大 隅 史 談 会

 ―平成26年度月例会― 

    
第3回 7月例会

日 時   7月27日(日) 13:30〜16:30

 テーマ   ・「クマソへの旅」 武田悦孝
  & 
 発表者   ・「邪馬台国・投馬国・狗奴国」 松下高明
 

 会 場  県民健康プラザ鹿屋健康増進センター健康科学教室
       
(※問い合わせの際の略称では「ケンプラ小ホール」とします。)

 参加料  500円(資料代・会場費)


 
※会場アクセス…県立鹿屋農業高校より北東へ約200b右側。県民医療センターの隣り。
 ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)



 大隅史談会7月例会 発表の様子(鹿屋健康増進センター健康科学教室)


(1)「クマソへの旅」 発表者 武田悦孝氏13:30〜15:45

 【発表の内容】…(大隅史談会発行 『史論集 大隅57号』に掲載の氏の論考に基づく。)

 <概要>
 武田氏の論考では、―「クマソ」とは南九州の中でも古日向(宮崎・鹿児島)領域の人びとで、実はそこに魏志倭人伝に言う「狗奴国」があり、その狗奴国は大陸に同時代(三国志の時代)に存在した呉国との繋がりを濃厚に持っており、呉が北方の魏に敗れたあと、王族である孫氏が南九州に亡命し狗奴国内に亡命王権を樹立した。
 南九州にニニギノミコトがいわゆる「天孫降臨」し、南九州日向で「皇孫三代」そして「神武東征」へという一般的に「天孫降臨神話」「日向神話」という形で記紀にまとめられたのだが、その中で「天孫」「皇孫」というふうに「孫」という言葉を使用しているのは、呉の王族「孫氏」が南九州に渡って来て王権を樹立したことを暗示しているのである―というものである。

 以下に、30ページ近い長文(400字詰め原稿用紙で120枚弱)の最後に近い結論の部分をそのまま掲載する。

 …考古学者で古代学を努力目標とする森浩一氏は、「江南とは長江(揚子江)下流の南の地域。中国の統一国家の中心にはなりにくかったが、生産力は高く、文化も中国をリードした地域であり、古墳時代の日本列島で大量に製作された三角縁神獣鏡の諸要素を生みだした故郷である」とし、さらに、「黄龍二(230)年、呉の孫権は二人の将軍に甲士1万人を率いさせ、航海して夷洲と亶洲に遣わした。夷洲は台湾と見られ、亶洲は種子島とその周辺の土地、ことによると大隅半島も含む地域とみることもできる」、と述べており、江南および孫呉と日本列島との交流の可能性を指摘している。また、古代史の泰斗である直木孝次郎氏は「広い海が文化を遠くまで運ぶ」とし、江南地方の風土・風俗と、倭の地のそれとの類似について説明している。

 江南と九州島とをつなぐ東シナ海横断ルートがあったことは、『三国志』の著者の陳寿も知っていたと思われる。東シナ海横断ルートの航海は、帆船の出現以後に利用が盛んになったことは言うまでもないが、日本での帆船の出現は、2、3世紀まで遡ることが明らかになってきた。太平洋戦争の末期、中国に侵攻していた日本軍の物資・補給路を舟山群島のジャンク(帆船)の協力でカバーすることが行われ、舟山群島と五島列島を経て唐津に至る航海が試みられたが、一昼夜で五島列島についている。その時々の潮流の知識があると想像以上に短時間での航海ができるのである。

 呉が依拠した長江中下流域は、造船業が発達し、長江や会場を使った貿易が盛んに行われていた。また、呉は南船北馬といわれた強力な水軍を有していたことから、呉の孫氏にとって、日本列島への渡航はそれほど困難なことではなかったとおもわれる。

 呉は252年に絶大な指導力を発揮して国を一つにまとめていた皇帝孫権が逝去すると、皇族の内紛が激化(257〜258年)し、その後、国力は衰退の一途をたどり、280年、ついに亡びた。

 その動乱の時代、呉から日本列島に渡来した皇族の孫氏がいた。彼らは日本列島で大いなる成功をおさめ、その人々を頼って、あとから渡来し、ヤマタに住むことになった親類縁者が、呉津孫(くれつひこ=引用者注)神を祖神とし祀ったのではないか、と私は考えている。

 ところで、梅原猛氏は、天孫族は弥生時代の中〜後期に海路日本にやって来て笠沙の地に上陸し、自衛可能で新しい国をつくることができるだけの武力と発達した稲作農業と養蚕などの技術を持っていて、日向を舞台として活躍した人々であり、4代目の神武天皇が大和を占領して大王となり、この大王家がのちに日本全国を征服して天皇家になった、と述べている。

 この「天孫」という表記は『古事記』におけるものであり、『日本書紀』では主に「皇孫」と表記されており、両者ともに「孫」という文字が共通している。私はこの孫という文字に天孫族の原義が保存されているのではないかと考えている。つまり「孫」とは、「呉の皇族の孫」ということである。『記紀』の作者は意外に素直な気持ちを持っていて、真実をそのまま記述したのかもしれない。

 ちなみに、先にも述べたように、日本という国号はふつう呉音により「ニッホン」と音じる。呉音よりもモダンな漢音では「ジッホン」となる。私は、国号を敢えて呉音でもって音じていることから、日本という国をつくり上げ、日本という国号を初めて公称した人々の中に秘められた、呉と呉音に対する深い想いを感じるのである。

 われわれは、クマソ・ハヤトに関する伝承や記録を盲目的に高く評価すべきではないが、また不当に低く評価すべきでもない。クマソ・ハヤトに関する伝承や記録を大切にして、わが国をつくりあげた歴史の真の姿を、客観的かつ冷静に解き明かしていくべきではないだろうか。
             
              
 (『史論集 大隅57号』武田論攷「クマソへの旅」P.27〜8より)


(2)「邪馬台国・投馬国・狗奴国」 発表者 
松下高明・・・16:00〜16:45

 
【発表の内容】…九州説であり、自著を含めて4冊の九州説の本と畿内説を1冊紹介した。

 @ 自著 『邪馬台国真論』
       ・伊都国・・・佐賀県東松浦郡厳木町(末廬国の唐津から東南へ陸行500里)
       ・投馬国・・・古日向(宮崎県+鹿児島県)・・・帯方郡から水行20日
       ・邪馬台国・・・福岡県八女市郡域・・・帯方郡から水行10日・陸行一月
       ・狗奴国・・・八女市郡域の南で菊池川の北側までの熊本県域
         ※倭人伝の記述を改変したり無視したりせず解釈をしている。

 A 河野俊章 『予言 大隅邪馬台国』
       ・伊都国・・・福岡県糸島市
       ・投馬国・・・宮崎県西都市
       ・邪馬台国・・・鹿児島県大隅半島部
       ・狗奴国・・・同 薩摩半島部
         ※西都から大隅まで船で10日もかかるとする。大隅にある唐仁古墳群の盟主「          唐仁大塚古墳」を卑弥呼の墓と推定しているが、卑弥呼の死亡年代は250年で         あり、大塚古墳の推定築造年代400年代前半とは大きくかけ離れている。
          また、帯方郡から邪馬台国までの距離表記「1万2千余里」を無視している。

 B 橋口 学 『魏志倭人伝』・・・東夷伝全体を解釈している。
       ・伊都国・・・福岡県糸島市
       ・投馬国・・・宮崎県西都市
       ・邪馬台国・・・鹿児島県薩摩半島
       ・狗奴国・・・鹿児島県大隅半島部
          ※Aと投馬国までの解釈は同じだが、邪馬台国は薩摩半島にあったとする。

 C 張 明澄 『誤読だらけの魏志倭人伝』
       ・伊都国・・・佐賀県藤津郡塩田町(福岡県糸島市に比定しないのは、@と同じ)
       ・投馬国・・・薩摩半島
       ・邪馬台国・・・鹿児島県出水市
       ・狗奴国・・・えびの市・小林市等、霧島連峰の宮崎県側
          ※著者は台湾人。漢文を読む台湾人が解釈すると日本人の誤読が多いことが           分かる。天孫降臨とは出水のイザナギ族が霧島山の向こう側にある狗奴国を攻          め滅ぼしたことを神話化したものである、とする。

 D 原田大六 『邪馬台国論争 上下』
       ・伊都国・・・福岡県糸島市
       ・投馬国・・・岡山県浅口市玉の浦
       ・邪馬台国・・・畿内大和(糸島勢力が東遷して畿内に邪馬台国を樹立)
       ・狗奴国・・・群馬県毛野郡
          ※1975年刊の先駆的論攷。九州説の山門郡邪馬台国説を論難している。ま            た、この人は<海峡渡海一日説>をすでに唱えていたが、渡海の度に数日休           憩を入れると考えていた。


 ●以上の諸説を一覧すると、やはり倭人伝の距離や方角の改変、読み替え、無視が多くみられ、忠実であるべき姿勢が貫かれていない。その点で改変や無視のほとんど無い@の説が最も確からしいと思われる。

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