熊襲と隼人ーDで述べたように『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」には、決して誤記するはずのない短い文の中に互いに別の国として二つの「大倭国」があった。

 私見では最初の「大倭国」は「タイワ国」であり、あとの「大倭国」(実際には「大倭国造」として使われている)は「やまと国」である。
 一般に「大和」と書いて「やまと」と読むことに誰も怪しまないが、そもそも「大」にも「和」にも「やまと」という音価は全くないわけであるから、「大和」は「やまと」の当て字に過ぎない。

 「やまと」には何種類かの漢字が当てられている。
 古事記で最も古い用例は上巻の〈アマテラス・スサノオのうけひによる子生み〉に於けるアマツヒコネ命の子孫「倭田中直(やまとのたなかのあたい)」の「倭」だろう。一方、日本書紀では巻の第一〈スサノオの出雲降りのあと、オオナムチ神が中つ国を治めたという段〉の別書の六に「日本(やまと)国の三諸(みもろ)山に住まんと欲す」という箇所だろう。三諸山とは三輪山のことである。
 また、万葉集では雄略天皇の歌の中に「山跡国」と書かれているが、これは一見古いようだが、当然、編纂時代の8世紀半ば頃の表記であり、採用することはできない。

 これだけ多様に当てられているということは、当てられた漢字が問題なのではなく、「やまと」という音価こそが大切である。これだけは決して変えられないということを、逆に強く表明しているといって良いだろう。
 

    「大倭(タイワ)国」の東征

 では「大倭(タイワ)」が「大和」に変わり、さらに「大和」の音価が「やまと」になったのはなぜだろうか。

 『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」が記すように、「大倭国」の一つは九州北部に存在した。それは「魏志倭人伝」にも記載された「大倭」そのもの、つまり九州北部の倭人連合国家だった。この倭人連合国家は古事記では「筑紫国=白日別」と書かれ、邪馬台国(女王国)とは別の国家であった。因みに邪馬台国は「肥国=建日向日豊久士比泥別」であり、狗奴国と投馬国はひっくるめて「建日別=熊曽国」としてある。また豊国は「豊日別」とされている。

 私見ではこれら九州島の国家群のうち、まず投馬国王タギシミミが南九州から東征し(2世紀前半)、そのあとの3世紀後半に九州北部倭人連合(大倭)が2度目の東征を行ったとする。2度目の「大倭」の東征後、今日の大和地方がまず「大倭国」と認識されるようになった。

 しかし「大倭」がすぐに「やまと」と呼ばれるようになったのではない。その呼称は3世紀の魏志倭人伝上に記された邪馬台国から来ていることは明白だろう。このことについて古田史学では「邪馬台国はなかった。あったのは邪馬壱国だった」と、倭人伝にしか見られない「壱」を基準字として執着し、そんな時代から近畿大和があった訳がないとしてあくまで「近畿邪馬台国説」論破の切り札にするのだが、余りに固執し過ぎて肝心の九州島内部の国家間の関係について「九州王朝」説の一点張りから、おろそかになっているのは残念なことである。

 ではその時期はいつだろうか?
 私見では「大倭」東征すなわち筑紫国(白日別)の東征の時の大王は、記紀の上では祟神天皇であったから、およそ西暦260年代後半のことであった。祟神紀によると元年から九年まで、様々な国家的大混乱に見舞われている。特に国津神である大物主神(三輪王朝)、大国魂神の鎮祭には難儀をしており、またアマテラス神に関してはトヨスキイリヒメに託し、笠縫邑にヒモロギを立てて祭らせているが、神武天皇の時にはこういったことはなかった。
 祟神天皇を神武天皇(その実は投馬国王タギシミミ)王統とは別の王統であったとすれば、そういった混乱が頻発したわけがよく理解できる。またハツクニシラススメラミコトが二人いるのは、東征が二度あったと解釈すれば取り立てて首を傾げるほどのこともないだろう。実際、二度「大和王権」が建てられたのである。

    
    「やまと」の語源は?

 「やまと」は邪馬台国から来たと言ったが、そもそも「やまと」という和語の意味する物は何だろうか。
 ほとんどの研究者は「山門」すなわち「山の入口」の意味の「やまと」だろうと言うし、さっき挙げた万葉集に出る「山跡」が語源だとする者もいる。どちらも「やま」は「山」の意味だとする点では同じである。

 「山」は日本列島で目に付かない所はなく、またそれゆえ「山の入口」も同じくらい存在する。それほどありふれ、と同時に平地に水をもたらしてくれる大切な存在が「山」に他ならない。だから最も普遍的な地理上の存在物を地方名(国名)に付けた――「やまと=山門」説はこのような論法になるが、逆に列島中いたる所にある普通名詞を、政治的・文化的に日本の中心である最も大事な地域の名とするのはどうだろうか。余りに軽すぎはしないだろうか。仮に「山」を入れるにしても、そこにしかない山名、たとえば三輪山、二上山、葛城山などを冠すれば排他的命名となり権威が保たれるはずである。

 そうしなかったということは「やま」に「山」の意味はないと言っているのだろう。
 では、どんな意味が考えられるのか?
 私見ではそもそも「やまと」の音源である邪馬台国の解釈に違いがある。邪馬台国とは「天津日嗣の国」ということだったのである。これをローマ字化して説明してみよう.。
 当時の中国の使者は、女王国のことを倭人から聞いて次のように記した。

     邪馬台=ヤマタイ=yamatai
 
 この記録の元になった倭人の言葉を、筆者は次のように考える。

     amatuhitugi(天津日嗣)

 これを中国側は母音始まりは言いにくいため頭に[y]を付けて

     yamatuitu(ヤマツイツ)→yamatui(ヤマツイ)→yamatai(ヤマタイ)=邪馬台

 と書き表した。

 倭人側は「天津日嗣のヒメミコのおわす国」などとフルネームを言ったのだろうが、簡略と卑字を旨とする中国側の文書には以上のような経緯で「邪馬台」と書かれてしまったのだろう。

 筆者は「天津日嗣のヒメミコのおわす国」という概念が生まれたのは、倭人伝に記されたように九州の陥った長い戦乱時代(桓帝と霊帝の間=2世紀後半)が卑弥呼の出現でようやく収まったことに起因すると思う。つまりそれは単に他に擁立すべき男王たちがいなくなってしまったからではなく、卑弥呼の霊力あるいは呪能力が「天津日」を自らの身に引き寄せることを可能にした、言葉を変えていえば「天津日」が他の王たちにではなく卑弥呼その人だけに「降臨」したからだろうと考える。卑弥呼とはそれほどの大巫女だったのである。

 この「天津日嗣」から変化した「邪馬台→やまと」だからこそ、列島の中心王権の「国名」として取り入れられ、同時に排他的命名と成り得たのである。そして東征を果たした北部九州「大倭(タイワ)」が漢字はそのままにして音価の「やまと」だけを我が物にした。やがて6世紀の末から7世紀の初めにかけての聖徳太子治世のころ、和を重んじたため「倭」にかえて「和」が使用され、次第に普及して行ったと思われる。

 因みに前節で豊国(別名・豊日別)に触れたが、豊国の名は卑弥呼のあとに擁立されたトヨから来ているとしてよい。ただし豊国の創立は女王国の南にあった狗奴国による進攻の結果、落ち延びたトヨが亡命政権を立てたことによる。それは祟神天皇の「大倭東征」の直後の260年代後半のことで、祟神紀6年条に「天照大神をトヨスキイリヒメに託して倭の笠縫邑に祭らせた」とあるトヨスキイリヒメ(豊の王城に入った姫)とはこのトヨのことだろう。
 外来王である祟神が結局、最高神アマテラスを祭るという大仕事を「天津日嗣」の体得者である大巫女王・卑弥呼のあとを継ぐトヨに委託せざるを得なかった、という経緯が看て取れるのである。


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