舒明紀を読む

※日本書紀第23巻が舒明(じょめい)天皇紀にあてられている。


父母      父・・・彦人大兄皇子(ヒコヒトオオエ=敏達天皇の子)
         母・・・糠手姫皇女(ヌカテヒメ)

和風諡号   息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)

 宮       岡本宮(飛鳥)

皇后      寶皇女(タカラ皇女=茅渟王の娘)

皇子・皇女(一覧)

皇后・妃名 出自 皇子・皇女名
タカラ皇女 茅渟王の娘  葛城皇子・ハシヒト皇女・大海人皇子
ホテノ郎女 蘇我馬子の娘  古人皇子
カヤノ采女 吉備国出身  蚊屋皇子


    < 年代順の事績 >

事     績 備  考
即位前紀  推古天皇の29年、皇太子だった豊聡耳皇子が亡くなったあと、皇太子を置くことなく36年に推古天皇も崩御された。
 時の大臣・蘇我蝦夷は群臣を集めて次期天皇を協議するが、田村皇子派と山背大兄王派に分かれて争い、境部摩理勢臣は強硬に山背大兄王を推して蝦夷の怒りを買い、ついに滅ぼされる。
豊聡耳皇子は聖徳太子のこと。
元年
(629年)
・正月、大臣及び群臣が天皇の御璽を田村皇子に献上して即位。
・4月、田部連を掖玖(ヤク)に派遣する。
掖玖は屋久島。
2年
(630年)
・正月、寶皇女を立てて皇后とする。
・3月、高句麗・百済から使者が来る。
・8月、犬上三田鋤(みたすき)及び薬師恵日を唐に派遣する。
・9月、前年にヤクに派遣した田部連が帰任する。
・10月、飛鳥の岡のふもとに宮を造る(岡本宮)。
・高句麗と百済からは新天皇即位の儀礼として使者が来ているが、関係が悪化していた新羅からは来ない。
3年
(631年)
・2月、ヤク人が帰化する。
・3月、百済国王・義慈が王子の豊章を人質として送ってくる。
4年
(632年)
・8月、唐の使者・高表仁が犬上三田鋤を伴い、対馬を経て難波津に到る。大伴連馬養(うまかい)に迎えに行かせ、難波吉士・大河内直・壱岐史(ふびと)らを導者として難波館に案内する。
5年
(633年)
・正月、唐の使者・高表仁が帰る。吉士雄麻呂らが対馬まで送る。
6年
(634年)
・8月、長星が南方に見える。みな「彗(ほうき)星」と呼ぶ。
7年
(635年)
・正月、彗星が東に見える。
・6月、百済が達率・柔等を遣わして朝貢する。
8年
(636年)
・正月、日食があった。
・3月、采女を犯す者を懲罰する。三輪君小鷦鷯(おさざき)、嫌疑をかけられたのを苦にして自死する。
※この年は5月に長雨、その後日照りがあり、天下大いに飢える・・・とある。
9年
(637年)
・2月、東から西へ向かう流星があった。雷のような音がした。
※この年、蝦夷がそむいたので上毛野君形名を将軍として討たせた。しかし蝦夷軍に包囲されなすすべを知らなかった。この時、形名の妻が「上毛野の先祖は海を渡って戦功を上げたのに、このざまでは後世の笑いものになる。」と、夫の剣と弓を取って身に着け大いに弓弦を鳴らし、志気を奮い立たせたところ、蝦夷を退けることができた。
上毛野君の祖は竹葉瀬。仁徳天皇時代、弟の田道とともに新羅を討っている(仁徳紀53年)。
10年
(638年)
※この年、百済・新羅・任那がみな朝貢して来た。
11年
(639年)
・7月、詔を出す。「今年、大宮及び大寺を造ろう」と。百済川のほとりを宮どころと定め、造営する。大匠(おおたくみ)は書直縣
・12月、百済川のほとりに九重の塔を建てる。
書直縣…ふみのあたい・あがた。縣が人名。
12年
(640年)
・5月、唐より来朝の恵隠僧を導師として「無量寿経」を読誦する。
・10月、唐の学問僧・請安、学生・高向漢人玄理、新羅を経由して来朝する。 *この月、百済宮に入居する。
13年
(641年)
・10月9日、百済宮において崩御。18日の殯りに16歳の東宮(皇太子)開別皇子が誄(しのびごと)をする。

(注)
・田村皇子・・・不思議なことに日本書紀ではこの田村皇子の出自や経歴は一切書かれてなく、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)記の中で、息長真手王の娘との子の間に生まれた忍坂日子人太子が腹違いの妹・田村王(別名・糠手比売)を娶って生まれたのが「坐岡本宮治天下之天皇」こと舒明天皇であると書かれているだけである。
 母のヌカテヒメの幼名が田村王であるから息子(皇子)に田村皇子と名付けたと考えるのが順当だろうが、ヌカテヒメその人が推古天皇の跡を継いで天皇になった(つまり女帝)可能性も捨てきれない。

・山背大兄王・・・聖徳太子の子。聖徳太子は用明天皇の第2子であるから、山背大兄王にも十分皇位継承権がある。田村皇子の来歴が不詳なのとシンクロさせるかのように、この山背大兄王の描写も舒明紀においては意図的にぼかされているようだ。
 ただし、次の皇極天皇紀2年10月〜11月条で山背大兄王一族の滅亡が描かれるが、こちらはかなり具体的である。

・犬上三田鋤・・・犬上御田鍬とも書く。16年前の推古天皇23年には、遣隋使として隋に遣わされている。

・百済・義慈王・・・『三国史記』の「百済本記」によれば義慈王は第31代。百済最後のの国王で、在位は西暦641年から百済が唐・新羅連合軍に敗れ、唐軍の捕虜となる660年までである。
 したがって義慈王が国王としてその王子・豊章を倭国大和に送ったのが、舒明天皇の3年(西暦631年)ということは時系列的には有り得ない。
 前代の武王の時代(600年〜640年)のことではなかったか、と思われる。

・開別皇子・・・正式には「天命開別(あめみことひらかすわけ)皇子」。のちの天智天皇のこと。母は寶皇女。幼名・葛城皇子。妹は間人(はしひと)皇女。弟に大海人(おおあま)皇子、のちの天武天皇がいる。誄(しのびごと)をしたのが16歳の時であるというから、生まれは西暦626年ということになる。


      <舒明紀・終わり>                           目次へ戻る