九州自動車道は去年4月の熊本大地震によって路肩等の凸凹や亀裂などの改修工事がまだ続いており、緑川から益城熊本空港まで一部が片側車線の交通でやや時間を要したが、おおむね順調に走った。 北熊本サービスエリアで日帰り組の大隅町のG氏夫妻と落ち合い、田原坂資料館へ向かった。 田原坂資料館はリニューアルされており、展示場ロビーでまずはビデオの紹介があった。 |
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明治10年3月3日から始まった田原坂での攻防戦は、一般的には薩軍の鉄砲の性能が政府軍より劣っていたため苦戦を強いられた。結局は兵器の性能と食料等の補給上の格差のために薩軍は敗れていった――というような見方をされることが多いが、実は田原坂に限って言えばここは接近戦の場所であり、接近戦では示現流の使い手の多かった薩軍が圧倒的に有利であった。 苦慮した政府軍側はここで「抜刀隊」を組織することを思いつき、同じ示現流で学んだ薩摩人の多い警視庁の警官隊に白羽の矢を立て、呼び寄せて薩軍と戦わせた。これは功を奏したが、同郷人同士が血刀を振り回して争う地獄絵となった。 この状況を歌にしたのが「雨は降る降る、人馬は濡れる、超すに越されぬ田原坂」である。 |
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田原坂から江田船山古墳のある和水(なごみ)町へはわずか10キロほどで、江田船山古墳は菊池川に面する丘陵地帯に展開する。 同古墳から銀象嵌文字の刻まれた太刀が出土し、関東は埼玉県の埼玉古墳群中の稲荷山古墳出土太刀の金象嵌文字にも同じ「ワカタケル大王」という雄略天皇に比定される人物が見られたことで全国の話題をさらった。 このことは畿内の大和王権が5世紀末にはほぼ全国的に統一王権化していたことを裏付け、非常に重要な発見となった。 大隅地方にみられる巨大前方後円墳よりもこちらのほうが規模も小さく、年代も30〜50年ほど下るのだが、規模の割には副葬品が極めて豪華な古墳である。 |
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江田船山古墳から東北方面に5キロほどで九州自動車道に乗り、八女インターチェンジで高速道路を降り、そこから約20分で岩戸山歴史交流センター「いわいの館」に到着。 館内の展示品の中には朝鮮半島との交流を示すものが多く、「筑紫の君」の大きさを物語っている。 岩戸山古墳は筑後風土記(逸文)の示す通り 磐井の「生前墓」であるが、岩井その人は政府軍によって殺害されており、そのような反逆者がいくら生前に自分のために造成したと言っても葬られるはずはない。 では石室は空っぽなのか、別の誰かが埋葬されているのか、大変興味のあるところである。 |
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八女市中心部の八女市伝統工芸館でG氏夫妻と別れた一行10名は、八女市の東20キロほどの山中にあるグリーンピア八女に投宿した。 まるで何十年ぶりかに再会した同窓生であるかの如くに宴会がはずみ、宴会後にはカラオケにまで繰り出した。 |
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明けて27日、グリーンピア八女を出発した一行は、グリーンピア八女の麓にある黒木町の猫尾城跡に向かった。 黒木中学校のすぐ裏山が城跡で、標高差は150メートルほど、車で10分で本丸跡にまで到達する。 典型的な山城である。車を登らせるための舗装道路などの改変が大きかったため、県指定止まりだったのだろう。改変がなければ国指定になっただろうと思われるのに惜しかった。 その代り、我々のような高齢者でも中世の山城の雰囲気を味わえるのだから面目ない。 この猫尾城は直前まで大隅の禰寝院を支配していた大蔵太輔源助能(すけよし)が移封されて来て、仁安6(1167)年に築いた城である。 黒木郷は徳大寺家の瀬高荘に属しており、肥後と豊後との境界領域にあり、重要な守備拠点であった。案の定、戦国末期には豊後の大友氏によって落城させられている。 |
本丸跡は見晴らしの良い山頂である。桜祭りでも開催するためか、周りの桜には提灯電球が吊るされていた。 |