大 隅 史 談 会

 ―平成26年度月例会― 

    
第2回 6月例会

日 時   6月22日(日) 13:30〜16:30

テーマ  「国司塚(鹿屋市永野田町)をめぐる謎」
        
―国司塚の被葬者は誰か?

発表者  松下高明
(会長) 新留俊幸(会員・監事)

会 場  県民健康プラザ鹿屋健康増進センター健康科学教室
       
(※問い合わせの際の略称では「ケンプラ小ホール」とします。)

参加料  500円(資料代・会場費)


 ※会場アクセス…県立鹿屋農業高校より北東へ約200b右側。県民医療センターの隣り。
 ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)



     ー6月の月例会における発表の様子

※6月月例会(26年度第2回)を6月22日(日)、先月の第1回と同じ県民健康プラザ・鹿屋健康増進センター内の健康科学教室を会場として開催した。
 種子屋久そして薩摩大隅にも大雨・洪水警報が出される中、15名の参加者を得て二人の発表者が論戦を繰り広げた。

  【発表の内容(概要)】

 テーマは「鹿屋市永野田町にある国司塚について」。
 <国司塚>は塚から東に150mほど離れた「永田家」が代々その祭祀を施行してきて1200年以上になるという稀有な塚(墓)であるが、地元の定説では、「大隅地方が日向から分立して大隅国となったあと、中央から赴任してきた初代国司・陽侯史麻呂が鹿屋地方に巡見して来たとき、地元の住民すなわち大隅隼人によって襲われ、逃れてきて息絶えた場所」であるとする。

 この見解に対して異議を唱えたのが、本会会長・松下高明で、「国司塚と今は呼ばれているが、ここは律令制度の下で中央集権を推し進めてきた大和王権に対する地元の首長、とくに正史『続日本紀』に名の見える肝衝難波(きもつきなにわ)もしくはその一族の有力者が反抗の果てに殺害された場所と解釈するのが至当」という考えである。
 これに対して、地元永野田出身の本会監事・新留俊幸は、「子どものころからここを、<こくっさー(国司様)>と呼びならわし、少年時代には祭りに参加したこともあり、祭られているのは大隅国国司以外に考えられない」と、真っ向から反論した。



   ○第一発表者(松下)の解釈

 まずは、松下が国司塚の概要(上記)を現地の写真をスクリーンに映しながら説明し、さらに鹿屋中心部・市役所の近くにはかって「国司山」「国司城」と呼ばれる小丘があったこと、また、それ以外にも「国司」を冠する伝承地が @古江に2か所=国司山・墓 A下祓川大園=国司殿 B田崎神社裏=国司山 C永野田(問題になっている国司塚)にも国司山 というふうにかなりの数の国司関連の伝承地が散在していることを提示した(明治37年発行の旧5万分の1地形図を映写)。
 (※定説では鹿屋中心部の国司城・国司山その他周辺の国司関連の施設は、すべて官側すなわち国分にあった大隅国府からはあまりにも遠いので巡見のための国司の館を設けたものであろう―とするが、まず第一に数が多すぎるし、鹿屋地区以外の高山や志布志などの辺境に伝承地が一つもないのも解せないことである。)
 そして市役所の近くの国司山・国司城こそが「曽の国の一つの中心地」であり、大隅半島部における古代以前の中心地であった、との見解を示した。その上で、それ以外の国司山・国司殿などの施設名的な伝承地は鹿屋中心部の国司城を守る防衛拠点だったのではないか、と述べた。

 ではその中心にいた地元の豪族とはいったい誰だったのか。それは『続日本紀』の西暦で700年の項に登場する大隅地区ではただひとり名の挙げられた「肝衝難波(キモツキ・ナニワ)」であろう。この難波は700年に薩摩半島側の豪族・薩摩ヒメ・クメ・ハヅおよび衣君(えのきみ)アガタ・テジミとともに中央天武朝)から派遣された調査団に脅威を与えたとして処罰されているが、その2年後(702年)には薩摩国が設置され、さらに713年には大隅国が設置されている。
 どちらも建国時には地元首長層を中心とする叛乱が起きており、713年の大隅国設置の際には相当な規模の戦乱があったらしく、その年の7月5日の記事には、「隼人を討った将兵1280余人に授勲(褒美を与える)した」とあり、この時点で大隅半島部の隼人たちが中央王権に組み込まれたわけである。おそらく最後まで反抗したのが肝衝難波一族であろう。官軍の進撃で海からは古江の国司山という拠点、山手側からは下祓川の大園の国司殿という拠点が次々に陥落させられ、難波らは中心部の国司城を捨てて、東の拠点である永野田の国司山まで逃れたが、そこで命尽きたに違いない。

 以上から考えると、国司塚に祭られているのは肝衝難波その人である可能性が高い。官側にとっては賊軍の将であるわけで、であればこそおおっぴらには祀られず、何の墓地的な施設(墓石・建屋)を設けられず、まるで人目を避け、世を憚るようにひっそりと祀られ続けているのであろう。
 祀りの仕方も実に単純素朴で、ただ紙の幣を魂の憑代に見立てて地面に突き立ててある。また祝詞を巻紙に書いてはあるのだが「黙読」で行われているが、これについては先先代の当主で普選衆議院議員であった永田良吉が昭和天皇の即位式に参向したおり、宮中の賢所においても黙読で行われるのを目の当たりにし、「オイが家のと同じじゃライよ」といたく感動したという逸話が残っている。
 この事を捉えて、「中央王朝のやり方がそのまま現地の祭祀になっている。朝廷から派遣された陽侯史麻呂だからこそ朝廷の儀式を踏襲している。やはり眠っているのは大隅国司陽侯史麻呂である」―と、陽侯史麻呂の塚であることの理由に挙げる人がいるが、そうではないだろう。むしろ逆で、大隅を含む旧日向国からの「神武東征」でこちらから祭祀文化がもたらされたからこそ、この儀式(やり方)が向こう、つまり大和王権の中に取り込まれたと考えてよいのではないか。

 祭祀のやり方でどちらが先かは置いておくが、勝った方の官軍側の指導者(国司)の墓が現地に残り、しかも30年・40年ならともかく、連綿と1200年、1300年も祭られ続けるなどということは常識的には考えられない。勝った側の中心人物と言える国司の遺骨は骨送使によって大和本庁に送られて本葬が行われ、その後、遺骨は丁重に遺族の元に返され、遺族が一族の墓に葬るはずである。そこでなら連綿と祭祀が続けられて当然のことだが、永野田はただ官命によって赴任し、そこで命を終えたというだけの場所であり、もともと国司にとって縁もゆかりもない土地で祀られ続けるはずがないのである。現地永野田の住民(隼人)がことのほか人情に厚く、国司陽侯史麻呂が気の毒でしょうがないから遺骨は無いけれど、死に場所を墓に見立ててお祀りしました―という考えもあるようだが、そうだとしても先に触れたようにせいぜい30年・40年位なもので、跡に石碑か祠のような記念物が設置されるだけであろう。もしそうであれば大隅国府から毎年命日に答礼使のような使者が来てもおかしくないし、その内に立派な神社の如き建屋が建立されてもおかしくないが、そのようなことはこれまでに一切なく、上述のようにひっそりと人目を憚るような祭祀が行われているに過ぎない。

 ゆえにどう考えても国司塚が勝った側の貴人(国司=最高指導者)を慰霊する施設では有り得ない。
 ここは負けた側すなわち当時の大隅半島における大首長であった肝衝難波か、その一族でも高位の者(難波の嫡男クラス)が、官軍に追われてそこで無念の内に息絶えた場所であろう。遺骸のうち首は取られて国分もしくは大宰府あたりに送られただろうからそこにはないと思われるが、その他の遺骸の一部は埋葬されているかもしれない。この地は難波の一族でかろうじて生き残った今の祭主・永田家につながる人びとが
代々ひっそりと祀りを行ってきた霊地であるから、当然のことながら不浄を嫌い、それを冒した者に対しては様々な「懲らしめ現象」が起こるのは止むをえまい。


    ○第二発表者(新留)の解釈
 
 発表者の生まれ育った所であり、子どもの頃に「こくっさー(国司様)」の祭りに参加していた。「大隅国司の墓」と言われつつ育ったので、子ども心に偉く大切な人物であると胸に刻んできた。それを否定されると何だか侮辱を受けたようで心穏やかでいられない。以下に松下説への反論を挙げる。

@ 713年の大隅建国時に大隅の大首長である肝衝難波が殺害されたとすれば、720年の国司殺害に端を発する大規模な隼人の反乱は起こり得なかったのではないか。したがって713年に肝衝難波が殺害されたとは考えにくい。

A 永野田の国司塚に陽侯史麻呂の遺骨はなく、つまり本当の墓ではなく「慰霊の場」である。陽侯史麻呂はここで命を落としたが、国司の遺骸は中央に引き取られ、向こうで葬儀、埋葬がなされた。このことは松下説の通りであろう。

B 遺骨が永野田にない以上、慰霊祭を催すとしたら当然中央(国分か大宰府)ではないか。遺族を含め関係者が遠い辺境の地まで来るのは大変な労力だ。ましてや新制度の出鼻をくじかれ、メンツを潰された朝廷側とすれば、国司殺害の場所は千秋万代の恨みを残した屈辱の地でもある。従って、永野田の国司山で朝廷主催の慰霊祭を催すことは有り得ないと考える。
  今日まで永田家に残る慰霊祭は、初代国司の無念の死を不憫に思った永田家の祖先をはじめ、地元の住民たちが人知れず、ひっそりと行い、受け継がれて来たものであると考える。

C 陽侯史麻呂の出自は『続日本紀』に見える隋からの帰化僧らしい。そこで陽侯史麻呂が亡くなったとすると仏教式に祀られるのが筋で、永野田の国司塚のように神道的な祭祀なのはおかしい―と松下説にあるが、国司塚を祭った現地住民は陽侯史麻呂が仏教徒であることを知らず、また仮に解ったとしても仏教とはどんなものか、どんな祀り方をすればよいかを知らなかった。当寺の社会状況からして、仏教は異国から来たわけの分からない難しい教えとしか住民には映らなかったと考えられるので、仏教式に祀ることはできず、現地の習俗に倣ったやり方で祀ったに違いない。

  また、国司塚では「礼節厳守」とともに「女人禁制」ということが昔から言われ、禁を冒すと数々の「罰当たり」的な現象が起きてて来たが、陽侯史麻呂が仏教僧の出身であればこの事はよく理解できるのである。


 
※両者がっぷり四つのまま譲らず、どちらが正解か否かの結論は持ち越すことになったが、それはそれでいいと思う。歴史の謎については種々の解釈があって当然なのである。
 様様な解釈の篩を通すことにより次第に真実の核心に迫って行ければこれに越したことはない。

※次回の月例会は7月27日(日)13:30から、会場は同じケンプラ小ホールで。
 発表者は本会理事の武田悦孝氏「クマソへの旅」と松下「邪馬台国・投馬国・狗奴国」の二名。


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