神功皇后紀を読む

誕生   父は気(息)長宿禰王  母は葛城高額媛(カツラギタカヌカヒメ)

和風諡号  日本書紀: 気長足媛
         古事記 :息長帯比売


     
 磐余若桜宮

夫     仲哀天皇

皇子    ホムタワケ(誉田別)
  (注)古事記ではホムヤワケもいる

陵墓    狭城盾列陵
(ささきのたたなみのみささぎ) ※古事記には仲哀記に割注として「狭城楯陵」とある。

古事記では「神功皇后記」というものが無い。事績はほとんど「仲哀記」に含められている。
また、神功皇后の母方の先祖が朝鮮半島から渡来した「天之日矛(アメノヒホコ)」であることが、半島がらみのことは書かないことをテーゼとしている古事記には珍しく堂々と「応神記」に記されている。それは次の通り。
 アメノヒボコ(新羅王子=祟神・垂仁天皇時代=3世紀末〜4世紀初め)―タジマモロスク―タジマヒネ―タジマヒナラキ―キヨヒコ―スガカマユラドミ―カツラギノタカヌカヒメ―オキナガ(イキナガ)タラシヒメ=神功皇后
 その一方で、書紀では「垂仁紀」3年条の分注で「天日槍は・・・マタヲを娶り、但馬諸助を生む。・・・清彦は田道間守を生む」とし、母のタカヌカヒメに繋げているだけである。

   
    <時代順の事績>  

事    績
摂政元年
(辛巳年)
 354年
 ―摂政前紀(仲哀天皇9年)―
神がかりになり「住吉三神」「アマサカルムカツヒメ命」「コトシロヌシ神」などが示される。
羽白熊鷲を討ち、山門のタブラツヒメを誅する。
和珥津(対馬)から出航して新羅に往くと、新羅王は図籍を持参して降伏し、三韓を内官家とする。この年の12月にホムタワケが誕生(筑紫の宇美で。古事記では蚊田)。
 ―摂政元年―
豊浦宮の仲哀天皇の遺骸と共に帰るが、途中でカゴサカ王・オシクマ王兄弟の攻撃を受けるも、武内宿禰武振熊などによって討ち取る。
2年(355) 仲哀天皇を河内の長野陵に葬る。
3年(356) ホムタワケを皇太子とする。磐余に若桜宮を造営。
5年(357) 新羅、人質だったミシコチホッカン王子を取り戻す。葛城襲津彦、新羅に到り草羅城を落とす。
13年(358) 武内宿禰、ホムタワケを角鹿へ連れて行くき、笥飯大神を参拝。
39年(359) (分注で景初3年=239年に引き当てている)=干支二巡(120年)の繰上げ
40年(360) (分注で正始元年=240年に引き当てている)= 同上
43年(363) (分注で正始4年=243年に引き当てている)= 同上
46年(366) 斯麻宿禰を卓淳国へ遣使。卓淳国王は「百済の使いが誤ってやって来た」と教え、宿禰は百済へニハヤと卓淳国人カコの二人を遣わす。
47年(367) 百済がクテイ・ミツル・マクコを送って朝貢させたが、途中で新羅に捕らえられ、朝貢品を無理やり交換させられたと言うので、千熊長彦を遣わして真偽を問わせる。
49年(368) 荒田別・鹿我別を将軍とし、クテイらと共に卓淳国に到り、新羅への牽制を行う。ヒジホ・南カラ・トク・アラ・タラ・トクジュ・カラの七国を平定する。
50年(369) 荒田別ら帰還する。千熊長彦・クテイらも百済から帰る。多沙城をクテイの往還時の駅舎とする。
51年(370) 千熊長彦にクテイらを百済に送らせる。
52年(371) クテイら「七枝刀・七子鏡」などを献上に到来する。
55年(374) 百済の肖古王の死。
56年(375) 百済王子・貴須が王となる(近仇首王)。
62年(382) 葛城襲津彦に新羅を討たせるが、美女に惑わされて討たず、かえって加羅国を攻撃する。百済の木羅斤資を遣って討たせ、加羅を恢復する。
64年(384) 百済の貴須(近仇首王)の死。王子・枕流王の即位。
65年(385) 枕流王が死に、叔父の辰斯が王位を奪う。
66年(386) (分注で武帝の泰初2年=266年に引き当てている)=39年と同じ繰上げ
69年(389) 崩御。狭城盾列陵に葬る。(古事記記載の崩御年は太歳己丑=389年)

(注)
住吉三神
・・・航海の神とされる「表筒男(ウワツツノオ)」「中筒男(ナカツツノオ)」「底筒男(ソコツツノオ)」の三神。「ツツ」を星ととる解説がほとんどだが、そうとると「表」「中」「底」というのは星のどのような物(状況)を指すのだろうか?この点についてまともな解説をする論者はいない。
 私見では「ウワツツノオ」を「ウワ・ツ・ツノオ」と区切り「上・都・津之男」と分析し、「港湾の表面を司る神」と捉える。「都(ツ)」は「〜の」であり、「津(ツ)」は漢字の意味どおり「港」を意味している。
 次の「ナカツツノオ」は「港湾の中間を司る神」であり、「ソコツツノオ」は「港湾の底を司る神」のことだろう。
 つまり港では海水の干満によって海岸線の昇降があり、船を停泊させる際には是非とも知っておかなければならない事項なのである。そうでないと引き潮で船が座礁したり、逆に岡に上がったりする羽目になる。荷物を積んでいて座礁すれば、積荷は文字通り海の藻屑となり、せっかくの辛苦の航海が台無しになろう。
 この満ち潮・引き潮による海岸線(港湾喫水線)の上昇・下降を神格化して表現したのが「表筒男」「中筒男」「底筒男」なのであり、航海者の心得るべき必須の条件だったである。

アマサカルムカツヒメ・・・フルネームで「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ)」という。「ツキ(撞き)サカキ」で「賢しい木に憑依する」。「イツノミタマ」は「厳かな御魂」。「アマサカル」は「天朝からは遠く離れた」。そして「ムカツヒメ(向津媛)」とは朝鮮半島にいた(渡った)人物を指すと見てよかろう。
 この「向津」は摂政前紀の最後の分注にある神功皇后への憑依神の名「向櫃男聞襲大歴五御魂速狭騰尊」にも含まれている。「向櫃(ムカヒツ)」の部分がそれで、これを私見では「向津男」と読む。「対岸の港(津)にいる男」の意味である。こちらも朝鮮半島にいた(渡った)人物であり、男性である。
 ※向櫃男聞襲大歴五御魂速狭騰尊・・・ムカイツノオハヤサノボリノ尊。「ムカイツ」は「向津」で、「北九州から見て向かい側の津」すなわち朝鮮半島のこと。「キク」は「企救地方」で「福岡県企救郡」。「ソ(襲)」は「襲人」であるから、「キクソ」で「福岡県の企救地方にいた襲人(南九州人)」。「オオフ」は人名。ここまでで「朝鮮半島にいる企救地方出身の南九州人であるオオフ」となる。
 次からはこのオオフの持つ属性を表現している。「イツノミタマ」のイツは「厳」の意味で「気力・体力に優れた」を表し、「ハヤサノボリノ尊」は「素早く(船で)行き来する男(王)」と解釈される。
 したがって通してみると「朝鮮半島にいる企救地方出身の南九州人であるオオフという人物で、オオフは気力・体力に優れ、素早く九州と半島とを行き来できる人格(神格)を持っている男王」と言うことができる。

 「天疎向津媛」を岩波本『日本書紀』の神功皇后摂政前紀頭注では、国学者・鈴木重胤の説「皇大神=伊勢神宮の御許を疎らせ、はるかに向かひ居たまふ媛の義」を挙げている。しかし、そうなると「仲哀紀」8年9月条の「この国(クマソ国)にまさりて宝ある国。たとえば処女のマヨビキ(描いた眉)の如くにして津に向へる国あり」の中の「津に向へる国」は原文では「向津国」で、「向津媛」と漢文上なんら変わりはないのに、一方では「向かい居る」他方では「津に向かへる」と二通りに解釈しては筋が通らないことになる。
 私見では後者、つまり「津に向かへる」でよく、「向津国」とは、この場合では朝鮮半島を指すとする通説で何ら問題は無い。すると当然「向津媛」も北九州の対岸の半島を指すことになる。論理の一貫性からして問題のない所だろう。
 半島のことは決して書こうとしない古事記でさえ「応神記」には「神功皇后の母方は新羅出身のアメノヒホコだ」と詳しい系譜を挙げて載せている(上記※の部分)くらいなのである。疑う必要は無い。

 ※息長について・・・私見では神功皇后に関して、もう一つ通説と違うところがある。
 それは「息長」の解釈に関してで、通説では息長は近江国の地名「息長(村)」から来たとしている。だが、どんな地名辞典を調べても「息長」は明治時代を遡ることのない地名なのである。つまり明治になって付けられた地名に過ぎないことが判明している。
 ではどこか?それは「息長」を「おきなが」と読んでいては出てこない。「いきなが」と読むべきなのである。「息」を当たり前に「いき」と読む人物は同じ日本書紀に登場する。「安寧天皇紀」3年条は皇后と皇女・皇子の箇所だが皇后ヌナソコナカツヒメの長男は「息石耳命」で、これは「イキシミミ命」と読んでいるのである。また、『新撰姓氏録』「右京皇別下」の項に「阿保朝臣 垂仁天皇の皇子・息速別命の後なり」とあり、この「息速別命」は「イキハヤワケ命」と呼び習わしている。
 要するに「息」は「いき」と読むほうが普通で、「おき」とは読まないのが普通なのである。もっとも日本書紀ではそもそも「息」は使わずに「気」で通している。これをも含めて「おき」か「いき」かを考えてみよう。
 通説では「息」も「気」も「おき」と読ませているわけだが、これはどのような転訛を考慮しても有り得ない読みではないか?「息」は「いき」だし、「気」は「き」としか読めないのは明らかである。これに対して「息」を当たり前の「いき」と読む。すると「気」はどうなんだ?となるが、「き」は「い」の脱落と考えられないだろうか。
 と言うと「おき」論者は、「それなら、<おき>も<お>の脱落だ」と反論するだろう。安易に「脱落」を持ち出すとこのような「水掛け論」に陥るのだが、次のように並べ、かつ「息長」=「おきなが」というかって学習してきた「刷り込み」をいったんリセットして虚心に観察してみよう。

   息(古事記)・気(日本書紀)・・・どちらも「おき」と読むのか。
   息(古事記)・気(日本書紀)・・・どちらも「いき」と読むのか。

 「おき」「いき」をそれぞれローマ字化してみるともっと考えやすいだろう。

   おき→oki→uki   いき→iki→ki

 「おき」「いき」と実際に発音した場合、「お」と「い」とどちらが脱落しやすいか、あるいは聞き取りにくいかはすぐ分かるはずである。「き」の強勢の前で聞き取りにくいのは「い」のほうである。「お」だったら「う」に転訛して残る可能性が強く、まったく消去されてしまうことはないだろう。
 つまり「いき」なら「き」への脱落(転訛)が有り得ても、「おき」では「き」にまで転訛することは有り得ないということで、したがって「息」「気」は「いき」と読むほうが理にかなっているのである。
 さて「息」「気」が「いき」だとなると、「いき」とはどこを指すのだろうか?私見では「いき」と言えば「壱岐の島」の「壱岐」である。そして「息長」とは「壱岐長→壱岐中」のことであり、「壱岐(国)の首長」のことであると見る。父「息長宿禰王」からして壱岐の首長だったろう。その娘で後継者だったのが「息長タラシヒメ」こと「神功皇后」とみてよいと思われる。

コトシロヌシ神・・・フルネームは「於天事代於虚事代玉籤入彦厳之事代主神(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりひこ・いつのことしろぬしの神)」。神名としては最も長い部類に入る名であるが、国譲り神話に登場する大国主神の子のひとりで、葦原中国を天孫に譲ることのダメ押しをしたのがコトシロヌシで、そう言ったあと、自分は「(乗っている)その船を踏み傾けて、天逆手を青柴垣に打ち成して隠りました」のであった。つまり退去して行方知れずになったのである。
 船に乗っていたことでコトシロヌシは海人系ではないかと考えれるのだが、そう推理する決定打が出ないでいたところ、奈良県葛城地方に鎮座する「鴨族系神社群」の中の「鴨都味波八重事代主神社(下鴨社)=御所市」の祭神でもあることからその神名を分析した結果「鴨族の鴨王で、あらゆることの精通した神」という結論が得られたことで、そう考えて大過がないことが言えた(「葛城地方の鴨系神社と南九州」)。
 さらに『先代旧事本紀』の「地神本紀」のスサノオ系譜で、オオクニヌシの後裔に「アタ」「カモ」「スミ(隅)」などの南九州特有の名が多く見えることから、オオクニヌシの国譲りのあと、出雲にも流されたが、南九州には亡命者が多くやって来た。そして、その中にコトシロヌシやアジスキタカヒコネなどがいたのではないか――という視点を構築することができたのであった。
 フルネームを解釈すると「天(天をアマと読めば海)のことも地上のことも、ともに微に入り細にわたり、厳然とよく知り尽くしている神」となろうか。これから海峡を渡って攻め入ろうと軍を派遣するに当たって、なくてはならない存在だろう。

羽白熊鷲・・・ハジロクマワシ。三世紀の半ば過ぎ、それまで女王国を冊封体制に組み込んでいた魏王朝が倒れたあと、北上した狗奴国の首長のひとりで、今の大宰府を含む一帯を支配していた。九州島の最北端の遠賀川河口にいた「熊鰐(クマワニ)」とは同族である。

タブラツヒメ・・・福岡県最南部の山門郡を中心とする地域の女首長。やはり狗奴国の一首長であろう。邪馬台国九州説を唱える論者の中に、この山門郡を邪馬台国に比定し、そこにある「女山(ぞやま)」は卑弥呼に因むに違いないとする者がいるが、「女山」はタブラツヒメのような女酋に関係はあろうが、卑弥呼と断定することはできない。前出の熊鷲にしろ熊鰐にしろこのタブラツヒメにしろ、時代は卑弥呼より100年余り後のことである。

カゴサカ王・オシクマ王・・・カゴ(鹿に弭)坂王と忍熊王。仲哀天皇と大中姫との間の皇子。
仲哀天皇2年条では「カゴサカ皇子・オシクマ皇子」と紹介しながら、神功皇后摂政元年条に登場して以降はすべて「カゴサカ王・オシクマ王」と表記している。このことから考えられるのは両皇子はすでに大和で王位に就いていたと見られる。つまり大和ではカゴサカ・オシクマ両王による前代からの王朝の継承が行われ、九州および半島とを領域とする<神功皇后―武内宿禰>体制とは並立していたということである。
 換言すれば、カゴサカ・オシクマ王は祟神天皇から始まる朝鮮半島南部の辰韓王統を始祖とする大和王権の後継者であり、九州と弁韓(任那加羅)を合体させた王権を率いる<神功皇后―武内宿禰>体制とは真っ向から対立せざるを得ない状況にあったということになる。

武内宿禰・・・仲哀天皇やヤマトタケルノミコトとは疎遠な関係にあった武内宿禰は、九州に於いて八面六臂の活躍をする。また「武」は南九州を古事記で言う「武日別」からして「南九州」を表し、「内」は「ウツ」と読めばやはり南九州に非常に多い地名「宇都(ウト・ウツ)」を表し、「宿禰」は「少兄」ではなく「宿根(すくね=根を宿す)」と分析すれば、武内宿禰は「南九州のウツの土豪」という属性の人物と解釈してよい。
 生まれは「紀伊の阿備の柏原」とあるが、紀伊には「阿備の柏原」は存在せず、むしろ大隅半島の肝属川河口近くにあるにある「柏原」の方がそれに該当しよう。なぜなら「阿備(アビ)」とは海鳥の「アビ」を指していると考えられるからである(鳥のこの「アビ」にしろ「カモ」にしろ水かきを持つ故に、区別せずに「足広(あしひろ)」と呼ぶことがあったのだろう、後世になってカモを家禽化した際に名付けた名が「あしひろ→アヒロ→アヒル」である)。
 このアビ(カモ)が冬になると半島を経由してたくさん群れる所と言えばアシ・ヨシの生える潟湖で、南九州は潟湖が多く、したがってアビやカモの蝟集する地域だった。アビやカモのように南九州と半島とを往来するという属性になぞらえられたのが、やはり南九州と半島とを往復する航海民だった。そのような航海民を輩出する地域だから「鹿児(かこ=舵子)の島」と名付けられたのだが、武内宿禰はかかる航海民を背景に強大な権力を築いていた。
 そのことを示すのが「応神天皇9年条」の記事である。詳しくは応神紀の解説で行うが、簡略に言えば武内宿禰が腹違いの兄に「三韓を味方にして、王権を樹立しようとしている」と讒言されたというのである。これから類推すると、武内宿禰は半島南部を引き入れて九州島を併せた王権が作れるくらいの力を持っていたと考えて大過ない。(武内宿禰については次の「応神紀を読む」で詳説する)

武振熊・・・タケフルクマ。「和邇臣の祖」とある人物。神功皇后の対新羅軍船は対馬の和珥津から半島に向かったとあることから、この和邇の臣の祖先・武振熊は和珥津を本拠地とする南九州出身の航海民の中心人物としてよい。古事記では武振熊は「難波根子・建振熊」とし、難波が本拠地に変えてあるが、これは古事記特有の「半島がらみのことは書かない」という史観がそうさせたのだろう。
 
葛城襲津彦・・・日本書紀では系譜記事がなくいきなり登場するが、古事記の「孝元記」によると葛城襲津彦は「葛城長江曽都毘古」で、名の分析からは「大和葛城の長江地域を領有する曽(襲)の出身の首長」と解釈される。武内宿禰の子の一人である。「曽(襲=そ)」とは南九州のことであるから、本当に武内宿禰の子であれば、父親の宿禰の出身地も南九州でなくてはなるまい。
 武内宿禰には男子がほかに6人いる。その名を次に挙げておく。
      波多八代宿禰(波多の八代地域の土豪)
      許勢小柄宿禰(許勢の小柄地域の土豪)
      蘇賀石河宿禰(蘇賀の石河地域の土豪)
      平群都久宿禰(平群の都久地域の土豪)
      木角宿禰  (木=紀伊の角地域の土豪)
      若子宿禰  (わくごのすくね)
 最後の若子宿禰だけが領有する土地の名を持たないのは、幼年死したからと思われるが、とにかく男子の名は<大地名+小地名+宿禰(土豪)>という構成になっているのに気付く。この中で上述のソツヒコだけは特別な名を負っていることが分かる。「葛城長江宿禰」と「宿禰」になるべきところが、「曽都毘古」すなわち「曽の王者」という書き方がなされている。これに意味が無いはずはない。
 ソツビコは父・武内宿禰と同様に南九州出身の王族クラスの人物であったとしてよい。

角鹿・・・つぬが。現在の敦賀市のこと。笥飯大神は「気比大神」で気比神宮の祭神。「垂仁天皇紀2年条」に「任那からの渡来人・ソナカシチが帰る際に、途中で新羅人に天皇からの賜物「赤絹百匹」を奪われ、それが任那(弁韓・加羅)と新羅の不仲の始まりだという記事があるが、その後の分注に「大加羅国の王子であるツヌガアラシトが笥飯浦に漂着したが、アラシトは額に角があったのでそこを<角鹿>と名付けた」(要旨)と書かれている。
 「額に角があった」とは「冑の衝角」のことだろうが、いずれにしても角鹿(敦賀)は半島から列島にやって来る際の最良の寄港地であり、大加羅国すなわち弁韓(加羅・任那)とは縁の深い土地であったこということを示している。
 武内宿禰は、その角鹿に、まだ少年のホムタワケ皇子(応神天皇)を連れて行き、気比大神を参拝しているわけだが、角鹿が以上のように半島の任那加羅との接点を濃厚に持った土地であることを考慮すると、やはり神功皇后および武内宿禰の勢力の領域が半島の中でも任那・加羅(旧弁韓)まで広がっていたことの一つの証拠になろう。

ヒジホ・南カラ・トク・アラ・タラ・トクジュ・カラの七国・・・すべて旧三韓(馬韓・辰韓・弁韓)のうちの弁韓に属する諸国である。これらの国を平定したということは、辰韓の中心勢力となった斯盧国(後の新羅)による蚕食を食い止めて、旧弁韓(任那・加羅)の独立を保持したことを意味する。
 この旧弁韓諸国(任那・加羅)について、日本史学では「5世紀の仁徳天皇から始まるいわゆる倭の五王の時代に確立した大和朝廷が、勢力を九州にまで広げ、その勢いで半島まで進出し、任那を樹立(確保)した」という認識だが、それは違う。
 むしろ半島にいた倭人勢力が、三韓諸国の独立機運の中で馬韓は「百済」として、辰韓は「新羅」として統一されて行く過程で次第に圧迫され、かろうじて踏みとどまった姿が「任那」だった。つまり倭人勢力のベクトルの向きは反対だったのである。

七枝刀・・・石上神宮に所蔵されている全長75センチの六本の枝の付いた不思議な太刀。刻銘が施されてある。

 (表の刻字) 泰和四年五月十六日丙午正陽 百練鉄の七支刀を造らば、百兵を□避す。宜しく侯王に          供供すべし。 □□□□作。
 (裏の刻字) 先世以来、未だ此の刀は有らざれば、百済王の世子・奇生聖音、故に倭王の為に旨造し         、後世に伝え示さんとす。


 表の刻字にある「泰和四年」は西暦369年。東晋の年号であり、当時、百済は東晋と通交していた。
 裏の刻字にある「百済王の世子・奇生聖音」の「百済王」とは百済第12代の近肖古王のことであり、その太子は近仇首王である。太子を「神功皇后紀56年条」に「百済王子・貴須」と記している。
 したがって、この七枝刀は絶対年代を持つ同時代史料として特級品と言うことができる。百済が贈った理由は対高句麗戦への加勢を期待してのことと思われる。

                                  (神功皇后紀の項・終り)     目次へ戻る