神武紀を読む

はじめに

 戦後に歴史教育を受けた者は、ほとんどが古事記・日本書紀に触れることなく日本の歴史を学んできた。おそらく大学の文学部国史学科に入学し、かつ古代史を専攻した人間だけが本科としてではなく、参考文献のひとつとして読むくらいだったろう。

 かえって史学を学ぶ者よりも、読書好き、歴史好きの人間の方が詳しく読んでいるのではないだろうか。意外に畑違いの、例えば建築家だったり、画家だったり、医者だったする人々が興味津々、読みこなしていたりする。また、海外通だった人などが自国の歴史を学び返そうとして、記紀をひも解くようなケースもある。

 さらに、今、団塊と言われる世代が次々に退職して第二の人生を構築し始めているが、この世代も日本史に取り組もうとする人たちが多いはずだ(自分史・ルーツ探しを起点にして)。

 かく言う筆者もその世代の端くれで、常々、記紀の不当な扱われ方には不満を持って来た口である。すでに前論でも何度か触れたが、ひとことで言えば余りにも記紀をアンタッチャブル視し過ぎているという事に尽きる。いわゆる「食わず嫌い」だが、この食わず嫌いがたちが悪いのは、敗戦とそれに伴う「戦前蔑視」がトラウマとしてこびりついていることである。

 戦前の支配的イデオロギーつまり「皇国史観」の教典に祭り上げられ、「日本は正しい、絶対負けない、神風が吹く、その論拠が記紀の神話だ」ったため、負けてしまった以上、記紀の権威が地に墜ちてしまったのは致し方ない。だが、ちょっと読んでみても、たとえば「雄略紀」や「武烈紀」などに描かれる天皇の赤裸々な暴虐記事を読めば、これがいったい聖典に価するものかどうか即座にわかったはずなのである。

 その箇所が「墨で塗りつぶされていた」などという話は聞かないから、誰でも読もうと思えば読めたわけで、そんなオープンな書は、教典だったり、天皇の神聖性を保障するにはふさわしくないのだが、結局は当時の「記紀解釈」とくに神がかり的な聖戦遂行に都合の良い部分のみを取り上げて喧伝したがゆえに、戦争に負けたあと、その喧伝された部分のみを否定すれば良かったのに、記紀の全体が否定あるいは無視という扱いを受けることになった。


 全くもって「たらいの水だけを捨てるつもりが、赤ん坊まで捨ててしまう」のことわざ通りである。タイムリーな言葉で言えば(本当は逆輸入だが)「mottainai (モッタイナイ)」のひとことだ。

 そこで、非力を省みず、日本書紀を読んで行くことにした。直訳ではないことはお断りしておく。当然、あくまでも筆者の解釈する「神武紀」であり「祟神紀」等々であるから、新説もあれば珍説もあるはず。どうか読者の解釈と比べながら批判的に読んで頂きたい。

 因みに、筆者の第二次世界大戦、なかんずく太平洋(大東亜)戦争に対する評価は次のようだ。

 あれはけっして戦前の悪の軍国主義が勝手に他国を侵略し、また「自由と民主主義」の国々を破壊しようとした
とんでもない戦争ではなく、欧米諸国が18世紀以降、有色人種は自分たちよりも劣っているという人種差別観を根底に持った植民地主義への応戦だった。アメリカは自由と民主主義を標榜して来たものの、あの当時、黒人はたしかに奴隷状態からは解放されていたが、日常的な差別は当然視されており、黄色人種に対してもかなりの蔑視がなされていた(黄禍論)。

 このような状況に異議を唱え(パリ不戦条約)、実際に抗戦した(太平洋戦争)のは、有色人種では日本だけだった。日本が立ち上がらなかったら、白色人種の有色人種への差別はいまだに続いていただろうし、アジア・アフリカ諸国の独立もままならなかったはずだ。だからあの戦争は聖戦ではないが「義戦」であったとは言えよう


 だからどうした、記紀とは関係ないよ、と言われそうだが、戦前蔑視はもう大概にし、以上のような視点を持った上で記紀解釈に取り組みたいということに他ならない。「捨てられたモッタイナイ赤ん坊」をもう一度元のたらいに戻して新たなおべべでも着せてみようか、というのが筆者のねらいである。


 それともうひとつ確認しておきたいのは、前項 (記紀解釈の大前提)で論じたように、記紀の編集方針はあくまで「日本王統は日本列島において自生的に樹立され、しかも単立の一系だった」であるが、それは極めて疑わしいということである。

 それは編纂当時の状況、つまり新羅・唐との戦いに敗れ(白村江の海戦)、もしかしたら唐の侵攻もあり得るという危機感の中で、列島を早く統一政権(律令制の導入)の下に糾合しなければならないという、ちょうど幕末から明治初期にかけて西欧列強の侵略・植民地化に対抗するために、諸制度・文物を一新した時にかなり似た時代状況――の中ではそれもやむをえない事だったのかもしれない。

 要する日本国家として、大陸の強大な統一国家である唐の侮りを受けてはならぬ、足元を見られてはならぬという体面上の要請が記紀をして「日本王統は半島とも、もちろん大陸とも関わりのない列島自生の天授の王権で、しかもあなたたちのように天下が三ヶ国に分かれていたり、易姓革命とやらで王家がころころ変わるような国柄ではない、つまりは万世単立一系である」ことを強調した。そのことが、年代の上代への大幅な引き延ばしとともに、後世読む者をして極めて分かりづらい(とうより偽装だととらざるを得ない)歴史記述にしてしまった理由なのである。

 したがってそのことを十分に割り引いた視点で解読することが要請されるわけで、筆者はそれに加えて倭語の新たな解釈も含めて、記紀(分けても書紀を中心に)を読み取って行きたいと思っている。


  神武紀〉

    東征の着想

 天祖ニニギノミコトが日向という西方の国に天下ってから実に179万2470余年という永い年月が経ち、それから4代目に当たる神武天皇(いみな彦ホホデミ)は、塩土の翁という海路に詳しい者からの情報で、どうやら列島の中央らしき東方に、青い山々に囲まれた良い土地があることを知った。
 しかもそこにはすでにニギハヤヒという天磐船(あめのいわふね)で降り下った人物がいるという。ならば、自分たちも出掛けて、そこで天業を広めよう、と
神武(彦ホホデミ)は考え、諸皇子に問うたところ、みな賛成をした。

(注)179万2470余年・・・ニ二ギノミコトから4代目の神武天皇までの年月ということだが、いくら神代の話とはいえ、余りに桁違いな数字である。古事記では二代目のホホデミ命の統治年のみ580年と記すが、これを引き当てても何の意味もないほど長大な歳月で、今のところ考えようがない。ただ、現生人類の祖先がアフリカの大地溝帯で発見されているが、その年代は約400万年前という。また、年ではなく日の誤りとすると、179万2470日は約4979年であり、縄文時代中期に当たる。

  ニギハヤヒ・・・神代紀本文によると、ニニギとカムアタツヒメ(木花開耶姫)との間に、ホスソリ(隼人の祖)・彦ホホデミ(皇孫)・ホアカリ(尾張連の祖)がおり、最後のホアカリは先代旧事本紀では天ホアカリとし、フルネームとしては「アマテル・クニテル・アメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ尊」で、皇孫ニニギとは兄弟である。


    東征への船出

 太歳甲寅(きのえとら)の年の冬10月に、諸皇子および航海士を引き連れ、東に向かって出航した。
 日向の港を出てしばらく行くと、速吸之門でひとりの漁師に出会った。召し寄せて聞いてみると国神のウズヒコ(珍彦)という名で、天孫がやってくると知り、歓迎のため近くに寄ってきたと言う。
 先導ができるということで、海の道案内者として船に乗せた。そのとき椎の木で作られた棹(オール)を使って船に引き上げたので「椎根津彦」と名付けた。彼は倭直の祖である。
 その後、船団は宇佐に到着し、ウサツ彦・ウサツ姫による接待を受けた。その場所を一柱騰宮といった。ここで神武一行の中にいたアメノタネコはウサツ姫と一緒になった。
 その次は、筑紫国の崗水門に到着。11月9日であった。
 翌12月、九州を離れ、船団は安芸国の埃宮に入った。ここには3ヶ月あまりいた。
 翌年の3月、瀬戸内海の東部、吉備国に到着した。行宮を造り、高島宮とした。そこには三年逗留し、船と兵糧とを十分に準備した。


(注)太歳甲寅の年・・・太歳は十二支年のこと。甲は十干の最初、また寅は十二支に動物を当てたときトップの座にあるところから、甲寅は「最初の年」という意味だろう。これを実際の年に当てはめ、西暦114年、174年、234年、294年などと指定する論者もあるが、想像の域を出ない説と思うほかない。ただ、筆者は神武こと南九州投馬国王タギシミミが日向から船出したのは、2世紀だろうと考えている。

   諸皇子
・・・神武天皇は4男で、長男がイツセ、ニ男はイナヒ、三男はミケイリヌである。また日向で妻アイラツヒメとの間にタギシミミが生まれている(古事記ではもうひとりキスミミがいたとする)。イツセもイナヒもミケイリヌもタギシミミもすべて東征には参加している。


   速吸之門・・・はやすいの(みな)と。大分と愛媛の境の豊予海峡(ただし、古事記では吉備国を出てから難波に着くまでの間にある海峡とする)。

   倭直・・・やまとのあたい。直は7世紀の名称で、編纂当時のもの。神武紀では大和平定後、ウズヒコに倭国造に任命した、とある。

   一柱騰宮・・・あしひとつあがりのみや。意味不明とされ、本居宣長が「一方の柱は山側に、もう一方の柱は川の中に立てて宮をその上に造った宮」と解釈したとするが、それは違うだろう。一つの柱が騰っているという状況は、4本柱の建物ではあり得ず、5本以上の建物で、しかも建物の真ん中に屋根の中心がある「五角堂」「六角堂」「八角堂」のような物、つまり真ん中の中心柱が一本だけ高い建造物をいうに違いない。

   崗水門・・・おかのみなと。福岡県の遠賀川河口。筑紫国の玄界灘に注ぐ川では最大の川が遠賀川で、船材を流域で伐採して河口に集め、造船をするには最適の港である。

   埃宮・・・えのみや。「埃」は「あい」と読むが、「え」に転訛した。広島県安芸郡府中町に宮の伝承地がある。

   高島宮・・・たかしまのみや。岡山県倉敷市に高島宮伝承地がある。ここで3年余という歳月を過ごしたのは、造船と兵站の準備のためとあるが、3年はちょっと長過ぎる(古事記では8年)。理由は二つ考えられよう。一つは吉備国との抗争があったため、味方に引き入れるのにひまどった。もう一つは、一度といわず何回か難波を攻略しようとしたが、敗れて引き返した、だろうか。都合の悪い記事を載せないのは、古今を通じて編纂者の心理だろう。


    難波からの攻略に失敗、南へ迂回する
 
 
出航の年から数えて5年後、いよいよ難波津へ向かった。非常に潮の流れ速い所だったので「浪速(なみはや)国」としたが、今は転訛して難波(なにわ)となっている。
 難波津を通過して、船団はクサカ村の青雲白肩ノ津に着く。
 ここで船を降り、生駒山を越えようとしたところでナガスネヒコの仕向けた軍と戦った。苦戦を強いられたので神武は「われらは日の神の子孫だから、日に向かって進軍するのは天道に反する」と考え、撤収を始めた。船団は再びクサカに戻り、そこから南を目指した。
 茅渟(ちぬ)の山城水門で、長兄のイツセが敵の矢による傷が悪化して死亡した。
 さらに南下した熊野灘で、今度は次兄のイナヒと三兄のミケイリヌまでが海に消えてしまう。結局、身内では息子のタギシミミだけが残っただけになる。
 熊野灘に面する丹敷浦で女酋を誅殺したが、その際、邪気に当てられ全軍が萎えてしまう。だが、高倉下(たかくらじ)という者が夢で見た、国譲りの時に使用されたタケミカズチの霊剣「ふつのみたま」が下され、その邪気は祓われ、全軍は息を吹き返した。
 熊野の山中に入ると山深くて道に迷うが、やはり夢に出てきたヤタノカラスが現れ、山襞を越えてウダ県に出ることができた。

(注)クサカ村の青雲白肩ノ津・・・クサカは大阪府東大阪市の日下。白肩は枚方市。当時は淀川流域の枚方あたりを北限とし、南は日下あたりまでが潟湖(河内湖=ラグーン)だった。この状態は、少なくとも仁徳天皇時代まで続いたとされている。

   
ナガスネヒコ・・・長い脛をもつ男と直訳されるが、私見では長(ナガ)は「中」、スは「津(〜の、の意味のツ)」、ネは「根」、ヒコは「彦」で「ナカツネヒコ」、全体の意味は「中央土着の王」である。つまり皇孫が大和地方に入る前に盤居していた豪族のことで、「われこそは列島中央に王権を構える者なり」という意味の「中津根彦」を名乗っていたのだが、記紀編纂の時点で「長脛彦」という蔑称に置き換えられたのだろう。
 
   
茅渟・・大阪府の泉南地方。

   
イツセ・・・五瀬命。神武の長兄で、宮崎県の五ヶ瀬地方にその名が残っているとされる。日下の戦いの時敵の矢が当たり傷つくが、持ちこたえて和歌山市の寵山(かまやま)まで来た時に死ぬ。そこに寵山神社が建てられている。

   
イナヒ・・・稲飯命。神武の次兄で、熊野灘で海に入り鋤持神(さいもちのかみ)つまり鮫になったというが、『新撰姓氏録』によれば新良貴(しらき)氏は稲飯命の後裔とある。また朝鮮の正史といえる『三国史記』「新羅本紀」に、初代王・赫居世(パルクセ)の重臣だったという倭人・瓢公(ホコウ)はひょうたんを身に着けて海を渡ってやって来た、とあり、これと関係があるかもしれない。

   
ミケイリヌ・・・三毛入野命。神武の三兄で、イナヒと同様、海に消えるが、こちらは「浪の秀(ほ)をふんで、常世の国に渡った」とあり、行く先がはっきり記されている。といっても「常世国」の定義は明確ではない。垂仁紀にタジマモリが常世国という神仙境に行ってトキジクノカグノ木の実(常に光り輝く木の実)を、往復十年かけて持って来たとあるように、どうも現実の国ではなさそうだ。

   タギシミミ・・・手研耳命。日向時代に地元のアイラツヒメを娶って生んだ神武の長子(古事記ではもうひとりキスミミ=岐須耳がいたとする)。東征中の活躍の場面は全くなく、一回だけイツセたちがいなくなった後に出てくるだけ。しかも活躍(行動)の描写ではない。「ミミ」は魏志倭人伝によれば投馬国の王位者でなければならず、投馬国が南九州にある以上、東征とは、実は投馬国王タギシミミの東征に他なるまい。このタギシとは「景行記」のヤマトタケル記事によれば「タギシのように足が曲がってしまって歩けない」とあるように「船舵(ふなかじ)」のことであり、したがってタギシミミとは「投馬国の船舵王」つまり「航海王」となる。船団を率いるにふさわしい王だろう。
 また古事記では、タギシミミの弟にキスミミがいると書かれているが、キとは「岐」のことで「ふなど・みなと」、スはナガスネヒコの「ス」を「ツ(〜の)」の転訛と考えたのと同じく、やはり本来は「ツ(〜の)」であろうから、キスミミとは「岐のミミ」すなわち「南九州投馬国の港の王」であり、『和名抄』の諸国郡郷一覧の「大隅国・姶羅郡および大隅郡」にそれぞれある「岐郷」のどちらか、あるいは両方の支配者として本国に残った人物と考えられる。

   高倉下・・・タカクラジと読む。妙な人名だが、先代旧事本紀の「天孫本紀」(巻五)に載る物部氏の系図に寄れば、タカクラジはニギハヤヒの子で別名を「天香語山命」といい、後に出てくる同じニギハヤヒの子「ウマシマジ」が大和地方で生まれているのに対して、九州で生まれているようである。

   ヤタノカラス・・・頭八咫烏。人物だが烏と表現されている。『姓名録』の鴨県主の項(山城国神別)によれば、祖先の鴨武津身(かもたけつみ)命が大きな烏となって神武一行を導いたとあり、山城国風土記の記述と符合する(同風土記逸文・加茂社の項)。
 
   ウダ県(あがた)・・・ウは兔に草かんむり、ダは陀。宇陀郡大宇陀町。 


    
エウカシ・オトウカシなど、大和自生の諸族

 宇陀の地にはエウカシ(兄猾)とオトウカシ(弟猾)という豪族がいた。オトウカシは恭順してきたが、エウカシは逆らったので滅ぼす。その後、オトウカシは神武軍の手先となる。
 宇陀地方の南では、イヒカリ、イワオシワク、ニエモツ(の子)という「国つ神」に出会った。これらは反抗する種族ではなかったが、再び宇陀に帰り、高倉山から眺めると、大和南部全体にいろいろな部族がいた。
 磯城邑にはエシキ(兄磯城)を中心とする八十タケルが、葛城邑には赤銅(あかがね)八十タケルが、敵が来たら戦おうと待ち構えていた。


(注)エウカシ・・・オトウカシと並べると、ウカシが共通の部分だが、狡猾の「猾」(ずるい)はもちろん卑称だろう。倭語的に解釈すると「カシ」は「カシラ(頭)」から来たと考えられる。「頭領・頭目」の意味である。「ウ」は南九州では今も使っている「大」の意味のウではないか。そうするとエウカシとは「年長の大頭目」であり、オトウカシは「年少の大頭目」の意になる。アイヌ語では「エカシ」という名詞があり「50歳以上の年長者(おじいさん)」だそうだが、これも「エ」は「兄」で、「カシ」は「カシラ(頭)」の合成語かもしれない。

  イヒカリ・イワオシワク・ニエモツ・・・いずれも神武軍には敵対しない土着の部族。吉野地方には弥生系の水田農耕民はおらず、旧来の縄文直系的な部族がいた。この内、ニエモツは吉野川(紀ノ川)中流域の阿田地方の鵜飼いをしていたようで、まさに縄文の生業そのものを継いでいた。この阿田は薩摩半島の阿多とは直接の繋がりがありそうだ。そうなると、同じ南九州が本貫地ということで敵対する必要はないわけである。

  エシキ・・・兄磯城。磯城は現在の磯城郡に重なる地域であり、大和地方南部のほぼ中央と言ってよい。エシキは後に神武が即位する「磐余(いわれ)」の地に迎撃の軍を置いて待ち構えていた、とある。これに対してナガスネヒコは生駒山に近い大和地方北部を中心に勢力を張っていたのだろう。

  赤銅八十タケル・・・葛城地方の高尾張邑に勢力のあった部族。高尾張から、後に尾張地方に移ったのではないかと思われる。赤銅(あかがね)とは銅・青銅のことだから、尾張から三河にかけての華麗な三遠式銅鐸はこの子孫が移動後に製作したものではないか。尾張に移動したという根拠は、このあと神武軍はエシキを中心とする磯城八十タケルとナガスネヒコの二大勢力を滅ぼして完勝となるが、赤銅八十タケルは登場せず、わずかに高尾張に手足の長い小人のような土蜘蛛がいたので誅殺した、とあるだけだからである。


   
天神(あまつかみ)の教えで、八十ヒラカ等を作り、顕斎を挙行する

 
強大なエシキたちに打ち勝つようにと、夢で天神に教えられたのは、天香具山埴土を採ってたくさんのヒラカ(分+瓦)や甕を作り、丹生の川上で天神地祇の祭りをし、その際に水無しで「飴(たがね)が作れれば戦わずして勝てる。そして甕を川に沈めて魚たちが酔ったように浮いてくれば、必ず大和を平定できる――ということであった。
 実際にやってみると、全てがうまく行った。神武は大いに喜び、大伴氏の祖先であるミチノオミ命を祭主としてタカミムスビ尊による顕齋(うつしいわい)を自ら執行した。
 その上で、いよいよ磯城地方の八十タケルの中心人物・磯城彦を攻略することになった。ここでもエウカシ部族と同様、弟の磯城彦は恭順するが、兄磯城は頑強に抵抗する。しかし南東の忍坂からと、北東の墨坂の方からとで挟み撃ちにしてようやく兄磯城を滅ぼすことができた。

  
(注)天香具山・・・大和三山(天香具山、畝傍山、耳成山)のうち「天」が付くのは香具山だけである。それだけ聖地性が強いのだろう。その山の埴土(焼き物用の土=陶土)を採取して天神地祇を祭るための陶器を作ったということは、それを証明する。現在でも住吉大社の祭祀に使われているという。

  
埴土を採る
・・・この役目をしたのが、椎根津彦と地元宇陀の豪族オトウカシである。地元の豪族が採りに行くというのは分かるが、椎根津彦という水先案内人(航海者)が採りに行くという点は腑に落ちない。しかし、航海民が交易の民であり、大切な鉄資源や南海の貝やヒスイなどをもたらしてくれる貴重な存在であることからすれば、納得がいく。霊力的にも優れた存在という認識があったに違いない。   

  飴(たがね)・・・一般には飴は「あめ」であるが、どの解説書にも「たがね」と読ませている。その理由は書いていない。「た」は「手」であろうという。「あめ」としていけない理由もないはずだ。「あめ」と言えば思い出されるのが、乳が出ないためにウガヤ皇子を「飴(あめ)」で育てたというタマヨリ姫だ。飴はでんぷん質にアミラーゼのような酵素を加えて作る。この酵素の働きを雑菌を交えずに活性化させる条件を保つのはなかなか難しい。古代ではなおそうだったろう。一種の神がかり的な作業とみなしてもよい。 
 甕を川に沈めて魚を酔わせるというのは、神功皇后も行っているが、こっちは酵素の仲間の酒母がうまく作用したわけで、いずれにしても神がかり的な仕事であることに変わりはない。


  
タカミムスビ尊・・・高皇産霊尊。古事記では天地が始まって最初の神を天御中主神とし、その次にこのタカミムスビが生まれ、さらにカミムスビが生まれたとするが、書紀本文では生まれておらず、初めての登場は天孫降臨の段で、ニニギノ命の母・タクハタチヂヒメの父親、つまり皇孫ニニギの祖父としてである。またニニギの父・天忍穂耳(アメノオシホミミ)はアマテラス大神の子であるから、ニニギから見ればアマテラスは祖母ということになり、人格神的にはタカミムスビはアマテラスと同格の立場にある。 

  兄磯城の抵抗・・・エシキにしろエウカシにしろ、長子が最後まで抵抗するのは、長子に部族の祭祀権が委ねられているからである。後の時代でも「氏の長者」として、長子は一族の大きな要であった。長子が最後まで抵抗を止めないのは一族の祭祀だけは明け渡すまいとするからで、結局は滅ぼされる羽目になるが、攻略する方も祭祀権まで奪わなければ真の統一はできないと分かっていたはず。 



    長髄彦を滅ぼす

 同じ年の十二月、神武軍は大和最後の大豪族・ナガスネヒコを撃つことになった。しかしなかなか勝てない。そこへ「金の鳶(とび)」が出現して、ナガスネヒコ軍を萎えさせる。
 その時ナガスネヒコは使いを立てて、天孫だというクシタマニギハヤヒに自分の妹を嫁がせたが、いったいどちらが天神の子なのか、と言ってきた。
 そこで天孫の徴である「天羽羽矢」と「歩靫(かちゆぎ)」を見ると、ニギハヤヒが持ってきたのと同種の物だったので、ナガスネヒコは納得するが、結局は誅殺されてしまう。


(注)ナガスネヒコ・・・長い髄(すね)の彦と書かれているが、私見では「中津根彦(ナカツネヒコ)」で「中央土着(自生)の王」の意味に他ならない。磯城地方の大豪族・磯城彦は南部、ナガスネヒコは登美(鳥見)が冠せられているように北部の富雄川流域を中心とする豪族だった。富雄川上流の岩舟街道を北上すると交野市に入る。そこには岩舟神社があり、ニギハヤヒの降臨伝説がある。

  クシタマニギハヤヒ・・・物部氏の始祖。先代旧事本紀によれば、子に「天香語山命」と「宇摩志麻遅命」がいるが、前者は降臨前の子、後者がナガスネヒコの妹との子である。系譜的には前者は尾張連につながり、後者は物部連から石上氏につながっている。降臨する前はどこにいたのかが問題になるが、九州であることは間違いあるまい。

  天羽羽矢・歩靫・・・ニニギ命の降臨の時に持参した物と思われる。羽羽矢とは羽のたくさん付いた矢ということか。靫(ゆぎ)はその矢を入れて背負う入れ物。降臨の段では天羽羽矢は同じだが、歩靫のほうは「天磐靫(あめのいわゆぎ)」としてあり、表現が違う。


   さらに諸所の小豪族を平らげ、橿原の地を選び定める

 
翌年、すなわち日向から出航してから6年目、神武はさらにニイキトベ・コセハフリ・イハフリ・葛城の土蜘蛛などまつろわぬ小豪族たちを平らげたあと、畝傍山の東南の橿原に宮を造営することに決めた。
 7年目には、正妃を捜し求めた。すると、三嶋ミゾクイ耳の娘・タマクシヒメの産んだヒメタタライソスズヒメが最適だという者がいた。神武は喜び、正妃として迎えることにした。

(注)ニイキトベ・コセハフリ・イハフリ・・・ニイキトベはソフの県の豪族。ソフ(層富)は今の添上・添下郡(奈良市周辺)。コセハフリが居たのは和邇坂の下。今の天理市あたり。イ(猪)ハフリは長柄つまり今の御所市あたりの豪族かと思われる。

 
 橿原・・・かしはら。橿原市の一部。カシの木の多い土地柄(原)だからそう名付けられたと説が強いが、私見ではエウカシ・オトウカシの「カシ」すなわち「かしら(頭)」の意、もしくは「くしはら」で、クシとは「奇」と書け「霊妙な、非常に立派な」の意味である。いずれにしても「かしはら(くしはら)」とは、聖地のことといってよい。
 
  三嶋ミゾクイ耳・・・摂津三嶋地方の(水田干拓のための)用水路工事を行っている王者。ミゾは「溝」で用水路のこと。「クイ」は木へんに厥と書くが、これは「木のクイ」のことで、三嶋地方の湿地帯を水田化しようとして、用水路を掘ってまっすぐに通し、クイを打ち並べて用水路が泥土で埋まらないようにしていたのだろう。江戸時代に東大阪地方で新田開発をした鴻池善右衛門のような人物だと思われる。耳(ミミ)は南九州投馬国の王統を現すから、おそらく神武より早くに三嶋地方に移住していた鴨族と言ってよい。

  ヒメタタライソスズヒメ・・・媛蹈鞴五十鈴媛。父はタマクシヒメのもとに通ったコトシロヌシ神。私見ではコトシロヌシは2世紀後半に、九州北部におけるアマツヒ系の「大倭」と戦って敗れたのち、南九州鴨族の地へ亡命した出雲系人物だが、鴨族の王者にもなっている。したがってイソスズヒメは祖父が南九州出身、父も南九州に関わりがあることになり、南九州日向から東征した神武にとって心強い伴侶であった。
 筆者は「五十」を、十を発音せずに「イ」とだけしか読まない通説は採らないで漢字どおりに「イソ」と読む。「五十」は祟神天皇と垂仁天皇の和名に使われているが、古事記では両天皇の「五十」に当たる部分をそれぞれ「印」「伊」としてあるので、結局、古事記に合わせた形で「イ」としか読まないのだろう。もし「五十」が本来「イ」であるのならなぜいつまでも「五十」を使い続けるのだろうか(他にも五十ニシキイリヒコなどがいる)。
 筆者はむしろ古事記の「印」「伊」こそ、本来「イソ」すなわち「五十」だったのを「イ」に省略してしまったと見る。
 「五十」とは筑前の糸島地方のことであり、そことの関わりがあるからこそ名に「五十」が付けられているのだろう。


   橿原宮で即位する

 翌年、すなわち日向を出てから8年目。いよいよ大和において王権を樹立する。宮は橿原宮で、皇后はヒメタタライソスズヒメ、その太歳は辛酉の年であった。
 天皇の和名は「ハツクニシラススメラミコト」、号を「神日本磐余彦火火出見天皇」という。
 次の年、道臣命と大久米命に所領を与え、さらに珍彦(うずひこ=椎根津彦)を倭国造に、オトウカシを猛田県主に、オトシキを磯城県主に、剣根(つるぎね)を葛城国造に任命した。また熊野越えで功労のあった頭八咫烏(ヤタノカラス)にも褒美を与えた。ヤタノカラスは葛野の主殿県主部の祖である。
 即位4年、鳥見山において皇祖天神を祭る。
 即位31年、国見をする。大和を「秋津嶋」と号する。
 即位42年、皇子カムヌナカワミミを皇太子とする。
 即位76年、橿原宮で崩御。127歳。御陵は畝傍山東北陵。


(注)辛酉の年・・・甲寅の年が「諸事始まりの年」であるのに対して、辛酉は一般説のように「辛酉革命、すなわち天命が改まり大きな動きが生まれる年の意を汲んで、初代天皇が即位するにふさわしい年として採用した」と考えるのが無難だ。だから、実際の甲寅年の114年に対して121年、174年に対して181年などと当てるのは金石文のような証拠が出ない以上は無理だろう。私見ではこの南九州からの東征は、少なくとも九州北部にヒミコ王権(邪馬台国)が成立する以前であるから2世紀代は間違いないものの、即位年は特定できないと考えている。

  ハツクニシラススメラミコト・・・始馭天下之天皇(古事記では漢名はない)。天下を治め始めた天皇の意で、初代としては一般的にあり得る名称。ただ、十代の祟神天皇が「御肇国天皇」(古事記では所知初国之御真木天皇)で、やはり「ハツクニシラススメラミコト」と訓じる。古事記で、祟神天皇にはある漢名が神武天皇にはないことから、祟神天皇からが史実で、神武天皇(を含む9代まで)は祟神天皇の大和平定の事績を古く持っていって造作であるに過ぎない、とする説が根強い。
 しかし古事記にも神武天皇を「神倭伊波礼比古(かむやまといわれひこ)」なる和名はあり、これによれば「大和地方を都として祭り定めた王者」つまり、祟神天皇が四道将軍を派遣して統治領域をいわば全国に広めようとしたのに対し、大和一国という狭い領域において王者たろうとしたとは言えるわけで、結局、統治領域の大小の差であるにしか過ぎず、そのことは南九州からの神武東征を否定する材料にはなるまい。まして、神武王統と祟神王統とは違うと考えれば、神武天皇は全くの造作だと考える必要はない。
 また筆者のように神武は南九州からの東征(古事記の描く途中16年余りかかっている東征)、祟神は北九州からの東征(書紀の描く途中3年余りで済んでいる東征)と、東征は2回あったと考えれば、「ハツクニシラス天皇」が二人いて何の問題もない。

 道臣命と大久米命・・・大伴氏の祖である道臣命は旧名・日臣命で、ヤタカラスの先導に付いて行くとき、大久米(大来目)を率いた、とあり、いつから神武軍の先鋒となったかの記載はない。ただ、古事記によれば天孫ニ二ギの降臨の際に大伴連の祖「天忍日命」と久米直の祖「天津久米命」が、磐靫・太刀・波士弓・真鹿児矢という完全武装で先導した――とあるから、南九州か、少なくとも九州島には土着していて、東征への出航の時からずっと従っていたとするのが妥当だろう。

  珍彦・・・うずひこ。速吸之門(書紀では豊予海峡あたりだが、古事記では吉備と難波の間)で出会った水師。神武水軍の案内人となり「椎根津彦」という名を貰った。単なる漁撈民ではなく航海業者であろうと思われる珍彦だが、それにしても倭国造に任命されるとは破格の昇進である。もちろん東征の目的が首尾よく達成されたからだが、それに加えて、列島の政権の帰趨に際し、航海民がいかに大きな働きをしたかという証明でもあるだろう。

  葛野の主殿県主部・・・葛野(かずぬ)は京都市の西部。後世、秦氏が「葛野の大堰」を築いて大規模に水田を拓いている。祖先のヤタカラスは「襲の峰に降ったカモタケツヌミ」(山城国風土記逸文・加茂社の項)のこと。カモタケツヌミ(と率いる南九州鴨族)は葛城地方に入ったのち、南山城の木津川流域から京都北部の久我国(現在の北区周辺)に至り、そこを本拠に居着いた部族である。カモタケツヌミの娘の産んだワケイカヅチは上加茂神社を本宮として祭られているが、葛野の松尾大社にも祭られている。その訳は、カモタケツヌミに象徴される南九州航海(鴨)族が、秦氏族が半島から到来する際に、その船運と道案内を担当した所縁によるもの、と筆者は考えている。血縁関係にもなったということだろう。
 主殿(とのもり)とは宮中御殿の諸事を管理する役目。県主部(あがたぬしら)は、葛野に所領を与えられていたことを意味する。

 カムヌナカワミミ・・・神渟名川耳。神武が大和入りしたのちに正妃としたヒメタタライソスズヒメとの間の第二子。
長子はカムヤイミミ(神八井耳)。古事記ではまだ上にヒコヤイ(彦八井)がいる。大和生まれの皇子たちにもやはり「ミミ(耳)」を付けているのは、神武が南九州投馬国出身であり、神武東征とは実は投馬国による東征であったことの傍証となる。

  (父母・王妃・皇子・皇女・宮・御陵) 注:青色は書紀、茶色字は古事記による

神武天皇 父母 王妃 皇子・皇女 御陵

カムヤマトイワレヒコ
         ホホデミ
ハツクニシラス
     スメラミコト
ワカミケヌ(トヨミケヌ)
カムヤマトイワレヒコ
ヒコナギサタケ
 ウガヤフキアエズ

母:タマヨリヒメ
アマツヒタカキヒコ
 ヒコナギサタケ
  ウガヤフキアエズ

母:タマヨリヒメ
アイラツヒメ(日向)
ヒメタタライソスズヒメ
アイラヒメ(日向)
ヒメタタライスケヨリヒメ
タギシミミ(日向)
カムヤイミミ
カムヌナカワミミ

タギシミミ(日向)
キスミミ
(日向)
ヒコヤイ
カムヤイミミ
カムヌナカワミミ
橿原宮
白橿原宮
畝傍山
東北陵

畝火山
北方の
白樫尾


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