大 隅 史 談 会

    ―平成26年度月例会― 

         
第10回 3月例会

     日 時   平成27年322日(日) 13:30〜16:30

     タイトル   <
11世紀の大隅国について>

     発表者    永山修一氏 (ラ・サール学園教諭)
 
     会 場  
  鹿屋市 東地区学習センター
 
     参加料    500円(資料代ほか)


       
※会場アクセス…私立鹿屋中央高校より南へ約200b左側。
       ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)



   <11世紀の大隅国について> 

       講演者  永山修一 ラ・サール学園教諭  58歳。東大史学科卒。文学博士
                                     ・「かごしま昔散歩」南日本新聞連載
                                     ・近著『隼人と古代日本』(同成社2009年)
       
      写真: 講話の様子。肝付町(旧高山町)からの聴講参加者が多かった。


 ―発表のレジュメより要約抜粋―

1 10世紀までの大隅国

 ・全国的な動きとして律令体制が変容し、条文通りの戸籍・班田・租庸調及び雑徭・仕丁・兵役など
 が立ち行かなくなる。
(800年頃)
  →改革…班田を6年替えから12年替えへ変更、令外官を設置、大宰府は公営田制を採用
  →古墳時代から続く「譜代郡司」の弱体化。「富豪の輩」「殷富の百姓」の抬頭。
     (※租税の未進が進行することになる)
  →律令制の諸原則を放棄(10世紀)
     ○国司に責任と権限を集中→国司の「受領化」
     ○税目の再編→官物と雑役へ
     ○国府・郡家の消滅
     ○官道の消滅
  →貴族・寺社による活発な所領形成活動(11世紀)
     ○国司の許可による国免荘の増加
     ○中世的郡郷の成立(11世紀半ば)
  →一国平均役の賦化と荘園整理政策の時代(11世紀半ば)
     ○1069年「延久の荘園整理令」…荘園領域と不輸・不入権の弁別明確化
  →新たな荘園の形成(11世紀末以降)
     ○当該時期の政治的状況と複雑に絡み合う。
 ・大隅国の場合
   史料@『北山抄』(藤原公任)巻10に見える大隅守仲宣への「吏途指南」「受領巧過定」
     ※「里倉負名」の存在は他国と変わらない。
   史料A『宇治拾遺物語』巻9に見える「歌詠みて罪を赦さるる事」
     ※大隅国の郡司の中に歌を詠んで罪を免れた人物(歌人)がいた話。
   史料B『拾遺集』雑下
     ※大隅守桜島忠信が上記の郡司を召喚しようとして、歌により免じたという話。
      桜島忠信の大隅守在任は970年頃。桜島岳の名は忠信に負うという説があるが違う。
   史料C『気色の杜遺跡出土の墨書土器』
     ※皿の下面に「ちとせ(千歳)はふ(経)とも さ□□□ あれ□」「ちとせ(千歳)はふ(経)とも 
      さ□□□□ あれ」と読み取れる墨書が見つかった。

2 島津荘大隅方の成立

 T島津荘の成立…以下のどの史料も同時代ではない。
    史料D「島津荘荘官等申状」(『薩藩旧記雑録』前巻9)…正応元年(1288)又は同四年
    史料E「僧智恵愁状案」(『長谷場文書』)…建暦三年(1213)四月
        <御荘建立主平大監季基朝臣之御子息平五大夫兼輔朝臣之時、…>
         ※これにより季基には兼輔という息子がいたことが分かる。
    史料F『三俣院記』(都城市神柱大明神)…「万寿三年(1026)に移住して神社建立した」と書く。

 U大隅国府焼き討ち事件(1026)
    史料G『小右記』(藤原実資)万寿三年八月二日条…「藤原良孝が実資に種々の進物をした」と
                                      書く。
    史料H『小右記』(同上)…平季基が大隅国住人の藤原良孝邸などを焼き討ちした事件を記載
                     する。      
      ○大監従五位下平朝臣季基と男子の兼光・兼輔を大宰府に命じて召喚させるようとの太政官
       符を掲載している。(これにより、季基には兼光・兼輔の二人の息子のいたことが判明する)
      ○万寿年間に日向諸県郡の島津駅付近に成立した島津荘の薩摩・大隅への拡大の動き

 V中世的郡郷への再編
    史料I『禰寝文書』治暦5年(1069)正月29日「藤原頼光所領配分状案」
      ○所領の散在がよく分かる…国衙が未進の官物を代納することにより、当該地を収公し、集
                        積すると、所領は大隅国一円に散らばって存在するようになる。

 W大隅正八幡宮領の展開 (⇒日隈正守2014)
    ○鹿児島神社が八幡神を勧請した契機…南蛮襲来事件説と島津荘成立説
    ○長元7年(1034)、宇佐弥勒寺講師・石清水八幡別当の元命が大宰府より大隅国内の八幡別宮
      の支配権を認められる。
    ○長久年間(1040〜44)に大隅守が大隅正八幡宮に「四季転読大般若経供料」として姶良荘を
     寄進。
その後、荒田荘・栗野院・蒲生院・鹿屋・吉田院・加治木・禰寝院が正八幡宮領化。
       
 X伴氏の土着について (@伴兼行―A行貞―B兼貞―C兼俊―・・・・―D兼経)
   @ 在地の大伴・伴氏…正倉院文書「薩麻国正税帳」には「大伴部福足」など数名が見える
   A 下向国司としての伴氏
       ※伴兼行が「薩摩国の掾」かつ「大宰府の大監」であったとする史料は見当たらない。
   B 平季基について…野口実氏(京都女子大学教授)の次の所論が参考になる。
     「島津荘の在地経営は平季基の女婿・伴氏らに委ねられ、季基の子孫は大宰府に基盤を確保
      しつつ肥前国で領主的な発展を遂げ、やがて大宰府領を足掛かりとして薩摩に進出した。こ
      の薩摩平氏は河辺・頴娃・鹿児島など郡(院)名を苗字とする有力な在地勢力を続々生み、12
      世紀半ばには薩摩・大隅二ヶ国を制圧した阿多忠景のような地方的棟梁を生むに至る。
      ……(後略)」

 Y まとめ

    ※※@の兼行が大宰大監・薩摩掾の両方の地位を持っていたとすれば、権力の基盤はどこに?

    ※※A・Bの通字は「貞」だが、一般的に11世紀前半までは兄弟に通字名が見られ、それ以降は
        親子間に見られるようになるので、Aの行貞とBの兼貞が親子であれば二人の在世年代
        は11世紀後半以降と考えられる。⇒すると兼貞が長元9年(1036)に肝属郡弁済使になった
        というのでは年代が早すぎるということになる?

    ※※伴氏と平季基との接点(五味克夫1966)
        「島津荘開発者の平季基の娘と兼貞が結婚して島津荘の所職を相伝するに至ったという
        説が事実そのままでなくても、その後の島津荘発展の過程から何らかの歴史的事実を反
        映しているものと考えられるから、兼貞の子、兼俊を肝付氏初代とするのは全く根拠のな
        いことではあるまい。」


    ※※Cの兼俊とDの兼経との間には数代分の抜けがあることは確かである。
       なぜこのような抜けがあるのかは不明。

        河辺氏系図・禰寝氏系図に見るように、合理的に理解できない記載も多い。(了)


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