魏志韓伝

 「魏志韓伝」は約2000字で、倭人伝より20%ほど少ないが、三つの韓(馬韓・弁韓・辰韓)の歴史・風俗がよく分かり、紀元前から3世紀半ばまでの史料として、これに勝るものは無い。

 倭人伝解釈との大きな違いは、馬韓、弁韓、辰韓のそれぞれの位置にまったく異論がないということである。

 ここでは、まず、馬韓、弁韓、辰韓についてその概要を表であらわし、その後、倭人との関わりのある記述を注記し解釈を加えていくことにする。

位置 国勢 首長 歴史 風俗
馬韓 韓半島南部の
西半分。
※韓全体は今
日の韓国にほ
ぼ重なる。
 ただし現在の
ソウルおよび南
岸を除く。
 55の小国に
分かれている。
 大国は1万戸
小国は数千戸か
らなり、総計で10万戸余り。
 各国には
長帥がいる
 大国の君
主は「臣智
といい、小国
の君主は「
」という。
 後漢時代は楽浪郡に
属していたが、桓帝・霊
帝の頃(147〜188)、
韓とワイが非常に強盛で
郡では制御できない状態

になった。
 楽浪郡民で流れて韓や
ワイに行く者が多くなった
ので、魏の明帝は以前に
滅ぼした公孫氏が置いた
帯方郡を掌握し、そこを拠
点にして韓とワイとを討伐
した(景初年間=237〜
239)。
・葬るのに槨はあるが、棺はない。
牛馬に乗ることを知らない
・5月に種まきを終えると、鬼神
を祭って歌舞飲食する。
・舞う時は数十人が共に舞う。
・国中の邑々には「天君」という
司祭がいる。

・諸国には「蘇塗(そと)」と呼ばれる別邑がある。その中では、
大木を立てて鈴や鼓を吊り下げ
鬼神を祭っている。
・男子の中にはときどき「文身」
が見られる。
 
弁韓  位置の正式な記述はない。
 洛東江の中流域以南だろう
 ただし最下流
の金海市あたりは、倭人国の
狗邪韓国と思われる。
12国からなる
だが、数えてみると13国ある。
 辰韓も同じく
13国。
 大国は4〜5千家、小国は6
〜7百家であり
弁・辰韓併せて
4〜5万戸。
 12国にはそれぞれ渠帥がいる。  弁韓はほとんど「弁辰」と記される。「弁」を「わきまえる・わかつ」の意味とすると、「弁辰」とは「辰韓を分けた国」つまり「辰韓
から分離した国」ともとれる。
 「弁辰は辰韓と雑居す
という表現はその意味だろうか。
・馬韓や辰韓には無い城郭がある
・衣(食)住は辰韓と同じであり、言葉も法俗(しきたり、慣習)もよく似ている。
・神事には若干違いがある。
・竈はすべて家の西に据えられている。
広幅の細目の布を産出する。
辰韓  馬韓の東にある 12国からなる。 辰王
ただし、辰韓12国は馬韓人に統治させており、実際には辰韓の王として自立していない
 古老の伝承によると、辰韓は「古之亡人(いにしえのぼうじん)」すなわち春秋戦国期より前の亡命者が、秦末の動乱時に到来し、最初、馬韓の東部を分割されて入り(月支国)、その後6国から12国にまで増えた。
 馬韓(人)とは言葉が違い、国を「邦」、弓を「弧」、賊を「寇」と言ったりする。
 また楽浪人のことを「阿残」と言うが、東方人(東夷)は自分のことを「阿(ア)」と言うから、その「阿残」とは秦末の動乱で落ち延びてきて建国された12国の国人の片割れということになる。
・土地はよく肥えていて、五穀や米が採れる。
・桑と蚕からケン(糸偏に兼)布が作られる。
・牛馬に乗る
・鳥の羽で死者を送る。
弁韓とともに鉄の産出が多く、韓は無論、倭もワイも採取にやってくる。
・銭の代わりに鉄テイ(鉄偏に延)が使用されている。
・子が生まれるとすぐにその頭を圧し、狭頭(褊頭)にする。
男女とも倭(人)に近く、文身をしている
戦いは歩戦で行う。
城柵がある。


























(注)

戸数(人口)・・・馬韓が10万戸、弁韓・辰韓あわせて4〜5万戸。最大で15万戸とすると、韓(三韓)は九州島の邪馬台国連盟(女王国以下22国)が7万戸、南九州の投馬国が5万戸、邪馬台国と投馬国の間にある狗奴国(今日のほぼ熊本県域)の戸数は不明だが仮に3万戸とすると、合計15万戸で、これにおおむね匹敵する。
 ただし、私見では北部九州の旧国名「筑前と豊前の一部」には「大倭国」さらに「豊前の南部と豊後」には別の国家があったので、九州島全体で20万戸は下らない戸数があったと見る。

馬韓の首長「臣智」「邑借」・・・漢字読みすれば「臣智」は「シンチ」で『垂仁紀』の2年条に出てくる任那人使者「蘇那曷(ソナカ)叱智」の「叱智」がこれに相当しよう。ただしソナカ叱智は任那(弁韓)人だが、『垂仁紀』には半島人としてはこの任那人と新羅人しか登場しないので、任那人に馬韓人をも含めている可能性が高い。
 次に「邑借」は「ユウシャク」と音読されるが、倭人語で「むらおさ」のことかとも考えられる。そうなると「臣智」も「おぢ」と倭語が当てられるかも知れない。
 そんなバカなと思われるだろうが、馬韓条には、首長「臣智」が北朝鮮のワイの地域から南部に亡命してきた「辰王」こと「箕氏準」に分割した最初の国「月支国(ゲッシ国・つくし国)」の首長すなわち辰王を次のように呼んでいる。これは一見して漢文のようだが、実は万葉仮名のように読み取ることができるのだ。

  辰王は月支国を治む。臣智あるいは加優は(辰王を)<臣雲遣支報安邪淑支濆臣離児不例拘邪秦支廉>の号で呼ぶ

 馬韓の一国であるはずの「月支国」を辰韓王である辰王が統治しているわけは、辰韓の表の「歴史」で明らかだが、その次がいわくつきの箇所である。
 まず「臣智」は馬韓の国の官(王といってよい)名だが、「加優」が不明である。しいて考えれば「夫余や高句麗の王族の称号である加」にその中でも優れた・地位の高い者を「加優」と書いたのだろうか、いずれにしても半島人の中の王者クラスの人物たちが、< >内の称号で呼んでいるという。これを漢文として読んでも読めないのが困る。だが『謎の契丹古伝』(佐治芳彦著、徳間書店刊)の次の箇所の解釈で解明の糸口がつかめる。

  <辰ウン(サンずいに云)ケン(糸偏に遣)翅報>
 
 これを『謎の契丹古伝』では「シウクシフ」と読み「東の大きなクシヒ」すなわち「東の大王」と訳しており、これを是として援用すると、このいわくつきの箇所は
 
<東の大王で、あやしき聖に降る(お方で)狗邪(伽耶)・秦(辰韓を)知る>
と訳せ、もう少し言葉を補うと
 <東の大王にして天から降臨され、伽耶(弁韓)も辰韓もしろしめす大王>となる。

 要するに、半島人の中でも少なくとも王者クラスは倭語に極めて近い言葉を使っていたということが判明し、「臣智」に「おぢ」、「邑借」に「おさ」を当てて読んでも違和感を感じないのである。

韓とワイの強盛・・・韓でも弁韓・辰韓にまたがる地帯は鉄の大産地であった(伽耶鉄山=「神功皇后紀」では「谷那鉄山」)。これの生産で半島南部への人の移動が隆盛を迎えた。北からはワイ人たちが、南からは倭人たちが大挙してやってきたはずである。楽浪郡に属する人民も多くがその中に紛れ込んだのだろう。それを「郡県制するあたわず」と書いている。
 中でも倭人の場合、半島在住の者のみならず九州島を中心とする海人(航海民)系の種族が、鉄の生産から精錬、製品の運搬(もちろん船で)を担って繁栄した。そのことが辰韓条には「国は鉄を出す。韓・ワイ・倭、皆これ(鉄)を採るに従う。」と書かれている。

帯方郡の掌握・・・公孫氏が200年代初めに置いた帯方郡を、魏が景初年間(237〜9年)に大軍を送って掌握した。そのとき韓の諸国の「臣智」らに「邑君」という称号を与えて支配下に組み入れたが、一部で手違いがあり韓は怒って叛乱を起こしたという。そのことを原文(を補った読み下し文)で、

 
<部従事の呉林(という事務官)が、「楽浪がもともとは諸韓国を統治していたのだから」とばかり辰韓(12国)のうち8国を分割して帯方郡ではなくはるかに遠い楽浪郡に帰属させてしまった。これについて事務官の説明に納得できない諸韓国の「臣智」たちは激怒し、ついに帯方郡の崎離営(という郡治所)を攻めた。時の帯方郡太守の弓遵および楽浪太守の劉茂は兵を率いて鎮圧したが、弓遵は戦死する羽目になった。
 
この叛乱の後、両郡はついに韓を滅亡させた。>
 
 と記す。魏の帯方郡掌握がいかに韓にとって大きな脅威だったかということがよく分かる。帯方郡の太守が戦死するほどの叛乱だったのだ。
 これに対して魏ももちろん黙ってはいない。両郡を督励して三韓、なかんずく叛意の強かった辰韓を強く叩いたであろう。その結果「ついに韓は滅亡した」というのである。したがって単独で最大の敬意を受けていた辰韓王の帰趨やいかにと思われるところだが、不思議とその記述は無い。当然、郡に引き渡され、それだけの大王であるのなら、魏の王都まで連行されたであろうにそんな記述は見られない。
 そこで私見では「すでに九州島に亡命していた」と見るのである。これなら捕縛も連行もされるまい。
 その亡命先はどこか? 糸島郡だろう。かってここは「イソ国」であった――とは「筑前風土記」「仲哀天皇紀」の共に記す事で、そこに居住の「五十(イソ)迹手」は、半島からの渡来者であり、祖先が意呂山に天から降ったと言う。まさに先に触れた「東の大王」の属性そのものである。
 
またこのことと、辰韓の表の「首長」にまとめてある「12国を自立して治めてはいない」
とは完全に整合する。すでに海を隔てた九州島に在住していたがゆえに、統治は当然のこと不可能だったわけである。

天君・・・「テンクン」と読むか。要するに司祭者・祭祀者のことだが、天神を祭るからそう名付けたようで、これをもし倭語で「あめぎみ」と読むとすると、『隋書』の「東夷伝倭国」開皇20(600)年条の「倭王、姓は阿毎(アメ)、字は多利思比孤(タリシヒコ)、号の阿輩鶏彌(アメギミ)」とある最後の号名「アメギミ」と重なってくる。
 もし「あめぎみ」なら、馬韓の方がより古い使用例であるから、「あめぎみ」は「馬韓→倭」という移動が考えられ、この隋に遣使した倭王は馬韓系か、馬韓の影響を強く受けた倭王ということになるだろう。
 600年は例の白村江の敗戦(663年)より前であり、馬韓の後裔である百済に肩入れした倭王とはもしかしたら、近畿の倭王ではなく、九州島の倭王かもしれない。いわゆる九州王朝存在の可能性は捨てきれない。

蘇塗・・・「ソト」。国々には「蘇塗」と呼ばれる別邑(別区)があり、大木を立てて鈴や鼓を取り付け、神(鬼神)を祭って仕えている。神事を執り行うのは、上で述べた「天君」かと思えば、記述からはそうではないようだ。そうなると「天君」は国家祭祀的なレベルを担当し、「蘇塗」の場合は民俗的なレベルという風に分けたものだろうか。
 後者は「諸亡逃げてその中に至れば、みなこれ(蘇塗)より還らずしてよく賊をなす」と書いてあるように、いわゆる「サンクチュアリ」でもあったようだ。
 「ソ」は倭語で「セ(背)」の意味かとも考える。「背」は「根幹・バックボーン」のことで「聖地」と言い換えてもよい。「ト」は「処」だろう。そうすると「ソト」とは「聖なる初源の土地」を意味し、「天」に対する「地」、そこを守ってくれる土地神を祭る場所なのだろう。

城郭・城柵・・・馬韓には城柵も城郭もなく、辰韓には城柵だけ、そして弁韓には何と城郭がある。城郭は「城」つまり「王都(王宮のある街区)」が城壁に守られていることで、弁韓だけがそのような体制を築いていた。「法俗は特に峻厳である」と書かれていることと符合する。
 弁韓は「城郭都市」すなわち「商業都市」だったと見てよい。「幅の広い細目の布を産出する」とあるのもそれは「商品としての布」に違いない。辰韓も弁韓もともに人民は「文身(入れ墨をほどこす)」していたとあるように、住民の基層は倭の航海民が中心だったから、海上交易品として鉄製品とともに布(繊維)なども取り扱い、財を成していたのだろう。

歩戦・・・歩兵による戦い。江上波夫の「騎馬民族説」は大略「辰王が騎馬民を引きつれて海を渡り、九州にまず辰王朝を築き、発展したのち応神天皇の時代になって、騎馬軍による畿内王権争奪を遂行した」というものだが、応神天皇の時代に騎馬および騎馬戦の習慣を取り入れたことに異論は無いが、それよりはるか以前の辰王(辰韓王)の時代にすでに騎馬武者がいたような記述はどこから来たものだろうか。魏志韓伝はもとより高句麗伝を読んでも、3世紀半ば当時、韓半島に騎馬軍の存在は有り得ない。

東夷人の「阿(ア)」
・・・大陸中国人の言う東夷とは、山東半島から遼東半島を含む朝鮮半島、南満州、そして日本列島をひっくるめた広大な土地を指している。
 この東夷の種族が自分のことを「阿(ア)」と言う、とここでは書いてある。上の地理観からすればほぼ北朝鮮を指す「楽浪地方」にも自分のことを「ア」という人たちが居たことは間違いなく、魏志で言えば「ワイ」が、山海経で言えば「アイ人」がそれに相当しよう。

 
                              (魏志韓伝の項終り)     三国志魏書の目次に戻る