三国志・魏書・東夷伝(1)

正確には『三国志・魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝』だが、略記して表題を付けてある。

 「烏丸」「鮮卑」という現在の満州からモンゴルに近い国(部族)を除外したのが『東夷伝』であり、そこには「倭人」をいれて都合七つの種族の記述がある。

 倭人に関する条(項目)を一般に「倭人伝」と表すが、同様に他の種族の伝を挙げると、「夫余伝」「高句麗伝」「東沃沮伝」「ユウ(手偏に邑)婁伝」「ワイ(さんずいに歳)伝」「韓伝」となる。

 このうち直接、倭・倭人について言及されるのは「倭人伝」は当然のこととして、他には「韓伝」しかない。
 
 しかし中国史料の『山海経』『後漢書・檀石槐伝』などには、倭人らしき種族が北部朝鮮に居たようにも取れる記述があり、看過し得ないので、一応「倭人伝」と「韓伝」以外の諸伝について、表にして一覧しておくことにする。(注意:文字のサイズSでは表の下の注が著しく下方へ離れてしまうので、サイズМで御覧ください)


  夫余・高句麗・東沃沮・ユウ(手偏に邑)婁・ワイ(さんずいに歳)一覧

伝名 位置 国勢 首長 歴史 風俗
夫余
 フヨ
長城の北
玄菟郡から
東へ千里
※南満州
シェンヤン、
フーシュンを含む一帯
二千里四方
戸数は8万
東夷の諸国
では、最も平
原が多い。
「君王あり」と
記すが、具体
的な王名は
無い。 官に馬加・牛加・猪加・狗加
大使者・使者の七ランクがある。
漢代には漢王朝に対して朝貢し
玉壁などを賜与されていた。ただ
印には「ワイ王之印」とあり、また
国内に「ワイ城」と名付けられた
城もあるから、夫余王はもともと
はワイに居たようだ。
 このことと、古老が伝えている
「我々は昔、この地に亡命してきた」という伝承とは整合する。
・白衣をとうとぶ。
・跪き、手を地面に付いて物を述べる。
・古老は「昔、ここへ亡命してきた」と言う
高句麗
コウクリ
遼東の東
千里にある
※鴨緑江中流から上流の山岳地帯にある
二千里四方
戸数は3万
大山深谷が多く、良田が無い。
「王あり」と記すが、王名は無い。
 官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿
優台丞・使者
ソウ衣・先人の九ランクがある。
後漢の光武帝8(32)年の時に
初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。
 遼東を独立国にしようとした公孫氏と組んで、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2(238)年に、公孫氏が司馬将軍に討たれると、帰順した。
・五族がある(涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部)。
・伝承では夫余の別種だという。
・10月に天を祭り「東盟」という大会を開く
・国の東に洞くつがあり、そこに「隧神」がいるとする。
東沃沮
ヒガシ
 ヨクソ
高句麗の東で、東海に面している。
※北朝鮮
咸鏡南道の一帯
戸数は5千 大君主なし。
邑落ごとに
長帥がいる。
秦末期の混乱期に、燕から亡命してきた衛満が朝鮮王になった時、東沃沮はこれに属していた。
 だが漢の武帝が衛満の孫・右渠を誅殺し、四郡が置かれた際に、沃沮は玄菟郡になった。
 後漢時代になると、はじめワイに属していたが、のちに高句麗に臣属するようになった。
古老の伝承に
・東海に数十日流された者が、とある島に着いたが、言葉が通じなかった。
・男が居ず、女ばかりの島がある。
など、倭人の島を想わせる記述がある。
ユウ婁
ユウロウ
夫余の東北千余里
東沃沮の北の海岸沿いにある
戸数の記載無し 大君長なし。
邑落ごとに
大人がいる。
夫余に属していたが、黄初年間(220〜226)に叛乱を起こし、夫余は収束させようとするのだが、毒矢と山岳に拠るゲリラ作戦のためてこずっている。 夫余人に似ている。
寒さがはげしいため穴居生活をしている。
 操船が上手で、時に近隣を襲うことがある。
ワイ(さんずいに歳) 高句麗の東、沃沮の南、辰韓の北、東は海に面する。
※今日の北朝鮮から東沃沮と楽浪郡域を除外した領域
戸数は2万 大君長はなし
漢が朝鮮・満州に四郡を置いて(BC108年)から、官として「侯邑君」と「三老」があった。
殷王朝末期に亡命した王一族の箕子の王統が続き、その40数代の準王の時、燕からやって来た衛満のために王位を奪われ、準王は南へ逃れる。
 その約100年後の武帝の元封3(BC108)年に衛氏は滅ぼされ、四郡が置かれたが、ワイの西半分は楽浪郡に属し、東側の七県が渠帥(ワイ人)の治める所となった。
 魏王朝になると渠帥は「不耐ワイ王」として半自立し、租税・兵役を負担した。これにはよく応じているので、郡はあたかも郡民であるかのように扱っている。
 
ワイ人の習俗として挙げられるのは
・山川に入会制度のようなものがあり、みだりに入れない
・同姓不婚
・疾病で人が死ぬと、その家を取り壊して建て直す。
・10月に天を祭り、昼夜にわたって歌舞飲食する
・虎を神として祭る
・厳しい刑罰が定められていて、人を殺せば死を以って償う
 ・・・・・・・・・ など。

    (注)

   戸数・・・南満州の扶余が戸数8万と圧倒的に多いのは、国勢にあるように「東夷の中では最も平地が多い」    という記述に対応している。しかし、それにしても多い。他の高句麗が3万、ワイが2万であるからその大きさ    は突出している。ただ、ひとつ考えなければならないのは、ワイは西半分を漢支配下の楽浪郡に組み入れ     られてしまったということである。もし、そこがワイの領域のままだったら、ワイはおそらく少なくとも現状の2     倍はあっただろうと思われる。
     夫余条にあるように、夫余ももともとは本貫地はワイだったらしい。とすると、夫余の大人口はもしかしたら    楽浪郡が置かれた時にワイから逃れた人々を抱え込んだためと考えることも可能だ。
    しかし、戸数で言えば韓は「馬韓」が10万余戸、「弁韓」「辰韓」あわせて4〜5万戸、合計で15万戸ほどあ     り、国土面積を加味した戸数密度では倍以上である。
     また、九州島に限定される倭人国では「女王国連盟」が7万戸、投馬国が5万戸、「奴国」が2万、合計14    万戸。その他、女王国の南にあって敵対している狗奴国があり、戸数の記述は無いが仮に3万戸ほどとして、   総計17万戸くらいが3世紀半ばの九州島全体の戸数と考えられ、戸数密度は三韓をさらに上回る。
 
   この地に亡命
・・・ワイ(北朝鮮)からの亡命。「ワイ伝」また後述の「韓伝」から読み取れるのは2回の亡命    である。ひとつは「ワイ伝」にあるように、漢の武帝が衛氏を滅ぼし、四郡を置いたときで、紀元前108年前     後、もうひとつは「韓伝」からだが、ワイの地に燕から衛氏(衛満)が逃れてきて、そのままワイを乗っ取った「    秦末の混乱時」の紀元前200年頃のこと。
     このあとの時、ワイを支配していた箕子の後裔「準王」で、衛満の侵攻によって南に逃れ、馬韓に受容され    て小国を与えられている。箕子の王族は南に逃れたが、北の夫余あたりまで逃れた者のほうが多かったの    かもしれない。

   高句麗王・・・このときの高句麗王は、第三代の「大武神王」(AD18〜44年)である。

   箕子・・・殷王朝の最後の紂王の叔父と言われている。紂王の暴虐をいさめたが聞き入れられず、発狂を装    って朝鮮へ亡命したとされる。また周王朝を開いた武王から「朝鮮侯」の称号を賜与されたともいう。
     亡命の地は朝鮮北部で、おおむね「ワイ」すなわち今日の北朝鮮に重なる。ここの民は箕子の「八条の教    え」に従い、「昼夜、門戸に鍵をせず、盗みも無かった」ほど純朴な民であったらしい。
     後漢書・檀石塊伝では、遼河の東方に「倭の水人」が居たと書く。「ワ」と「ワイ」はやはり同義としていいの    ではないか。いつ倭人がワイ(北朝鮮)にまで進出したのかの由来は不明だが、韓伝で明らかにするように   、九州島を本拠地とする航海系倭人が半島まで往来していたことは確実であるから、早ければ縄文時代に遡    る可能性は高いと思う。


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