大 隅 史 談 会
―平成27年度月例会―
第6回 10月例会
日 時 10月25日(日) 13:30〜16:30
タイトル 岩川私領五番隊と曽祖父坂口助八ほか
発表者 橋口 滿
会 場 鹿屋市 東地区学習センター
参加料 500円(資料代ほか)
※会場アクセス…私立鹿屋中央高校より南へ約200b左側。
※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)
発表者 橋口 滿 (史談会会員・鹿児島方言研究家)
NPO法人 残していきたいかごっま弁 理事長
【発表要旨】
1 岩川領主伊勢家初代 伊勢弥九郎貞昌文書
岩川は伊勢家の私領で、その初代を伊勢弥九郎貞昌という。
貞昌は元亀元年(1570年)に誕生し、寛永18年(1641年)4月、江戸において死去。
享年72歳であった。
父は有川氏、母が新納忠元の娘で伊勢貞興の後嗣になり、伊勢貞昌を称した。
貞昌は高潔高邁な精神の持ち主で、多くの武功により恩賞を与えられようとしたがすべて辞退 している。
最初は松齢公(島津義弘)より朝鮮の役等の軍功により田禄を加増されたが、辞退。
二度目は寛永12年(1635年)に1万石を与えられようとしたが、これも辞退。
このような人柄が貞昌重病の時、酒井讃岐守・阿部豊後守・松平伊豆守・土井大炊頭・堀田
加賀守など幕府の要人がそれぞれ家老を派遣して看病に当たらせたことや、死後に幕府が阿倍
豊後守を上使として香奠を贈ったことでも偲ばれる。
現在、伊勢家家臣伝来の貞昌文書二通(個人蔵)が残されており、その一通に和歌(無記名)
がある。
――春秋もしらで年ふる我が身かな 松と鶴との年をかぞへて
(戦いに明け暮れていつのまにか年をとったものよ。
これからは松や鶴のように生きたいものだ…)
2 柳井谷開田今昔
柳井谷は通称でヤネダン。ヤネダンは大隅半島にいくつもある地名だが、ここでは曽於市大隅町
中之内の柳井谷を指す。
柳井谷は古来狭隘の地で水利も悪く水田には不向きの土地柄であった。しかし水田を開きたいと の悲願やみがたく、明治30年(1897年)、有志10名によって発願され、ついに34年(1901年)に着
手、同40年に完成した。利水反別15町歩、水路の長さ3165間(約6キロメートル)、総工費9854円
であった。
開田の明治末期は農作業のイー(結い=共同作業)やモエ(模合講)、集落行事等しげく行い、人 々の結束も堅かった。
開田以来、平成26年(2014年)で113年が経過した。柳井谷周辺の水田には今も清らかな水が流 れ、稲の生長を促し地域住民の幸せを保障してくれている。だが、少子高齢化による過疎化の波は
当地にも遠慮なく及び、離村人口が増加し集落は限界化してきている。
かって権勢を誇った岩川氏の本拠地には諸行無常の風が豊かに実りつつある稲をなびかせてい る。開田の歴史はわずか一世紀有余に過ぎないが、もはや遠い昔になってしまった。
3 母方曽祖父と西郷隆盛
私の母方の曽祖父は坂口助八、後年、井之上助七といった。
伊勢家の私領士で谷山郡下福元村野頭において弘化2年(1845年)に生まれた。(注:岩川と並ん で谷山も伊勢家の私領であった。)
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まると岩川私領五番隊124名は福山から船で鹿児島へ、そこ
から奥羽越列藩同盟との戦いに出掛けた。当初は合津口に向かう予定だったが北越に転戦し、関
川村の戦いに臨んだ。この戦いで敵方は敗れて混乱し、9月23日会津藩主松平容保が降伏、27日
には鶴岡(庄内)藩主酒井忠篤も降伏。17万石の鶴岡城を無血開城した西郷軍は温情により、兵器
の接収のみで藩士は自宅謹慎という寛大な措置をとった。
この時の感激から酒井公はのちに息子および藩士を西郷の私塾に入れるなど交流を深めている。
岩川は私領五番隊(隊長・大津十七)の軍功により、ついに念願の「岩川郷」の自立を勝ち取り、
曽祖父(坂口助八)は谷山から移住し、岩川郷士井之上市太郎の養子となり、井之上助七と改名。
昭和7年に没したが、その生涯は「敬天愛人」の一生であった。
晩年の顔は仏のように穏やかなもので、とても戊辰戦争で地獄を見て来た武人としての厳しさは
片鱗も見られなかったと母は云う。
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