第二次「神武東征」について

     はじめに

 最初の神武東征は投馬国王タギシミミによる東征であったことは何度も述べたが、ではもう一度あった「神武東征」はいったいどのような東征であっただろうか。

 私はそれこそが「大倭」(九州北部倭国連合)によるものであり、その時の「大倭王」は祟神天皇であったと考えている。そして、祟神天皇は半島南部の辰韓王であり、魏の景初年間(237〜9)に起きた動乱の時、九州島へ亡命してきた人物であろうとも考えている。彼は魏志韓伝および魏志ワイ伝(ワイはさんずいに歳)によれば、実は箕子の末裔すなわち殷王朝の血筋である。

 この王統が亡命を余儀なくされ、半島南部にあまねく盛行していた航海民たちに担がれて「大倭」の王に就任したのだろう。亡命し上陸した先は糸島半島の「五十(イソ)」の地で、ここは「仲哀紀2年正月条」および「筑前国風土記逸文」によれば、そこは「五十トテ」が支配者で天皇にまめまめしく仕え奉ったので「いそし」と言われ、その結果「いその国」となったのだが、いつしか転訛して「いと」となってしまった――とある(糸島の糸の原音はイソであるゆえ、伊都をイトと読み「伊都国」を糸島地方に引き当てるのは誤りであることは既に何度も述べた)。

 祟神天皇の和風諡号を「みまきいりひこ五十にえ」、また子供の垂仁天皇の和風諡号を「いくめいりひこ五十さち」というように「五十」を織り込んでいるのは、天皇が「五十の地」つまり糸島半島を九州島における最初の根拠地にしたからであろう。

 さて、この祟神天皇をトップに戴くようになった「大倭」は、天皇が亡命してから約30年後に大和への東征を果たす。

 これが投馬国東征に次ぐ第二次の東征すなわち「大倭東征」である。「大倭東征」が史実であることを @東アジアの視点 A日本列島側の視点 の2点から論証してみよう。


    @ 東アジアの視点

 はじめに――でも触れたように、景初年間(237〜9)は朝鮮半島で帯方郡の設置をめぐって魏が積極的に介入した動乱の年であった。三韓にとっては公孫氏の圧力も困るが、魏の介入も迷惑であった。しかし公孫氏が敗れると、魏は三韓の各首長たちに印綬を濫発して魏の冊封体制に組み入れようとした。

 そんな中で辰韓十二国のうち八国が、帯方郡ならまだしも、はるかに遠い楽浪郡(北部朝鮮)に組み込まれてしまった。遠い北部朝鮮まで、年度代わりや季節ごとの貢納物を調達して届けたり、労役を負担しなければならなくなったのである。この間の事情を、魏志韓伝は

 「呉林という事務官が、帯方郡がなかった頃は楽浪郡しかなく、韓国はみな楽浪郡に属していたと考え、八国を楽浪郡に所属させた。ところがその処遇に納得できない諸国の首長は怒って、反旗を翻した(意訳)」

 と記す。

 戦いは帯方郡の当時の太守・弓遵(キュウジュン)が戦死するほど熾烈なものであった。一時優勢だった三韓軍も、楽浪・帯方両軍の攻勢にはかなわず、結局、敗れるところとなった。これを魏志韓伝は

 「二郡が遂に韓を滅した」

 と書いている。

 不思議なのは敗れたはずの韓側の首謀者(戦犯=最大は辰韓王のはずだ)を取り上げも、処罰もしていないことだ。もちろん「韓を滅した」を「滅亡させた」ととるのは早計だろう。韓は当然生き残っている。ただ和議を結んで終わったにしても、少なくとも戦犯である首謀者の連行か、処刑かの結末を述べていないのはどういうわけであろうか。

 私はこれらの状況から、首謀者つまり辰韓王は逃亡したと推理したのである。その行き先は九州島であった。もともと辰韓は、半島南部の文身(入れ墨)をした航海民系倭人たちの差配する土地にやってきた辰王率いる国であり、半島においてすでに十分に、倭人の本貫の地である九州島のことは聞いていたはずである。逃亡先として願ってもない海の向こうではないか。辰王の気持ちはすぐに固まったであろう。

 かくて辰韓王はついに箕子の朝鮮移住以来1200年余り、綿々と住み続けてきた朝鮮半島を捨て、九州島に王宮を移したのである。その最初の土地こそが「糸島(いそ=五十)地方」だったとは<はじめに>で述べた通りである。ただし、魏志韓伝が書くように馬韓には「月支(ツキシ=ツクシ)国」があって、そこは辰王(箕子の末裔・準王)が北部朝鮮から亡命してきた時(BC200年ごろ)に、初めて半島南部に造った国だが、3世紀当時はすでにいわゆるもぬけの殻であり、ただ馬韓人によって祖先祭祀だけが続けられていた。この「ツクシ国」のツクシは,別名で「白日別」と古事記の国生み段に登場する九州島北部の「筑紫国」から来た国名であろう。

 というのも半島南部の辰韓の地は今日の慶尚北道を中心とする地方だが、そこはのちの三国時代で言えば「新羅国」の領域に重なっている。このことから古事記は国生みの段で、九州島の北部を「筑紫国、別名は白日別」と紹介することで以上のような状況すなわち「半島南部から到来(亡命)した辰韓王が、大倭の地つまり九州北岸地域において倭人国連合の首長に担がれた」ことを、暗に示したのである。

 さて、ではこの大倭王・祟神天皇は何ゆえに東征を行ったのであろうか? それはやはり帯方郡までを完全に手中に収めた大陸王朝の魏が、三韓を足場にして大倭への干渉を強め、まかり間違えば長征軍を派遣してくるかも知れぬというプレッシャーを、いつも感じていなければならない状況にあったからだ。

 だが、幸いなことに明帝亡き後、魏は将軍・司馬氏の専横により内紛続きで、少なくとも司馬氏の政権が立ち上がる260年代半ばまで、長征の可能性は遠のいていた。しかし司馬氏の政権・晋が樹立されて内紛が終焉するに及んで、再び大倭に緊張が走った。司馬氏こそ半島で独立国家のような振る舞いをしていた公孫氏を制圧した大将軍一族だったのである。

 それが引き金になって、大倭王ことかっては辰韓王であった祟神は更なる亡命、つまり東征への意志を固めた。半島南部の倭人国家群で馴染み、倭人の本拠地である九州島でも十分に馴れ親しんだ祟神にとって、倭人列島の中心に進出することに何のためらいも感じていなかったはずである。まして次の代のイクメ皇子(垂仁)はオオヒコの娘ミマキヒメから亡命先の五十(イソ=糸島半島)で生まれているのだ。言葉も風習もすっかり倭人になったと言ってよかった。


     A 日本列島側の視点


 古事記は神武(カムヤマトイワレヒコ)の東征を描き、大和の橿原に王都を開いた鼻祖であるとし、さらに十代目の祟神天皇を「ハツクニシラス御真木(ミマキ)天皇」と称えている。
 日本書紀では神武を「始ギョ(馬へんに又)天下之天皇」とし、祟神を「御肇国天皇」と記す。若干のニュアンスの差はあるものの、どちらも「天下を治め、統一国家を樹立した天皇」と言っているとして良い。

 すなわち古事記も日本書紀もともに大きく「二つの王統による大和王権樹立が二度あった」と書いているのである。このことを全く無視するのが今日の歴史学で、それどころか日本古代史学にとってはそもそも東征そのものが有り得ないということになっている。

 私は、二つの勢力による時期をたがえた二度の大和王権樹立があり、しかもどちらも九州島からの東征によってなされたと考えるのだ。

 さて、記紀のいわゆる神武東征説話ではイワレヒコによる日向からの東征が描かれている。私見ではそれを疑わずに認めようというものだが、ただ、大きな問題がひとつある。それは古事記の東征所要期間と書紀の東征所要期間とに極めて大きな相違があるということだ。完成の時期に8年の開きしかなく、したがって同時に読み比べることが可能な二書の間に、以下の表のような数値上の違いがあるが、これは読み比べた者なら到底看過できず、書き改めるのに何の造作もないはずなのにそのままにしてあるという不思議である。

   表ー1 < 東征途上の行宮における滞在期間 >

行宮の名 宇佐宮 岡田(崗)宮 安芸宮 吉備宮 総滞在期間
古事記(a) 不明 1年 7年 8年 16年余り
日本書紀(b) 1ヶ月以内 1ヶ月余り 2ヶ月余り 3年 3年4ヶ月
比(a÷b) 不能 約12 約42 約2.7 約4.8

 この表は神武一行が東征途上に設けた行宮で、何ヶ月あるいは何年そこに滞在したかを、古事記、書紀それぞれの記載通りに抽出したものである。さらにそれぞれの宮に於ける両書の滞在期間の比を計算して示してある。
 
 一見して分かることは、両書の滞在期間のはなはだしい違いで、これを有力な説では「古事記の元になった古書の滞在期間と、書紀が元にした古書の滞在期間が違っていたからだ」とする。また、神武東征はなかったことはこのようなでたらめぶりで明らかだ、つまりは造作なのだ――と、造作のひとつの根拠にしてしまう考えもある。

 まず最初の説を考えてみよう。この説を採る者は神武東征を否定はしない。ただ両書の数値の違いは依拠した古書の年紀すなわち年月日の数え方の違いからそうなったのだろうと言う。だが比を取ってみると同じ宮における比の値はすべてまちまちなのである。もし同じ東征の同じ宮に於ける滞在期間であれば、数え方が違うにしても比の値は一定でなければならない。たとえば一方は中国暦で数え、他方はいわゆる二倍年暦で数えたという場合、比の値はどれもきっちり2(もしくは2分の一)となるはずである。

 あとの説を吟味してみよう。この説は、どうせ神武東征など無かった事をあったかのように造作したのだから、数字など何でもいいのだ――と言うわけであろう。なるほど言い得て妙だ。だが、でたらめにしても古事記と書紀とで数字を統一してもよかったのではないか。上の表のように、年月日も一致しない、比の値も一致しない、つまり一見しただけで分かる数字のでたらめぶりは堂々としていて恐れ入るほどだが、しかし、こうもはっきりでたらめだと、読むほうも馬鹿馬鹿しくなろう。先に触れたように、数値を一致させるのは造作もないことだ。しかも、一致させてなんら内容に影響を及ぼすことはないのである。したがってそうしなかったのには理由があると考えざるを得ない。

 私はこれらのことから、神武東征は史実であり、しかも二回の東征があったと結論付けた。つまり古事記記載の滞在期間で表された東征と、書紀のそれで表された東征の二回である。
 では、どちらが一回目の東征であろうか。それは古事記の描く東征だろう。投馬国東征は切羽詰った政治状況からではなく、漢帝国のような諸制度の完備した中央集権国家を造りたい、という言わば理想主義に基づくものだったからだろう。したがって東征といっても九州南部からの根こそぎの東征ではなく、九州島にかなりの勢力を温存しつつの東征であり、それゆえ時間もたっぷり必要だった。。

 それに対して二回目の北部九州「大倭」のものは、大陸からの侵略という危機感のもとでの東征であり、したがって大規模な、つまりは根こそぎの東征だった。だから途中の瀬戸内勢力との確執はさっさと片をつけて、早く大和地方という安全地帯に自己を扶植する必要があった。これが一回目と比べ、わずか三年という短期間で東征を完遂した理由である。


 祟神天皇の事績からも、二回目の「大倭東征」の真相がうかがい知れる。祟神3年に磯城に瑞垣宮を建てたあとからの事績を年紀を追って示すと

4年 冬10月。 詔を発する(内容は、皇祖の徳を引き継いで、天下を安らかにしよう、というもの)

5年 国の内に疾疫(えやみ=流行病)が多く、民の大半が瀕死の状態になった

6年 民の内に逃亡するものや反抗するものがあり、徳を以ても治められないので、神祇を祭るほかなくなった。磯城に王宮を建てた時に、アマテラス大神と倭(やまと)大国魂神とを王宮内に一緒に祭ったが、神の勢いが強くて安らかでないので、王宮から離して祭ろうと、アマテラス大神はトヨスキイリヒメに、大国魂神はヌナキイリヒメにつけて祭らせた。だが、ヌナキイリヒメは髪落ちやせて、祭ることができなかった。

7年 春2月。 詔を発する(内容は、国内が大混乱しているのは何らかの神罰だろうか、それを確かめたい、というもの)。その結果、モモソヒメなどに神懸りがあり、「大物主神を祭れば治まる。祭り主としてはオオタタネコがよい。また、大国魂神の祭り主はイチシナガオチを充てよ(意訳)」と示される。その他八十神をもあわせて祭ると、疾疫は終息し、国内は平穏になって民は賑わうようになった。 

 ということになる。

 ここで不思議なのは、もし(たとえ造作にせよ)祟神天皇が大和の巻向地方自生の天皇であるのならば、大物主神、倭(やまと)大国魂神というような、祟神即位より以前に大和に祭られていたこれらの神々を無視して王朝を樹ててしまうだろうか。つまり大和が父祖代々の土地であるのならば、当然このような重大な神々を忘れてしまうはずがないのだ。とくに古代に於いては全く考えられないことである。

 ところが祟神天皇が大和とは無縁の外来者であるとすると、この点はすんなりと説明がつく。最初の大物主神については、その神を主神と仰ぐ勢力との抗争があったことを思わせ、あとの大国魂神については、祟神たちがまさに大和という土地の者ではなかったが故に、ヌナキイリヒメが髪落ち、やせてしまって祭ることが不可能だったのだろう。

 祟神天皇の事績では、もうひとつ<外来性>を示すものがある。

 それは、上の祟神7年から三年後の10年に起こった「タケハニヤスヒコの叛乱」だ。正確に言うと「タケハニヤスヒコ・アタヒメ夫婦の叛乱」と言うべきで、10年に敢行した四道将軍の国内派遣の過程で勃発した大規模な叛乱である。

 四道将軍のひとり、オオヒコが北陸道へ赴く途中、まだ大和地方北部の和邇坂を通過している時に、神懸りの童女によってタケハニヤスらの謀反が発覚した。また妻のアタヒメは「香具山に登って、そこの土を採り、これは倭(やまと)国の物実(ものしろ)と言いながらひそかに持ち帰った」と噂されていた。これは神武天皇が大和入りしたときに、やはり香具山の土を採取させて土器を作り、神々への祭りを行ったという故事と全く同質である。

 このアタヒメの行為は、彼等が神武(実は、南九州投馬国の王・タギシミミ)王統の直系である事を示している。だからこそ、非神武系である祟神天皇は容認できず、叛乱(謀反)と認定したのだ。逆に言うならアタヒメたちは、自分たちの神武(タギシミミ)王統を北九州からの外来王である祟神天皇に明け渡すまいと、必死の抵抗を試みたのである。タケハニヤスは山代国のほうから木津川を越えて、またアタヒメは河内国から大和川に沿ってそれぞれ反乱軍を率いて大和に入って来た(祟神紀十年条)というから、その規模の大きさが知れよう。

 しかし結果は神武王統側の惨敗であった。これによって南九州投馬国由来の王統は絶たれた。さらに古事記の祟神記からは、丹波国へ遣わされたヒコイマス将軍によって、「クガミミノミカサ」という投馬国由来の「ミミ」名を持つ京都北部の久我地方の首長が誅殺されたことが分かる。名前からして『山城国風土記逸文』に載る襲の国から葛城地方に東遷し、のちに京都北部に移動した「カモタケツヌミ(カモタケツミミ)」(下鴨神社の祭神)の後裔であろう。やはり旧王統の有力者は祟神に抵抗したのである。

 いずれにしても、祟神天皇治世の十年目、さしもの強大な旧王統すなわち投馬国王統は、新王統すなわち北部九州からやって来た「大倭」の担ぐ祟神王統(1200年余り前をたどれば大陸の殷王朝の流れ)に完全に取って代わられた。・・・しかしこの祟神王統も、仲哀天皇の子とされるカゴサカ、オシクマ両皇子まで続いたあと、再び九州島由来の神功皇后ー応神天皇系に替わる。

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