大 隅 史 談 会

      ―平成27年度月例会― 

         
第3回 7月例会

     日 時   726日(日) 13:30〜16:30

     タイトル  「 欠史八代の謎に挑む 」

     発表者   武田悦孝(理事)

     会 場  
 鹿屋市 東地区学習センター

     参加料   500円(資料代ほか)



   
※会場アクセス…私立鹿屋中央高校より南へ約200b左側。
   ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)


     欠史八代の謎に挑む        発表者 武田悦孝(たけだ・よしたか)



  【発表要旨】

1.神武天皇と欠史八代
 

 記紀に第2代(綏靖天皇)から第9代(開化天皇)までの崩御年はなくまた事績もないので、一般的に欠史八代と言われている。この時代を考察するのが本稿の目的である。

2.葛城地方の二つの宮

 葛城地方は大和盆地を大きく三つに分けた中で西南部に位置しており、葛城金剛山地の東麓に当たっている。
 
ここには現在も第2代綏靖天皇の「葛城高丘宮」の跡があるとされ、そこからは晴れた日には大和三山はじめ三輪山など大和中原が望まれる。葛城には記紀によると葛城ソツヒコ(娘のイワノヒメは仁徳天皇の皇后)という豪族の本拠地であり、ソツヒコの宮と思われる葛城高宮があった。
 この二つの宮は同一のものではないか、すなわち葛城ソツヒコこそが綏靖天皇ではなかったかというのが結論である。


・南郷遺跡群…葛城氏に関わる巨大集落遺跡が御所市で発見された。古墳時代前期から中期初頭(300〜450年頃)の葛城の王都といってよい遺跡である。ここはほぼ葛城氏の「宮」として間違いなく、ことに5世紀前半代に突如としてさまざまな施設が計画的に建設されている。この時の「王」こそ葛城ソツヒコであろう。

3.二つの皇統

 葛城の一言主神社は一言主を祭るが、雄略天皇の時に天皇が一言主神を天皇と同等として敬ったという説話があるが、このことは葛城に王統が存在したことを示しておりそれは葛城ソツヒコの後裔であるとしてよい。
 
葛城ソツヒコは武内宿祢の子ということになっている。武内宿祢は葛城ソツヒコはじめ蘇我・平群・巨勢・紀・波多の各豪族の父であり、葛城ソツヒコが第2代綏靖天皇であるとすれば、武内宿祢は第1代神武天皇でなければならない。
 また武内宿祢は実は応神天皇の父でもあり、母は神功皇后ことオキナガタラシヒメであるから応神天皇は「息長氏系皇統」ということになる。
 以上から4世紀末の時点で、武内宿祢の南九州クマソ直系の皇統(葛城氏系)と、息長氏系の皇統とが二つながらに存在していたと考えられ、上位の皇統は葛城氏系であった可能性が高い。

4.対立 
 
 雄略天皇が葛城円大臣を討って葛城氏を滅ぼすと、息長系の応神王朝も衰微し、結果として五世孫の継体天皇の即位でかろうじて応神(息長系)皇統は存続することになった。
 この経緯は本来二つの皇統が並立していた応神以降の天皇を万世一系とするために息長氏系王統のみを真の姿のまま記述し、並立して存在していた神武(武内宿祢)直系の葛城・蘇我氏系王統としての綏靖以降の天皇を本来の史的実在の実年代とかけ離れた存在として、崇神天皇以前の架空の世界へと時間軸をずらして記述した、ということであり、その結果として「欠史八代」が創り出された、と考える。

5.欠史八代の謎に挑む

 武内宿祢の後裔氏族は奈良盆地の西北部から西南部一帯の地域に本拠地ないし居住地を有し、地域的にひとまとまりのグループを形成しており、それはあたかも大王家がその譜代の臣であり伴造の雄である大伴連・物部連を両脇に従えて盆地東部に蟠踞しているのと対峙しているかのような形勢に見える。
 また、葛城氏の女性は宮廷の饗宴を取り仕切ったり、大王の神事に重要な役割を演じたと考えられている。

 このような見解から見て、武内宿祢後裔の上位氏族のトップとして君臨した葛城・蘇我氏の実像とは「大王そのものではなかったか」と考えられる。 
 ちなみに本稿のキーパーソンである葛城ソツヒコ(第2代綏靖天皇)が活躍し、応神天皇が在位していたとみられる4世紀後半の倭王の名は『記紀』にはいっさい伝えられていない。『記紀』の編者は4世紀後半の倭王名を知らずに書けなかったのか、それとも知っていたがあえて書かなかったのであろうか。

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