仲哀紀を読む

 誕生     父は日本武尊(ヤマトタケル)。母はフタジノイリヒメ(両道入姫=垂仁天皇の娘)。

和風諡号   書紀: 足仲彦(タラシナカツヒコ)
         古事記: 帯中日子( 〃 )


  宮    笥飯宮(ケヒノミヤ)=行宮=角鹿(古事記にはない)
        徳勒津宮(トクロツノミヤ)=行宮=紀伊国(古事記にはない)
        穴門豊浦宮
        橿日宮

 陵墓    河内長野陵   ※古事記では河内惠賀長江陵

  < 王妃・皇子・皇女 > 注:下段は古事記による名

T皇后・・・気長足姫(気長宿禰王の娘・母は葛城高額媛) 皇子 誉田別(ホムタワケ)
       息長帯ヒメ                        皇子 ホムヤワケ ホムタワケ

U王妃・・・大中姫(彦人大兄の娘) 皇子 ?(鹿に弭=カゴ)坂皇子 忍熊皇子
       大中津媛          皇子 香坂王 忍熊王
       弟姫(来熊田造・大酒主の娘) 皇子 誉屋別(ホムヤワケ)


 
  < 年代順の事績 >

事    績
元年 太歳壬申(みずのえさる)。古事記では丙辰(ひのえたつ)で、西暦356年と特定できる。
2年  正月11日に気長足姫を皇后に定め、翌2月6日に角鹿に行幸し、笥飯宮を建てる。3月になり、笥飯宮に皇后以下を留めたまま南国を巡狩し、紀伊国に到り、徳勒津宮に入る。
 このとき熊襲が背いたので、鎮定しようと徳勒津より九州へ向かう。
 角鹿にいる皇后に使いを立て、穴門で落ち合うことにする。
 7月5日、皇后も穴門に到着したので、宮を建てる。これを穴門豊浦宮という。
8年  正月4日、筑紫へ発つ。そこへ熊鰐(クマワニ=崗県主の祖)が船の舳先に白銅鏡・十握剣・八尺瓊を取り付けた榊を取り付け、周防の佐波の浦に現れ、恭順を示した。
 また同時に伊都県主の祖・五十迹手も同じように恭順し、穴門の引島に姿を見せた。
 天皇はこれを賞し、五十迹手のことを「伊蘇志(いそし)」と言った。これにより五十迹手の本国は「伊蘇国(いそのくに)」と言われるようになった。ところが、今は「伊都(いと)国」と言うようになってしまったが、それは誤りである。
 7月になって那ノ津(灘県)に到り、そこに橿日(かしひ)宮を建て、熊襲討伐の協議を行った。すると皇后に神が懸かり、「熊襲は空国であるから撃つほどのことも無い。それより新羅という宝の国があるから、それを討つがよい。そうすれば熊襲も自然と帰服しよう」とのことだったが、天皇は従わず、強いて熊襲を討つことにした。
9年  2月5日、天皇は急に病み痛み、あくる日には崩御した。
 皇后は5人の近臣に詔して緘口令を敷き、武内宿禰に命じて天皇の遺体をひそかに穴門豊浦宮に運ばせモガリをさせた。宿禰が戻ったのは、22日のことであった。

(注)
太歳の壬申と丙辰・・・日本書紀の壬申は、あくまでも神武天皇即位が辛酉年(紀元前660年)であるとし、さらに各天皇の異常な在位(長寿)をそのままに加算した挙句の壬申で、この場合の壬申は紀元後192年を指している。しかし2代前の景行天皇の年代はすでに「イワカムツカリ」と稲荷山古墳出土鉄剣銘から論証したように、4世紀の前半に当てられるので、仲哀天皇がその2〜30年後とみて、およそ350年前後は動かしえない。
 すると古事記の記載する仲哀天皇の即位年「丙辰=356年」は、これと完全に整合していることになる。したがってここでは仲哀天皇は西暦356年に即位したとみて何ら差し支えない。

気長足姫・・・言わずと知れた「神功皇后」の和風諡号である。古事記によれば、父方は開化天皇の子で祟神天皇の異母兄弟になる「日子坐(ひこいます)王」の血統で、<ヒコイマス―ヤマシロオオツツキマワカ―カニメイカヅチ―息長宿禰王―タラシヒメ>と続く(開化記)。
 また母方はというと、これも古事記に載っているが、新羅より渡来した「天之日矛」の血統で、<アメノヒボコ―タジマモロスク―タジマヒネ―タジマヒナラキ―キヨヒコ―ユラドミ(女)―カズラギタカヌカヒメ―タラシヒメ>と続く(応神記)。
 父方はともかく、渡来人の出自などけっして書かないはずの古事記が、その母親の祖先が半島の新羅からやって来たこと、しかも系譜まで余すことなく書き伝えている。これは稀有中の稀有なことで、むしろ異常と言ってよいほどである。ここまで書かせたものは何かを考え、また、次の神功皇后紀の神懸りの内容などを考え合わせると、書紀の記述が隠している「半島との関わり」が見えてきそうだ。

角鹿・・・ツヌガ。ツヌガは今の「敦賀」で、笥飯宮は「気比宮=気比大社」に比定される。角鹿は垂仁天皇のときにオオカラ国からやって来た「ツヌガアラシト」の漂着した場所で、それゆえ「ツヌガ(角鹿)」と名づけられたという由緒を持つ(「垂仁紀2年」の分注)。オオカラは前代の祟神天皇の諡号「ミマキ」をとって「ミマナ」と改名したとも分注にあり、ここでも朝鮮半島南部との関わりが濃厚である。

徳勒津宮・・・徳勒津について書紀の岩波本の頭注などでは、紀伊風土記の名草郡内の地名「?(草かんむりに解)津」(とけつ)があることから、そこのことだろうとする。だが、「とけつ」は「とくろつ」ではない。「とくろつ」の縮音化なら「とくつ」が順当で、「とけつ・ときつ」はむしろ発音しにくくなるので違うだろう。
 それより、なぜ天皇が敦賀に皇后や百官を置いたまま、こんなに遠く離れた紀伊までやって来たのかの理由が書かれていないのか――が不審である。「巡狩」のためとは書いてあるが、「巡狩」の中身の片鱗さえ窺がえないのだ。また北陸から紀伊までの間には大和があるわけだから、皇后はじめ百官を大和の王宮に連れ帰ったうえで、紀伊国に向かうのが常識というものだろう。
 以上から、紀伊国巡狩は無かったと結論付けられる。
 それでは徳勒津および徳勒津宮とは何か?
 それは魏志韓伝の弁韓の国家で、半島内の倭人国「狗邪韓国(クヤカンコク=金海市)」に接していたとされる弁韓12国の内のひとつ「弁辰涜盧国(トクロ国)」のことだろう。(「弁辰(ベンシン)」と付いているが、「弁辰」とは「辰韓を分けた弁韓」という意味で、弁韓国家群成立の事情を端的に表現した造語で、弁辰=弁韓として何ら差し支えない。)
 以上のように考えると、仲哀天皇ことタラシナカツヒコは「弁韓王」だった可能性がある。ただ350年前後の時代、半島南部では離合集散が進み、馬韓54国は「伯済国(百済の前身)」に、辰韓12国は「斯盧国(シロ国=新羅の前身)」に統合されつつあり、弁韓12国は「加羅または伽耶(ミマナ)」として独立を果たしつつある頃であった。
 後者のほぼ倭人国と言ってよい旧弁韓国家群(オオカラ国)を代表する首長の王子が、かって祟神天皇時代に仲哀天皇が行宮を建てたというまさにその角鹿に渡来した「ツヌガアラシト」であったわけだが、彼らが列島に渡航する際の港が「涜盧国(トクロ国)」の「津」つまり「徳勒津」であったとしてもムリなことではない。また、その港にあった王宮が「徳勒津宮」なのだろう。

 したがって、徳勒津を発って九州の熊襲を討とうとしたというのは、実は紀伊からなどではなく、半島南部から渡海遠征したことになるのである。列島以外のことをほとんど書かない古事記がこれを無視したのは、当然といえば言えよう。

熊鰐と五十迹手・・・熊鰐は福岡県最大の川・遠賀川河口の崗(おか=遠賀)を本拠地とする熊襲系の種族。3世紀後半に八女の邪馬台国を菊池川以南に勢力を張っていた狗奴国が侵攻し、併呑したあと、その勢いは九州北岸にまで達したが、その時以来、遠賀川の要衝を支配していたのだろう。
 また五十迹手(いそとて)は糸島地方に半島南部から勢力を扶植した「辰韓王」の一族で、魏が滅び、司馬将軍家が晋王朝を確立した265年ごろ、辰韓王であった祟神天皇(ミマキイリヒコ五十瓊殖=イソニエ)がここを拠点に北部九州の「大倭」の頭領に担ぎ上げられた直後に大和へ東征を敢行した後も、現地に残っていた親族の一人だろう。私は「垂仁紀」15年条に登場するヒバスヒメとの間の子で、景行天皇の兄に当たる「五十瓊敷入彦」が直接の先祖だと思う。
 五十迹手の支配する「伊都県」は「いとのあがた」と読まれるが、本来は「伊蘇県」で「いそのあがた」と読まれなければならないとは、この仲哀紀のみならず「筑前風土記」逸文でも指摘されていることで、これらを無視して相変わらず魏志倭人伝上の「伊都国」を糸島地方に比定する論者があとを絶たないのは不明という他ない。「伊都国」が糸島地方なら、なぜ壱岐から直接船を着けないのか、なぜ唐津に比定される「末盧国」で船を降り、そこからわざわざ海辺の難路を歩いて(陸行)糸島地方に行くのか、その合理的な説明を聞いたためしがない。

周防の佐波・・・熊鰐が仲哀天皇の一行に対して恭順の意を表すべく現れたところは周防(山口県)の佐波地方(佐波川河口一帯)であった。
 ここで不審がある。熊鰐が一行に恭順したのは、一行が畿内方面から穴門(下関一帯)に到着し、さらにそこを足場にして九州に入ってからである。そうすると、熊鰐の本拠地が福岡県の遠賀川河口であれば熊鰐は仲哀天皇の一行がすでに九州に向かっているのに、それを素通りして瀬戸内海の周防の佐波にまで行ったことになる。そんな事は有り得まい。
 ところが、仲哀天皇が半島南部の弁韓から九州島へ遠征してきたと考えると、熊鰐は崗県から追われ、落ち延びて瀬戸内海に入り、周防の佐波あたりで降伏したからそこでようやく恭順の意思を示した――と整合的に解釈できるのである。

仲哀天皇の崩御・・・9年条の分注にあるように、熊鰐以外の九州島の熊襲を討ちに行って逆に熊襲の反撃に遭い、それが元で死んだのは史実だと思う。ただ、その死を隠して遺体を九州の橿日宮から、穴門(山口県)の豊浦宮にひそかに運んだ――とあるが、海の向こうの新羅に知られないためというのは無理があり、それより同じ九州にいる熊襲に知られないようにするためと解釈すべきだろう。

五人の近臣・・・大臣である武内宿禰と、大夫クラスの「中臣イカツノ連」「大三輪オオトモヌシノ君」「物部イクイノ連」および「大伴タケモツノ連」の五人。
 このうち物部イクイ(膽咋)連は垂仁紀25年条に登場する「物部十千根」の子で、物部氏では初めて「宿禰姓」を賜ったとされる(『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」)。

                       (仲哀紀を読む・終り)    目次へ戻る