大 隅 史 談 会

      ―平成27年度月例会― 

         
第1回 5月例会

     日 時   524日(日) 13:30〜16:30

     タイトル  倭人史・倭国史そして日本史へ

     発表者   松下高明

     会 場  
 鹿屋市 東地区学習センター

     参加料   500円(資料代ほか)



   
※会場アクセス…私立鹿屋中央高校より南へ約200b左側。
   ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)

 
  【発表内容(要旨)】

「日本人」と自他共に称するようになったのは、天智・天武天皇の頃であり、それ以前の列島民及び幾種類かの朝鮮半島系列島民は「倭国・倭人・倭」と呼ばれていた。
 倭人から日本人(倭国から日本国)への転換点は、大陸の史書『旧唐書』で確認できる。
 『旧唐書』には列島民の国を二種類挙げており、ひとつは「倭国」で、もう一つが「日本国」である。
 『旧唐書』倭国条…(貞観)22年に至り、又、新羅に附して奉表し、以て起居を通ず。
 『旧唐書』日本国…長安3年、其の大臣・朝臣眞人来りて方物を貢ず。


 倭国条の貞観22年は西暦では648年。少なくともこの年まで倭国であったと分かる。
 次の日本国条の長安三年は西暦では703年。少なくともこの年以前に日本国が生まれたことになる。
 
 唐を記述の対象とした中国の正史ではもう一つ『新唐書』があり、こちらでは日本国条だけが挙げられている。
 『新唐書』日本国条の咸享元年(670年)の記事に次のようにある。
《(倭国が)遣使し、高麗を平らぐるを賀す。のち、やや夏音を習い、「倭」の名を悪み、「日本」と号す。使者自ら言えるは「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と。あるいは云う、「日本はすなわち小国、倭を併すところとなし、故にその号を冒す」と。使者は情を以てせず。故にこれを疑えり・・・》
 この記事からは西暦670年の頃、「日本」という呼称が確実にあったことになる。この670年が「日本国」呼称の下限で、もとの「倭国」という呼称に代わって新しく「日本国」が始まったのは、日本書紀などから天智天皇の頃であったと云える(今日まで1340年余り続く国名で、これはエジプトに次ぐ世界で2番目に古い国名)。
 私見では百済救援隊を組織して派兵した倭国軍(海軍)が白村江の戦役で大敗を喫したあとの政変によって生まれたのが「日本国」であると考えるので、上限年代は663年である。

「倭国」という呼称は670年頃に「日本国」に取って代わられるが、いつ頃からのものか。
 それはいわゆる「倭の五王」の宋王朝への貢献記事によって確かめられる。この宋書の記事によれば「倭国」から讃・珍・斉・興・武が421年の初見から478年の最後の記事までの6回にわたって宋王朝へ朝貢しているが、自称「倭国王」としての遣使・上表であり、これからすれば西暦421年から「倭国」と自他共に認めたのは421年として差支えなく、したがって「倭国」呼称の期間は西暦421年から670年頃までの約250年間であった。


「倭人」呼称はいつから?
 これもやはり大陸の古書『論衡』という書物の記事に書かれている。 
 『論衡』は一世紀後半に書かれた地歴書で、その中に
《成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢ず》「周の成王の時に、越からはキジ(白雉)が献上され、倭人は暢草(薬草)を貢献して来た」
 とあり、紀元前1000年頃の周王朝の二代目である成王の時代に、南方の越人と東方の倭人がそれぞれ朝貢して来たという。このことから紀元前1000年(今から3000年前)にすでに東方に住む今日の日本人は倭人と呼ばれていたことが分かる。


・倭人呼称の前 
 3000年前には倭人と呼ばれていたことが分かるのだが、その前の縄文系倭人は何と呼ばれていたのかについては不明である。今でも日本人は自分たちを「ワタシ・ワレ・オレ・ワレワレ」と自称し、おそらく3000年前の東方人(中国風に言えば東夷)も自称は「ワレ・アレ」に違いなく、すると3000年来、日本人は自称をほとんど変えていない。
 以上から類推すると、3000年以上前も自称は「ワレ・アレ・オレ」のいずれか又は混用であったとして大過なく、したがってもし大陸人が縄文系倭人と遭遇し、縄文系倭人の自称から民族名を付けるとすればやはり「倭」または「倭人」ということになっただろう。

倭人史・倭国史・日本史の区分
 この区分を時系列で表せば、次のようになる。

 倭人史…縄文時代(草創期からとすれば約13000年前)〜AD420年
 倭国史…AD421年(宋への遣使「倭国王」)〜670年頃(天智・天武両朝の変わり目)
 日本史…670年頃〜現在


 ※最後は若干補足する必要がある。670年代以降、天武・持統朝を通じて天皇制律令国家が開始され、以後は貴族制・幕府制・明治期と統治形態は様々に変化してきたが、天皇制度そのものは不変であった。昭和20年の終戦後の連合国占領期に天皇の「人間宣言」が出されたが、制度そのものは存続ている。


〔番外編(コラム)〕…添付資料Aから

 
〜神武東征の一証拠〜
 
南九州からのいわゆる「神武東征」はなかった―という公式見解に対して本論者の松下大隅史談会会長は、邪馬台国論の研究過程で「南九州(古日向)は投馬国であり、投馬国王のタギシミミが船団を率いて畿内に遷った」(タギシミミは綏靖天皇紀によると「長く朝機を経ていた」とある)と考察しているが、このタギシミミの東征は火山災害や台風災による「移住」の側面が大きいと、著書『邪馬台国真論』で述べたが、これ以上に移住を決断する大きな要因ではないかと思われる「2000年前の巨大津波」の研究が最近発表された。
 それは高知大学特任教授で地震地質学が専門の岡村真氏のグループによるもので、インターネットの時事通信社配信の記事(5月16日付)によると、

『静岡県沖から宮崎県沖にかけて延びる南海トラフで巨大地震が起き、過去7300年間で最大の津波が東海から四国、九州に押し寄せたとみている。(中略)約2000年前の津波跡はこれまで九州や四国では確認されていた。高知県土佐市の蟹が池では、宝永地震(引用者注・1707年発生。東海・東南海・南海三トラフ同時地震。マグニチュード8.6)の津波で堆積した層は平均すると約15センチだが、約2000年前の津波の層は約50センチだった。』
  
 1707年に起きた東海・東南海・南海三トラフ連動地震による津波で運ばれた堆積物の厚さが15センチしかないのに、2000年前の大津波では3倍以上の50センチもの厚さがあったという。
 「過去7300年間で云々」と7300年前が出てくるが、これは鹿児島県南方沖の「鬼界カルデラ大噴火」によるアカホヤ堆積物を指標としているためだろう。7300年前の鬼界カルデラの大噴火は過去1万年の火山噴火史上最大と言われており、このために鹿児島県域の南部はほぼ壊滅し、全体としても人がしばらくは住めなかったほどの大災害に見舞われたのである。
 今回の研究により、おそらく鬼界カルデラ噴火に次ぐほどの災害を宮崎県・鹿児島県域にもたらしたのが2000年前の大津波ではなかったかと思われる。火山災害ではないため県域の山間部は無事であったろうが、海岸域は壊滅的な打撃を受けたはずである。
 とくに大隅半島の海岸線でも日向灘、太平洋に面した志布志湾・内之浦湾等は大津波の直撃を受け、惨憺たる被害状況であったに違いない。

 鹿屋市の標高80bのシラス台地上に見つかった「王子遺跡」はまさに2000年前の弥生中期の遺跡だが、比高で40メートルほど下を肝属川(旧鹿屋川)が流れ、その流域こそが水田あり、湧水ありの非常に住みやすい所なのだが、なぜか集落は水田耕作には不便極まりない高台に存在するのである。このことの説明がつかないでいたのだが(自分としては川沿いの河谷平野では敵に襲われたら逃げ場がないから。または河谷のじめじめした場所なので伝染性の病気でも起きたから、などと考えていた)、この大津波で氷解した。これが河川流域の水田をすべて呑み込み、幸福な弥生人的田園を破壊したゆえ、一時は高台に避難した(王子遺跡)のだが、結局は災害のない瀬戸内海地域を経て、最終的には畿内を安住の地として入ったのであろう。
 「神武東征」もそう考えると、より一層真実味を帯びると思う。

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