大 隅 史 談 会

      ―平成27年度月例会― 

         
第4回 8月例会

     日 時   823日(日) 13:30〜16:30

     タイトル   1 大隅鉄道開設100周年に寄せて
  
            2 小烏(こがらす)神社の謎

     発表者   1 上原義史(雅の会)

            2 松下高明(会長)

     会 場  
 鹿屋市 東地区学習センター

     参加料   500円(資料代ほか)



   
※会場アクセス…私立鹿屋中央高校より南へ約200b左側。
   ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)


 1 大隅鉄道開設100周年に寄せて   発表者 上原義史 

 【開設から廃止までの概略】

  大隅地方で初めて鉄道が敷設されたのは高須・鹿屋間の9キロ余りで、大正4年7月11日のことであった。大正4年は1915年なので、今年2015年7月11日は鉄道開設100周年の節目に当たっている。
 当時の名称は南隅軽便鉄道で2年後には大隅鉄道株式会社となり、私鉄という経営体で始まった。大正9年(1920)には鹿屋から高山まで(10.5キロ)延伸され、翌10年(1921)には串良まで(4.7キロ)開通した。
 大正12年(1923)、高須から古江までの6.8キロが開通し、これにより古江〜串良間31.0キロ(ただし古江・串良間は線路幅が762ミリ)、大隅半島の心臓部を貫く鉄路が整い、昭和10年6月に国有化され、同時に志布志から延びて来た鉄路(狭軌1067ミリ)と接合し、同13年10月10日に線路幅が1067ミリの狭軌に統一され、古江から志布志までの47.8キロが「国鉄・古江線」となった。古江から志布志まで駅数は17駅であった。
 古江からさらに垂水方面へ延伸されたのは昭和36年(1961)4月13日で、終着駅の海潟温泉駅まで6駅、17キロあった。
 昭和47年には念願の日豊本線国分駅まで延伸され(10駅、33.6キロ)、ここに志布志から大隅半島を横断し、北上して国分までの98.3キロという大動脈「大隅線」が完成した。駅の数は志布志駅と国分駅を入れて33駅であった。

 しかしながら昭和40年代から始まった国民的自動車ブームで道路の整備が進むに連れ、鉄道離れが深刻化し、地方路線の多くが赤字に転落する中で「国鉄民営化」が国策となり、ついに国鉄の分割民営化が行われ、それと同時に地方の赤字路線の大部分が廃止されることになった。
 大隅を走る「大隅線」と「志布志線」(志布志・西都城間10駅、38.6キロ)もその例外ではなく、国鉄分割民営化の直前の昭和62年3月をもって廃止されることになった。志布志線は全線開通が大正14年(1925)3月と古く、昭和62年の3月まで丸62年間の営業の幕を閉じた。
 一方、大隅線の全線開通は昭和47年(1972)であったから、全線営業の期間はわずか15年しかなかったのが、特徴である。昭和38年ごろから始まった海潟〜国分間の延伸工事はトンネルが18もある難工事で、この時の多額の工事費が大隅線の赤字を増やし、廃止を早めたという説があるが、当たらずと雖も遠からずだろう。

○ 高須駅は廃止の時点では現在の高須町民会館にあったが、開設当初は数十b海側にありそこを走っているドイツ製という蒸気機関車の姿が写真に残っている。
 また、街の中を貫く鉄路も最初は波之上神社の前を走り抜けていたが、駅舎の移動で神社の後ろ側をトンネルを刳り抜き、現在の海水浴場の駐車場あたりからしばらく海岸に並行に走ったあと、東へ大きくカーブして国道269を高架で跨いでいた。この高架橋は今も残っている。

                                          (文責・松下)



 2 小烏(こがらす)神社の謎        発表者 松下高明

 【小烏(こがらす)神社】
 小烏神社は鹿屋市野里町大津地区に鎮座する旧村社で、創建年代は不明ながら天文年間の古史料があることにより、少なくとも450年ほどの歴史を有することが分かる。
 この神社の祭神は神社の法人登録の際に鹿児島県神社庁に提出された申請書によると「ヒコホホデミ命」である。ヒコホホデミは記紀によれば天孫降臨後の二代目に当たり、いわゆる山幸彦として知られている。
 しかしながらヒコホホデミと言えば鹿児島神宮の主祭神であり、大隅半島で鹿児島神宮の分社としては垂水市の鹿児島神社が著名であり、もし鹿屋にもヒコホホデミを祭る神社があるとすれば、神社名は鹿児島神社か少なくとも当地の野里という地名を採って野里八幡宮などと名付けられるはずである。
 それが選りによって「小烏(こがらす)」とはどういうわけであろうか。
 「烏(からす)」で想起されるのは、神武東征の折に紀州熊野で難路に阻まれた時、一羽のカラスが東征の一行を導いて熊野を越えて大和の宇陀地方まで案内した「八咫烏(やたのからす)」である。八咫烏は実は「南九州の曽の峯に天下り、その後大和の葛城の峯に移り、そこから北上して最終的に山城の久我の山基に定着したカモタケツヌミの分身」であった(『山城国風土記逸文』による)。
 この説話から見えることは、南九州と大和さらに山城(京都)との親縁関係であり、では、「八咫烏」と野里の小烏神社とは関係はいかに、ということになる。

 【子供相撲に見える共通性】
 毎年9月9日の重陽の節句の日、京都の上賀茂神社では恒例の「烏(からす)相撲」が行われる。この相撲は小学生の子供10人ほどが、禰宜方と祝方に分かれて相撲をとるというものだが、相撲の前に烏に扮した神官が「カーカー」「コ―コ―」と鳴きまねをし、さらに子供たちは「立砂(たてすな)」というどう見ても三角錐の美しい山としか見えない砂の山の周りを回る。
 この姿は山に降臨した神を迎える、あるいは神が三角錐の山に降臨することを願うことのように思われ、上賀茂神社の祭神ワケイカヅチ(下鴨神社の祭神カモタケツヌミの孫)が父(ホノイカヅチ)を求めて天に昇ったという前掲『山城国風土記逸文』の説話に対応していると見られる。
 さて野里の小烏神社でも例年9月23日に「野里相撲大会」が消防団の主宰で開催されるが、その中の取り組みの一部に「子供相撲」が確保されている。
 一般的に鹿児島など南九州で子供相撲と言えば仲秋の名月の夜に綱引きをしたあと、小学生が綱を土俵にして取るのが普通で、しかも私の見てきた限りではまわし等を着けるという本格的な出で立ちではなく、普段着のまま相撲を取っている。
 ところが野里相撲大会での子供相撲では小学生が正式なまわしを着けて行う。神事としての所作のようなものはないが、上賀茂神社の烏相撲に似た本格的なまわし姿は大変よく似ている。
 以上の点と、『山城国風土記逸文』の南九州から大和・山城へ移動した下鴨神社の祭神カモタケツヌミの説話とを勘案すると、どうもここの小烏神社こそがカモタケツヌミの出発地ではないか―そんな疑問が涌き上がったのである。

 【西日本にある「小烏神社」の祭神
 そこで鹿児島のみならず西日本全体に点在する「小烏神社」を調べてみると次のように14社があった。ただし、京都の下鴨神社および大阪府島本町の若山神社は名称が違っているが、小烏神社の範疇に含めた。括弧内は祭神である。
 @小烏神社…野里町(ヒコホホデミ)・桜島(神武天皇)・霧島市福島(不明)・日置市(加茂神社=カモタケツヌミを合祀)・福岡市(カモタケツヌミ)・福津市(スクナヒコナ・ワタツミ)・防府市(ヤタガラス)・柳井市(ウケモチ神=元はカラス霊)・福山市(コガラス)・三豊市(カラス)・丸亀市(オオクニヌシ)・越前市(応神天皇)
 A若山神社…大阪市三島郡島本町(摂社にコガラス神社)
 B下鴨神社…京都市(カモタケツヌミ)
 以上14社の祭神を分類すると、「カラス」系が5社、「カモタケツヌミ」が3社、ヒコホホデミ・神武天皇・不明・スクナヒコナ・オオクニヌシ・応神天皇各1社ずつで、「カラス(ヤタガラス)」と「カモタケツヌミ」は同一祭神とみなしてよいから、14社中8社が「カラス=ヤタガラス=カモタケツヌミ」を祭っていることになり、他はすべて1社独自の祭神ということであることが分かる。
 するとやはり「小烏神社」はその名称の如く「カラス=ヤタガラス=カモタケツヌミ」を祭る神社であるのが本義ということになる。

 【野里の小烏神社鎮座の意義】
 上に述べ来ったように、野里の小烏神社の祭神はヒコホホデミではなく、「カラス=ヤタガラス
=カモタケツヌミ」であり、そのように考えると『山城国風土記逸文』の説話の中の「曽の峯」とは高隈連峰のことで、そこに天下ったカモタケツヌミが最初にホームグラウンドとしたのが野里を含む大隅半島部であり、とくに野里は鎮座する小字名が「大津」(これはウツと読む)すなわちすべてが整った地域(現実的な良い場所)という名からしておそらく弥生時代の一時期にはかなりの発展を見たところではないかと思われる。
 それが何らかの理由で(一番有り得るのは自然災害、特に火山災害のウェートが高い)大隅半島のこの地域から大和葛城地方への移住があったのではないだろうか。もちろん地元に残った多くの人たちは災害の艱難を乗り越えて大和へ移住を果した中心人物である「カモタケツヌミ」(私見ではカモタケツミミ)の無事を祈る場所として何らかの宗教的な施設を作った、それが小烏神社のいわれではないだろうか。


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