平成30(2018)年正月 初日の出と初詣で風景
 〜大姶良と吾平山陵〜

【平成30年正月元旦の初日の出】

鹿屋市池園町のわが家の庭から見る初日の出

肝付町の肝属山地の稜線から昇る太陽

 上は午前7時25分頃で、稜線の上の空全体がほんのり赤くなってきた。


 
下は午前7時34分、稜線の上に太陽が見え始めた。

平成30年正月元旦の初詣で風景
【吾平山陵】
(吾平山上陵が正式名)

 
上は参道入り口付近に並ぶ露店

 下ははるか向こうに洞窟御陵の入口(鳥居が立っている)を望む川沿いの広場


 神武天皇の父君・ウガヤフキアエズ
ノミコトと妃・タマヨリヒメの御陵が吾平山上陵である。

 皇室の御先祖の墓ということになるが、神武天皇の先代ということであれば、約1800年から2000年前の遠い昔の話で、誰もがそのDNAのかけら位は受け継いでいるといってもよく、われらが祖先様に当たる方々に違いない。

 ただ、多くの初詣で客が神宮大麻や熊手などの古くなったのを下の奥の方に見えるテントの中の台に置いて行くのだが、ここは神社ではなく墓(御陵)なのだからお参りはしても、そのような行為は本来すべきではない。宮内庁書陵部の管轄だから、宗教色のないお役人が管理しているわけで、迷惑千万なはずである。


 
 【鵜戸神社

 鹿屋市吾平町の中心部にある「鵜戸神社」

 吾平山上陵に眠るウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメの御魂はこの神社に祀られているので、初詣で(神様参り)をするのなら本当はこちらの社に詣でるのが正式である。


 上は商店街通りから見た鵜戸神社の入口(鳥居)

 下は鳥居から入って参道を抜け、3段ほどの石段を上がった境内と社殿及び社務所

 この鵜戸神社は明治4(1871)年に、ここから約4キロ南の現在の吾平山上陵の向かい側にあった「鵜戸六所権現」(天平年間の建立という)を移設したもので、もとから当地に鎮座していた「若宮八幡宮」は1キロ余り南の中福良地区に遷された。現在は田中八幡神社と名称を変えている。


 この若宮八幡宮の由緒も古く、都城に拓いた田地を藤原頼通に寄進して「島津御荘」とした平季基の弟・良宗が吾平に入部して拓いて鹿児島八幡宮に寄進した際に、建立したお宮と伝えられている。


 
 



神代三山陵はニニギノミコトの御陵と言われる薩摩川内市の「可愛(えの)山上陵」、ホホデミノミコトの御陵と言われる溝辺町の「高屋山上陵」、そしてウガヤフキアエズノミコトのこの「吾平山上陵」だが、前の二山上陵が高塚古墳様式であるのに対して洞窟を御陵としているという大きな違いがある。
 吾平山上陵が洞窟を御陵としたのは、@墓を暴かれたくない(隠匿しておきたい) A巨大な風水害・火山噴火が多発したことにより、通常の墳墓では埋没してしまうため、洞窟を墓とした――のいずれかではないか、と考えられる。
 特にAは天照大神がスサノヲの暴虐によって洞窟である「天の岩戸」に隠れてしまったこととの親縁性がある。
 因みに「隠れる」とは「お隠れになる」つまり「死」を意味するわけで、この御陵は天照大神にはあった「岩戸明け」(復活)の無いまま鎮まったのだろう。
   【鵜戸六所権現】

 上の図は鵜戸神社の前身である鵜戸六所権現が吾平山上陵の対岸に鎮座していた頃の絵図で、『三国名勝図会』(天保14年=1843年編纂)の「姶良郷」旧跡から写したもので当時の吾平山上陵の全体図である。左下に「鵜戸権現」の屋根が見える。

 下の図は洞窟御陵の内部に建立された御廟(墓)で、洞窟内の広さは4畝(約120坪)あるという。


 吾平山上陵の対岸に鎮座していた鵜戸六所権現はウガヤフキアエズとタマヨリヒメそれに五瀬命・稲飯命・三毛入野命および神武天皇の4兄弟の六柱を祭っていたので、「六所」というが、現在の鵜戸神社も同様である。


 高貴な人々が亡くなると普通は高い所、自分が治めていた土地が見渡せるような岡や小高い山の上に亡骸を埋葬して祭るというのが普通だが、この御陵はその点で著しく他とは違い、墓そのものを秘匿したい理由があった可能性が高い。

 この点について考えを巡らす人はほとんどいない。多くは言及を避ける。なぜなら「どのみち神話だから、考えても仕方がない」ということだろう。

 しかし通常の御陵のようではないことに、ウガヤ伝承に秘められた過去があるとみなす筆者にとっては意義があり、筆者なりの伝承解釈に整合性があるのではないかと考えている。


 ごく簡単に言えば、ウガヤフキアエズと云う名前そのものに「朝鮮半島南部の倭人国・大伽耶(ウ・カヤ)の反映を見るからである。

 
(※大伽耶の地を離れて(亡命して)南九州まで落ち延びたのか、帰還したのかの詮索はひとまず置くが、ウガヤの4人の子(皇子)の一人「稲飯(イナヒ)命」は、古事記では「海に入って母の国へ行った」と書き、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の「新良貴(しらぎ)」姓の項に、「ウガヤの息子・イナヒ命の後裔である。イナヒ命は新羅で国主となった。イナヒ命は新羅王の始祖である」と書いてある。)
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