大 隅 史 談 会

      ―平成27年度月例会― 

         
第5回 9月例会

     日 時   927日(日) 13:30〜16:30

     タイトル    伴姓肝付氏の系譜

     発表者    平田 煌二

     会 場  
 鹿屋市 東地区学習センター

     参加料   500円(資料代ほか)



   
※会場アクセス…私立鹿屋中央高校より南へ約200b左側。
   ※問い合わせ先…松下(0994−49−2360又は090−2083−2360)



   伴姓肝付氏の系譜                          
                               発表者 平田煌二

【発表要旨】

 肝付氏は大隅郡域のみならず諸県郡にまで勢力を持ち、平安時代中期から戦国末期まで約500年の間、大きな影響を及ぼしてきた名族であるが、島津氏との戦いに敗れたことによる史料の散逸のため、その系譜が定かでなく、とくに平安期から鎌倉時代初期の系図は年代比定に大きな問題点がある。
 今回、新たな史料の掘り起こしによって、それなりの知見が得られたので発表する。

これまでの通説によると、肝付氏の起こりは伴兼行(とものかねゆき)が安和2(967)年に薩摩掾として下向し、鹿児島郡神食村に居館を構えた。その孫の兼貞は平季基の孫娘の聟となって島津荘を受け継ぎ、その子の兼俊が長元9(1036))に肝付郡の弁済使となって高山に移り、肝付氏を名乗った―というものであるが、これだと兼俊の子で2代目の兼経の時代が平安末期(1180年代)の頃なので、父子の二代で150年もあるという甚だしい錯誤に陥ってしまう。

新たな史料による伴兼貞の年代比定
 佐賀県(肥前)の神崎荘の支配者「平姓神崎氏」の研究資料によると、平季基の子である兼輔は季基の開発した島津荘の荘官にならずに、肥前神埼郡神崎荘の荘官に任じられて子の兼重とともに赴任し、島津荘荘官は伴兼貞譲ったようである。これが正しいとすると平兼重が康平3(1060)年に大宰少監に補任されていたことが見えていることから、平兼貞が1000年代の後半の人であることが言え、兼貞―兼俊―兼経の三代が約100年の間のこととなり、想定内の範囲に収まる。

肝付氏一族隈本氏の古文書から
 安和2(967)年の「伴兼行の薩摩下向」とは、伴仲用(とものなかもち)の下向に他ならないことが、肝付氏族隈本氏の古文書に見えている。それによると、

 <右兵衛督仲用、其の子右馬督仲兼、其の子判官代兼遠、三代打ち続き薩摩国に流罪也。兼遠の子伴掾大監兼行の代より薩摩国の地下人…>

とあり、薩摩国に最初に到来したのは兼行の曽祖父・仲用であった。その仲用こそが安和2(967)年にやって来た人物と考えると、仲用―仲兼―兼遠―兼行―行貞―兼貞―兼俊―兼経の八世代となり、その年代間は220年ほどで、一代が27年余りと極めて合理的な年代比定ができる。

四十九所神社創建年代と神埼荘文書(武雄文書)から探る
 高山の中心部に鎮座する四十九所神社の創建は永観2(984)年と伝承されているがこれは「伴兼行が薩摩に下向して17年目に創建した」という口伝によって、安和2(967)年に17年を足して求めた年号であるから当てにはならない。
 伴仲用が薩摩に下向して定着し、その4代目の伴兼行が長元9(1036)年に肝属郡に弁済使としてやって来て定住し、さら4代を経て兼経の時代は1180年頃として比定するのは全く問題はない。

 平季基の男子兼輔というのはやはり伴兼行の子で、婿に入ったが神崎荘荘官に補任され、その子兼重(神崎氏祖)とともに赴任したため、弟の行貞に譲った。しかし「武雄神社文書」によれば行貞自身も武雄神社に神官として補任されたため、行貞の子兼貞が島津荘荘官になったのであろう。
 「武雄神社文書」建仁4(1204)年の物には「高祖父行貞」という人物が登場するが高祖父は4代前の先祖であり、年代的には約100年前に存命していたことになる。すると兼行はその父であったから存命時代は1050年前後となり、長元9(1036)年に弁済使として肝属郡に下向したと考えた伴兼行の時代とおおむね重なってくる。

 以上から、安和2(967)年に薩摩に下向したのは通説の伴兼行ではなく、4代前の先祖仲用であると考えれば、年代と世代間の大きなずれは解消できる。
 
     (この項終り)

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