下伊倉城跡

「しもいくら」城は肝属川下流の海抜わずか3〜4メートル
の肝属川右岸に構築された城で、水運を意識している点で中世の城としては全国的にも稀な存在である。

 築城の年代は未確認であるが、高山に本拠を築いた肝付氏初代・兼俊(かねとし)によるものとされており、十一世紀後半と考えられている。中世の城といえば山城が普通であるが、このような形態は他に例がないと思われる。

 ここから肝付氏には相当な水軍があったのではないかという見方も登場する。事実、戦国期に島津氏と干戈を交えた時、鹿児島湾を越えて島津氏の本城であった清水城を攻めているから、水軍の巧者であったことは証明されている。

 肝付(肝属、肝坏、肝衝とも書く)という地名は古く、続日本紀には「日向のうち肝坏・姶羅・大隅・曽於の4郡を割いて大隅国を建てた」(和銅6=713年)とある。
 ところがその13年前の文武天皇4年、大和王権が遣わした南島への調査団一行を脅迫したという在地の有力者の一人に肝衝難波という人物が挙げられており、キモツキは7世紀にまでさかのぼることがはっきりしている。
 
 この肝衝難波と肝付氏との関連は取り沙汰された事はないが、筆者は間違いなくあると見ている。

 下伊倉城は三重の掘割に囲まれ、堰堤の高さは8bとも12bとも言われており、きわめて堅固であったようである。
 残念なことに昭和22,3年の頃の河川改修によって右の写真の赤枠の部分が半分に切られてしまったうえ、川自体が北側を流れるようになったため、往時の面影はほとんど残っていない

肝属川の右岸土手から望む城跡。かって川は
こんもりした城跡の向こう側を左手に流れ、城を囲んでいた。

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