大 隅 史 談 会

      ―平成28年度月例会― 

         
第8回 1月例会

     日 時   平成29年122日(日) 13:30〜16:30

    
タイトル    「大隅と和気清麻呂」」

     発表者     新 留 俊 幸(本会理事)

     会 場     鹿屋市東地区学習センター

     参加料     500円(資料代を含む)




1、宇佐八幡宮神託事件
 第48代称徳天皇は弓削の道鏡を大臣禅師に任命した。この道鏡を天皇位に就ければ天下が平らぐとの「ご神託」を奏上してきたのが宇佐八幡宮であった。
 天皇は迷い、和気清麻呂に命じて宇佐八幡宮に赴かせ、神託の是非を確かめさせた。

 清麻呂は宇佐に下向し、神前で「天津日継には必ず皇孫を就けるべし」との神勅を得、朝廷に持ち帰ったところ、道鏡の怒りに遭い、大隅国に流された。

 2年後、道鏡は失脚して下野に流され、清麻呂は許されて官界への復帰を果たした。
 
 
   東地区学習センター学習室にて発表中の新留氏
2、なぜ大隅国が配流地となったのか?
 律令体制下で死罪の次に重いのが「流罪」で、その中でも大隅への流罪は「遠流(おんる)」であった。
 大隅国は官にとっては危険な地域であり、720年に起きた隼人の乱以来、朝廷にとっては畏怖の対象となる異人雑類の隼人の住む国であった。
 そこへ流されたということはある意味で「死罪」と言ってよかった。
 
 怒り心頭に達していた道鏡は当然清麻呂の死を望んだはずであるが、称徳女帝の温情で難を逃れたのかも知れない。清麻呂の姉の広虫(法均尼)が称徳女帝の後宮に入っていたことも幸いしたのだろう。

<幽閉地はどこだろうか?>
 大隅国における清麻呂の配流地は『続日本紀』には「波見浦に上陸し、笠野(笠野薬師堂、肝付町富山)に二泊逗留」したことになっており、『日本後記』(840年完成)には、「大隅国桑原郡稲積の里に留め置かれた」と書かれている。
 そこは現在和気神社が建立されている牧園町宿窪田である。
 しかし『続日本紀』の記す「笠野に二泊逗留」というのは短すぎるだろう。牧園に移るまで相当長い間逗留させられていたのではあるまいか?
3、事件から学ぶこと
 清麻呂が仮にもし道鏡におもねり道鏡を皇位に就けよという神託を真実として上奏していたら、実際に道鏡天皇が実現していたであろう。
 そうなると、時の最高権力者であれば誰でも天皇になることが可能となり、日本の歴史は違ったものになってしまったことは否定できない。
 天皇位は権力争いの対象となる存在ではなく、権力を上回る「権威」の象徴であるということを肝に銘じる必要がある。
 激動の奈良時代末葉に、このような偉大な人物を持ち得たことを我々は忘れてはならない。
4、和気清麻呂年譜
 天平2(730)年 姉の広虫この頃誕生
  同5(733)年 備前国藤野郡に誕生
  同15(743)年 上京して仕官
           聖武天皇大仏造立発願
 天平神護元(765)年 「藤野別真人」となる
           道鏡が太政大臣禅師になる
 神護景雲3(769)年 宇佐神宮への使者となる
              9月清麻呂・広虫配流
 宝亀元(770)年 配流先より召喚され復位する
            道鏡が下野薬師寺へ流される
 延暦15(796)年 清麻呂民部卿・造営大夫任官
  同18(799)年 正月 姉・広虫没
           2月 清麻呂没(67歳)

                                            目次に戻る