大 隅 史 談 会

    ―平成26年度月例会― 

        
第8回 1月例会

    日 時   平成27年125日(日) 13:30〜16:30

    タイトル   < 孫から見た祖父・永田良吉 >

    発表者    永田良文 (元錦江町教育長・本会理事)

    会 場  
  鹿屋市 東地区学習センター
 
 
    参加料   500円(資料代ほか)


   
※会場アクセス…私立鹿屋中央高校より南へ約200b左側。
   ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)


 < 孫から見た祖父・永田良吉 > 発表者 永田良文氏



 永田良吉といえば鹿屋では知らない人はいない―と言いたいところだが、中年以下の世代はほとんど知らない人物になってしまった。

 明治19年(1886)に鹿屋市永野田町で生まれ、31歳で大姶良村長、33歳で県議(三期)、そして昭和3年(1928)の衆議院議員選挙で国政に躍り出た。「請願代議士」とか「ヒコーキ代議士」との異名を頂戴するほどの請願と自他ともに認める航空機大好き人間であった。大好きといっても乗るのが好きというわけではなく、すべては国のため、つまり国防上必要だからという理由であった。

 まず笠野原に民間飛行場を造成し、その延長上に「海軍航空隊鹿屋基地」を引っ張って来たのである。鹿屋航空基地は太平洋戦争開戦の真珠湾攻撃のシミレーションの舞台となり、終戦間際には海軍最大の特攻基地となった。戦史史上知る人ぞ知るきわめて大きな役割を演じたのである。

 終戦後の米軍(連合国軍)進駐は鹿屋航空基地が最初で、当時鹿屋市長であった良吉の役割は大きく、米軍からも一目置かれる存在となり、全国にわたる米軍基地でもっとも治安のよかった基地だったという。


 その後まもなく「公職追放」で市長職は失われ、日本が国連に加盟した26年になってようやく公職復帰後は衆議院議員に返り咲き、昭和30年に落選するまで8期、衆議院議員をつとめた。
西郷さんの「金も要らぬ、名も要らぬ清廉潔白、誠実一路」を地で行く人で、西郷さんの生まれ変わりのような人物であった。

 もし敗戦ということがなかったら、総理大臣に近い地位まで昇りつめたかもしれない。同じ大隅を地盤として衆議院議員だった二階堂進が自民党の副総裁にまでなっていることからすれば、あながち不可能ではなかっただろう、人物ははるかに上だったのだから。

 
 孫の永田良文さんは数々の思い出話をしたが、中でも印象的だったのが、昭和45年ごろ結婚後に嫁を連れて帰省した時(良文氏は教員として県内を回っていた)、家の余りのみすぼらしさに嫁が驚いた―という下りである。当時、衆議院議員8期、鹿屋市長2期も勤めあげて年金暮らしで悠々自適だったはずだが、何もかも人に惜しげもなくくれてやる性分のため、常に手元不如意だったわけで、鹿屋出身の作家・大場昇氏が書いた『評伝 永田良吉』のサブタイトルに「最後の井戸塀政治家」とあるように、まさしくその通りの一生だった。

 良文氏の講話のあとで誰かが「良吉氏の政治家としての後継者はいなかったのか?」という質問があった。良文氏は「兄弟の一人が立とうとしたことがあったが、出馬しなかった」と言われたが、それはそうだろう、また良吉と同じようなタイプだったら、それこそ井戸も塀も無くなり永田家の存続すら危うくなったに違いない。
 いまどきの政治家に聞かせたい部分である。



 ※以下に参考資料「永田良吉略譜」を掲載しておく。当日配ったものである。

 永田良吉略年表(『評伝 永田良吉』大場昇著より引用作成)

年月日(西暦)

年齢

事  績

出来事

 

明治19.9.14
1886

父 助太郎
1854生)

母 シヲ 
1857生)

   の三男

 

誕生

 

 

(著者あとがきより)残念ながら私は永田良吉と言葉を交わしたことはなかったが、高校生の時に土曜日の模擬テストをさぼって市役所で行われた郷土史の研究会を覗いたことがある。時の永田市長の郷土誌にかける熱意がびんびん伝わってくる挨拶を耳に・・・(中略)、良吉を書くことが郷土史の勉強になった・・・。

大正6.8.13
1917

31

大姶良村長に就任

初めて飛行機を見てとりつかれる

鹿屋町立病院設立(打馬)

ロシア革命

  8.9.25
1919

33

県議に当選

飛行場設置運動を開始

片倉製糸会社設立。清水澱粉誘致

日本代表団パリ講和会議に参加

昭和3.2.20
 (
1928

42

衆議院議員初当選

昭和天皇の即位の御大典に参列

寿町に乾繭倉庫建設

波見大橋完成

  5.2.20
 (
1930

44

衆議院議員2期目

二ヶ月の南洋方面視察

米価大暴落し、農村疲弊

ロンドン軍縮条約

  7.2.20
 (
1932

46

衆議院議員3期目

空軍兵力増強で斎藤首相と議論

日豊本線開通

満州国建国。5.15事件

  10 
 (
1935

49

天皇来鹿。吾平山陵へ案内する

百日間の欧州視察

敬愛園開園。古江線国有化

満州移民が始まる

  11.2.20
 (
1936

50

衆議院議員4期目

広田首相と航空機問答

鹿屋航空隊開設。2.26事件

木炭自動車が作られる

  12.4.30
 (
1937

51

衆議院議員5期目

防空法案について大演説

日華事変勃発

プロ野球が始まる

  17.4.30
 (
1942

56

衆議院議員6期目

三笠宮を吾平山陵に案内

本土に初の空襲。知覧飛行場開設

関門トンネル開通

  18.2.12
 (
1943) 

57

鹿屋市長を兼務

母シヲ逝去(86歳)

各地で日本軍全滅が相次ぐ。

竹やり訓練開始。イタリア降伏

  20 
 (
1945

58

3.18 鹿屋に初の空襲。

・特攻が始まる(3月〜8月)

9.02 進駐軍との折衝開始

3.02 孫の良文氏 誕生

8.15 終戦

9.04 高須海岸に米海兵隊上陸

  21.11.15
 (
1946

59

鹿屋市長辞任(公職追放)

天皇の人間宣言

鹿屋商工会議所発足

  27.10.1
 (
1952

66

衆議院議員7期目

遺族会を結成

アマゾン移民の出発

  28.4.19
 (
1953

67

衆議院議員8期目

鹿屋飛行場の国際空港指定を申請

奄美群島の返還

  29 
 (
1954

68

大隅史談会名誉会長就任

・海上自衛隊航空隊が開設

自衛隊が発足

  30.2.27
 (
1955

69

衆議院選で落選

 

鹿屋市の人口:75488

高隈村を合併

  31.10.7
 (
1956

70

鹿屋市長に当選

(魚市場・社協の開設)

中卒の集団就職が激増

日本が国連に加盟

  35.10.7
 (
1960

74

鹿屋市長に再選

南米を視察

北田プール完成。カラー放送開始

「所得倍増計画」発表

  36.5.27
 (
1961

75

藍綬褒章受章。

(『永田良吉伝』刊行)

戦後初の南米移住

古江線が海潟まで延長

  39 
 (
1964

78

市長引退。勲二等旭日重光章受章

(名誉市民となる)

東海道新幹線開通。

東京オリンピック開催

  42 
 (
1967

81

市役所前に胸像建立

高隅ダムの通水式

  44 
 (
1969

83

県民表彰を受ける

アポロ月面着陸

  45 
 (
1970

84

 

大阪万博。鹿屋市人口:66995

  46.5.11
 (
1971

85

逝去。市葬が執り行われる。

市制30周年。

  47 
 (
1972

 

(大隅線全線開通。太陽国体)

沖縄県の本土復帰

  48 
 (
1973

 

(鹿屋―鹿児島間に快速列車)

石油ショック

  49 
 (
1974

 

妻ツルマツ逝去(87歳)

沖縄海洋博。新幹線博多まで延長

  59 
 (
1984

 

(鹿屋体育大学開校)

笠野原畑灌事業の完了

  61 
 (
1986

 

(鹿屋バイパス完成)

チェルノブイリ原発事故

  62 
 (
1987)  

 

(大隅線の廃止。開通後15年)

国鉄分割民営化

                                       目次に戻る

 


テキスト ボックス: 『評伝永田良吉』の表紙より