のカタシヒメは蘇我稲目の長女
6年
(577年)
・2月、日祀(ひまつり)部と私(きさい)部を置く。
・5月、大別王と小黒吉士を百済に遣わす。
・11月、百済王が大別王の帰国の際、経論と律師・禅師・比丘尼・造佛工・造寺工の6名を贈る。
造寺工とは宮大工のこと。大阪の「金剛組」はこの時の工人を祖先としているという。
7年
(578年)
・8月、ウジノカイダコ皇女を伊勢斎宮に派遣するが、中止となる。
8年
(579年)
・10月、新羅が進貢し、仏像を送って遣す。
9年
(580年)
・6月、新羅が進貢するも、受け取らず。
10年
(581年)
・閏2月、蝦夷が辺境を犯したので、首領のアヤカスを連行し服属させる。
11年
(582年)
・10月、新羅が進貢するも、受け取らず。
12年
(583年)
・7月、任那復興の詔を出し、そのため百済にいた火葦北国造アリシトの子で、百済の達率に昇進している日羅を召還し、提言を聞こうとする。
・12月の大晦日、日羅は随行してきた百済の恩率トクニ等によって殺害される(難波館)。トクニらを葦北国造家の処遇に任せ、日羅の墓を葦北に移す。
百済の官制には16等があり、1等は佐平でこれは王族のみ。臣下では最高が達率。次が恩率である。
13年
(584年)
・9月、百済から到来の仏像を蘇我馬子が手に入れ、修行僧を求め、また部下の娘・嶋を出家させて「善信尼」とする。石川の蘇我邸の一角に仏殿を造営し、仏像・仏舎利を収める。
14年
(585年)
・3月、物部守屋が疫病の流行は仏法のせいと訴え出て、天皇の勅許を得、馬子の仏殿を焼却する。しかし、その後、痘瘡が流行り、逆に馬子は仏法を蔑ろにした罰と訴え、捕らえられていた尼たちを釈放してもらい、新たに仏殿を造り直す。
・8月、天皇崩御。物部守屋と蘇我馬子の反目はいよいよ熾烈になる。

 (注)
百済大井宮・・・曽我川の中流にある百済村に造営されたと考えられているが、河内の石川の百済村に比定する説もある。しかし近年になって桜井市の吉備池周辺が候補地に挙げられている。幸玉(訳語田)も同じ桜井市にあるようである。

トヨミケカシキヤヒメ・・・後の第33代推古天皇。父は欽明天皇で、母は蘇我稲目の長女・堅塩姫(キタシヒメ)。欽明天皇の腹違いの兄である敏達天皇に嫁いだことになる。古代、母親が違えば結婚しても差し支えないという了解があった。子は必ず母方で育てられるからだろうか。現代ではもちろん違法だが。
 父も母も同じ兄の橘豊日皇子は後に第31代用明天皇として即位している。

日羅・・・日羅の父は「火葦北国造」であるアリシト(阿利斯登)で、12年条で日羅自らが述べているように、宣化天皇時代に大伴金村(日羅は金村を「わが君」と呼んでいる)の要請で百済に派遣されている。
 しかし金村が百済に任那の4県を割譲して失脚した(欽明元年=540年)あとも半島に居残ったようで、日羅はおそらく半島で生まれ育ち、任那滅亡後は百済に臣属したのであろう。そうでなければ、倭人である日羅が百済の非王族官僚では最高位の達率にはなれなかったはずだ。
 任那滅亡を目の当たりに見聞し、百済の高級官僚に昇進した日羅は、良策を献言できる人物としてふさわしかったため、招聘されたのに違いない。
 しかしひとつ腑に落ちない点がある。それは、これだけの人物であるのに、敏達天皇が直々に面接する場面がないことである。大和には一歩も入らず、難波止まりなのである。そう見極めてみると、日羅ははじめから葦北つまり今日の熊本県南部に帰省し、本国や南九州の勢力と共同で任那を回復しようとしていたと取れないことはない。そのことを嫌った大和側が、百済人と通じて日羅を暗殺させたのかもしれない。課題としておきたい。
 それはそうとして、日羅のような人物はとりわけ任那(旧弁韓諸国)には多かったに違いない。半島からの渡来人には違いないが、もともと倭人だったのが半島に行って住み着き、何らかの理由で帰ってくるタイプの倭人である。渡来人の中にはこのような「帰還人」がいることを、この日羅説話は証明しているのである

  
          (敏達紀の項終わり)                          目次に戻る