葛城地方の出雲系鴨神と南九州

「もうひとつの東遷(東征)説話E」の頭初で触れたように、大和の葛城地方には鴨神がたくさん祭られているが、延喜式神名帳に載る「名神大社」クラスの4つの鴨神のうち3つまでが出雲系神々との合体なのであった。いったいこれはどういう訳だろうか。
 私見では「南九州から東征して王朝を開いた神武天皇の後継者3代に渡って、母方は出雲系のコトシロヌシの系譜につながっているので、組み合わせて祭るようになったのではないか」という憶測を出すに留めた。

 その一方で「葛城王朝論」で名高い鳥越憲三郎・元大阪教育大学教授の著書によると、葛城王朝を樹てたのは狗奴国であり、神武とその後継のいわゆる欠史八代は狗奴国の王統で、十代目の祟神天皇の率いる大和王朝に取って代わられたという(『弥生の王国』p、205〜208)。
 また邪馬台国は葛城王朝より以前にあった物部王朝に他ならず、物部氏は九州北部から東征して大和に入ったという(『同書p、208〜210)。さらに投馬国についても触れ、投馬国は吉備地方とし、「ツマ」は日本書紀の「応神紀」に登場する御友別(ミトモワケ)の「トモ」からの転訛であろうとする(『同書』p、111)。
 
 氏の説で受け入れられるのは、一応、記紀の記述をおおむね下敷きにしていることで、「物部氏東遷」は「神武東征」に、「狗奴国王統」を「欠史八代」にそれぞれ引き当てている。この姿勢は記紀の記述を全くの造作などとする研究者よりはるかに誠実であると思う。
 
 と言っても、私見とは大きな開きがある。だが、魏志倭人伝全体を解釈して初めて成立する邪馬台国論において、多くの論者が邪馬台国、奴国、不彌国、伊都国、狗奴国には言及しても、投馬国については無視するか、ほとんど通り一遍、語呂合わせ的にふれただけで済ましてしまう風潮の中で、氏が吉備国独自の優位性を論じながら「5万戸の大国・投馬国」を吉備に比定したのには、論理の一貫性を感じる。

 しかしながら、邪馬台国はもとより狗奴国も投馬国もいずれも九州島の中の国々であった。これは魏志倭人伝の解釈上どうしても譲れない点である行程に関してはこちら)。
 
 さて、鳥越説では葛城王朝があり、それは狗奴国のことであったが、私見では狗奴国説は否定するほかない。では何らかの王朝があったのか――というと、大和全体を統治するほどではないにせよ、王朝に準ずるものがあったことを否定する理由は無い。

 私見では葛城地方には南九州からカモタケツヌミ(ミミ)が東遷し、そこに何がしかの勢力を扶植している。それを王朝と呼ぶにはやや躊躇がある。しかもこの勢力はのちに山代の木津川流域に遷り(相楽郡・岡田鴨神社)、さらに山背北部の久我地方にまで至って、定着している。そこに鎮座するのがカモタケツヌミを祭る賀茂御祖神社(下鴨神社)で、時系列から言って葛城の鴨神のほうが古く、したがって「全国の賀茂神社の本宮」と自称しているのは理にかなっている。

 問題はカモタケツヌミ由来の葛城の鴨神社がなぜ出雲系の神社名を名乗っているのか、という事であった。一見して奇妙な神社名群だが、その意味するものを正確に探ってみて、一定の知見を得たので発表してみたい。


    『延喜式神名帳』による神社名と祭神

 
まずは『延喜式神名帳』による正式な神社名を記しておこう。
  
   
@ 鴨都味波八重事代主神社(かもつみはやえことしろぬし神社)
       祭神  八重事代主命

   A 高鴨阿治須岐託彦根命神社(たかかもあじすきたかひこね神社)
       祭神  阿治須岐託彦根命

   B 葛木御歳神社(かつらぎみとし神社)
       祭神  御歳神

   C 鴨山口神社(かもやまぐち神社)
       祭神  大山祇神


 @とAの神社は「名神大 月次・相嘗・新嘗」と書き加えられ、それぞれの祭礼時には官幣にあずかる大社であることが示されている。また、BとCは「名神大 月次・新嘗」で、先の二社に比べると「相嘗(毎年秋に行われる新穀祭)」にはあずからないが、そのほかは同じであり、やはり大社ではあることが分かる。

 ところが実際の神社サイドの由緒(ホームページによる)では、@とAは神社名に相違がある。
 @は「鴨都波神社」としてあり、読みは「かもつば神社」であり、Aは「高鴨神社」である。それでもAの神社は祭神が「あじすきたかひこね命」なので、結局は神名を省いたよくある省略形ということになろう。
 
 だが@の方の大きな違いをどう解釈したらよいだろうか。@ も省略形には違いないのだが、もしそうなら省略にしては妙な省き方をしたものである。普通なら最後の「波」の方を落として「鴨都味神社」とし読みを「かもつみ神社」とするのではないだろうか。また逆に,もとの名称が「鴨都波(かもつば)神社」だったのが、のちに「鴨都味波神社」と変わっていったのだろうか。しかしそれは考え難いだろう。何故なら転訛では省略や発音の変化はあっても、付加することはまず無いからだ。

 そう考えると、やはりここでは『神名帳』の記載の方を正式名とすべきだろう。

 そこで、まず@の「鴨都味波八重事代主神社」を吟味してみよう。
 この神社を現地では「カモツバ神社」と、「味」を削除して呼び習わしている。しかも祭神(積羽八重事代主命)を言う時は「積羽(ツミハ)」と今度は「み」を入れて読み、肝心の「鴨」を落としてしまう。何とも不思議なことで、そこには一貫性が見られない。
 「ツミハ」と読むとこれは「ミツハ」の転訛で、ミツハとは「ミツハノメ(弥都波能女=水の神)」の省略形であるから、水稲耕作適地であるこの地方にはうってつけの神名である――神社側ではおおむねこのような解釈をしている。「鴨」はどうしたのですか、と言いたくなるが、鴨を入れると「ミツハ」にならないので、無理矢理避けてしまったのだろう。
 果たしてそのように字句を変えたり、省略してよいものだろうか。


 では、「鴨都味波八重事代主」という神名をどう解釈するのか、考えてみよう。

 まず「鴨」は神社側の由緒にもあるように、鴨族の鴨のことである。これに異論はない。
 問題は次からだ。
 「都」を筆者は「〜の」の意味の「ツ」と捉える。すると「鴨都」は「カモツ」すなわち「鴨の」となる。「鴨族の」と言い替えてもよい。
 さて、次の「味」だが、通説ではこれを音で「ミ」と読んでいる。しかし、「鴨」の方は訓で「かも」と読んで「オウ」とは言わず、「都」を訓で「つ」と読んで「ト」とは言っていない。ところが「味」は訓の「あじ」とは読まず音で「ミ」と読んでいる。つまりひとつの熟語を読むのに訓で読んだり、音で読んだり一定していない。この後の「波」についてもそうだ。「ハ」または「バ」と音で読んで何ら怪しまない。
 そこで「かも」「つ」と訓で読むのを踏襲して次の「味」も訓で読んでみる。すると「あじ」になる。

 「あじ(味)」とは何だろうか。
 その答えは万葉集にある。次の諸歌に「あじ(ぢ)」が登場する。

  1 巻四 (歌番 485)
     神代より 生れ継ぎ来れば 人多(さわ)に 国には満ちて あぢ群れの
     去来は行けど わが恋ふる 昼にしあらねば

  2 巻四 (歌番 486)・・・1の本歌への返し
     山の端に あぢ群れ騒ぎ 行くなれど 音はさぶしえ 君にしあらねば 

  3 巻十一 (歌番 2555)
     朝の戸を 早くな開けそ あぢさはふ 目が欲(ほ)る君し 今宵来ませる

  4 巻十一 (歌番 2751)
     あぢの住む 渚の入り江の 荒磯(ありそ)松 吾(あ)を待つ児らは ただ一人のみ

 1と2の歌は岡本天皇の御製である。岡本宮に住んだ天皇は、欽明天皇と斉明天皇の二天皇だが、どちらの作なのかは判明していない。注目すべきは「あぢ群れ」で、原万葉仮名では「味村之」と書き、この「味」は「あぢ鴨」という鴨の一種を指している。「あぢ群れ」とはもちろん「あぢ鴨の群れ」を意味する。

 最後の「波」も音ではなく訓で読むべきで、そうすると「なみ」の他には読めない。
 波(なみ)と言っても、もちろん海の波ではない。筆者はこの「なみ」を「みみ」の転訛であると考える。『山城国風土記逸文』に登場する「曽の国から葛城へ東遷したというカモタケツヌミ」の「ヌミ」は「ミミ」の転訛だとしたあの「ミミ」である。

 そう捉えると「鴨都味波」は「カモツアジナミ(ミミ)」と読むべきで、意味は「鴨族の中の鴨王」と解釈される。鴨とは航海民のことだから、「航海族の中の航海王」と言い替えられよう。これに「八重事代主命」を加えて解釈すると

   
航海族の中の航海王であり、あらゆることに精通した王者

 という人物(神格)が浮かび上がってくる。

 次に、「高鴨阿治須岐託彦根命」を解釈してみよう。
 一般にこれを「タカカモアジスキタカヒコネ命」と読むが、それには全く異論は無い。
 まず「高鴨」とは「鴨」の尊称で、「大いなる鴨」と同義である。
 次の「アジスキ」だが、「アジ」については既に解明したように「鴨」であるから、問題は「スキ」の方だ。

 「スキ」というと、地名では「宿」を当ててよく使われ、通説では古代朝鮮語の「村」の意味だとされる。ところが「村」の意味での「スキ」は古代朝鮮のことを書いた『三国史記』の「地理誌」などを調べても出てこない。いったい何を典拠としているのか教えて欲しいくらいである。それより日本書紀などで半島の地名として「意流須岐(オルスキ)」「白村江(ハクスキノエ)」などと「スキ=村」らしき使われ方をしているのを見るが、そのあたりが根拠になっているのだろうか。

 
 また、鹿児島には「宿」地名が多い。宇宿は鹿児島市内と奄美大島の笠利町にあり、指宿は温泉観光都市として著名である。この「イブスキ」について、民俗研究家の小川亥三郎氏は「湯生村」が語源だろうとしている(同氏著『南日本の地名』)。これを「ユブスキ」と読み「湯が生まれる村」の意味だと解釈するのである。
 「イブ」が「ユブ」であり、「湯が生まれる」というのは理解できる。だが「スキ」に関しては、氏も古代朝鮮語から来ていると言うのだが、典拠が示されておらず、肝心の古代朝鮮語がはっきりしない以上、その採用には首を傾げざるを得ない。

 私見ではこの「スキ」は「ツキ」の転訛、すなわち倭語である。「ツ」は「〜の」であり、「キ」は「岐」すなわち「ふなど(船戸・船止=港)」のことである。それは『和名抄』の郡郷一覧の「大隅国」の部で二つの「岐刀(キト)郷」があり、それらが港を表していたことで理解される。
 最後の「託彦根」は「高彦根」であり、「偉大な男王」の意味であろう。

 以上から「タカカモアジスキタカヒコネ命」とは

   
大いなる鴨族の鴨の港の偉大な男王

 と理解することが出来る。「大いなる」や「偉大な」という同義語が二度も使われ、くどいようだが、美称とは得てしてそういうものであろう。


     
鴨族と出雲族

 前項の考察でどちらの神社の祭神も、航海民である鴨族の祭るにふさわしい神格であると認識できたと思う。
 しかしそうなると直ちに疑問が起こるはずだ。航海民である鴨族と、天孫に国譲りをした土着性の強いオオクニヌシを首長とする出雲族との関係やいかに、という疑問である。
 この項では、その点について考察をしてみたい。

 はじめにでも述べたように、大和王朝初代の神武は、東征後に三島のミゾクイミミの孫娘に当たり、事代主命の子でもあるヒメタタライソスズヒメを新しく后妃とした。また二代目はイソスズヒメの妹を后妃に、四代目は事代主命の孫の鴨王の娘を后妃に立てた・・・というように王権の初期に出雲系の后妃が次々に立っている。ここから南九州投馬国系鴨族と出雲族との間に極めて強い結びつきが生まれ、それが神武以前に葛城地方にやって来ていたカモタケツヌミの事績に基づく鴨系神社群に反映したのだろう――。
 最初はおぼろげながらそのように考えたのであった。
 たしかに大筋としては誤ってはいないが、どうも腑に落ちないのである。
 だが、今度『先代旧事本紀』を通読してみて、新たな知見を得ることが出来たように思う。

 『先代旧事本紀』巻四「地神本紀」によると、南九州鴨族(私見の投馬国航海民)と出雲族との系譜的な繋がりが判明する。
 「地神本紀」は古事記の「出雲神話」に該当する。その「出雲神話」に当たる部分は前文になっており、その後にスサノオの系譜が示されている。
 前文の内容は要旨として次の通りである。
 

  スサノオは狼藉を働いたあと、高天原を追放されて出雲国に降下し、そこでアシナヅチ・テナヅチ夫婦の娘クシイナダヒメがヤマタノオロチに喰われそうなのを救い、夫婦になる。やがてオオナムチが生まれると、話はオオナムチの国造りのテーマに移る。
  オオナムチは兄弟の八十神たちに試されて瀕死の目に遭うが、何とか生き延び、最終的には父であるスサノオの持つ「生弓矢・生太刀」を獲得して地上の王となる。

 
話の内容に記紀と異なる点があるわけではない。
 だが、スサノオの系譜を見ると明らかに違う。古事記とも違うし、書紀とも違う。全くのオリジナルといったところだ。その系譜を世代分けして表示すると表@のようになる。また古事記と書紀によるスサノオ系譜はまとめて表Aにあらわした。

 表@ 『先代旧事本紀』の「地神本紀」によるスサノオ系譜の世代表

世代 神 名 母の名
  1    スサノオ
  2    オオナムチ
    (他に8子)
  クシイナダヒメ
  3    アジスキタカヒコネ
   ツミハヤエコトシロヌシ
  オキツシマヒメ
  タキツヒメ
  4    アメヒカタクシヒカタ
    (別名 アタツクシネ)
  イクタマヨリヒメ
  5    タケイイカツ   カムドミラヒメ
  6    タケミカシリ   サマナヒメ
  7    トヨミケヌシ   カグロヒメ
  8    オオミケヌシ   ナクサヒメ
  9    アタカタス   タミイソヒメ
 10    オオタタネコ   ミラヒメ
 11    オオミケモチ   ミキヒメ
 12    オオカモツミ   クラヤマツミヒメ

 表A 古事記・日本書紀によるスサノオ系譜の世代表

世代 古事記 世代 日本書紀
  1    スサノオ   1   スサノオ
  2    ヤシマシヌミ
   オオトシ
   ウカノミタマ
  2  オオナムチ(本文、一書のE)
  ヒコヤシマシヌミ(一書の@)
  イソタケル(一書のC、D) 
  3    フハノモジクヌスヌ   3   (記載なし)
  4   フカフチノミズヤレハナ   4   (記載なし)
  5    オミズヌ   5   オオクニヌシ(一書の@)
  6    アメノフユキヌ   6   オオクニヌシ(一書のA)
  7    オオクニヌシ
    (別名が四つ)
  7   (記載なし)
  8    アジシキタカヒコネ
   コトシロヌシ
   トリナルミ
   タケミナカタ
   シタテルヒメ
  8   シタテルヒメ

 表@と表Aとを見比べると、@の方がずっと整っている。
 不可解なのは日本書紀で、8代のうち本文で記載のあるのはスサノオ、オオナムチ、シタテルヒメだけなのである。一応世代らしくは書かれているのだが、省略と「一書」の多用のため、読んだだけでは訳が判らなくなる。
 その点では古事記はちゃんと世代を記載しており、系譜的繋がりは分かるようになっている。と言っても3代から6代の神名は実在したらしくは思われない奇妙な名ばかりである。本来は書紀のように2代目がオオナムチ(オオクニヌシ)であるはずなのに、無理矢理奇妙な名の神々を造作して、世代を間延びさせたようである。そうする理由があったのだろうとは思うが、今ちょっと思いつかない。

 いずれにしても真実から遠く離れたような記紀のスサノオ系譜に対して、先代旧事本紀のそれはかなりリアルに作られていそうである。ただひとつ「アメヒカタクシヒカタ」を除いては、どれも有り得るなまえばかりでは無いだろうか。アメヒカタクシヒカタにしても、別名の「アタツクシネ」を見れば、実在しておかしくない名である。
 したがって先代旧事本紀のスサノオ系譜は信用してよいと思われる。
 その世代表を眺めてすぐ気付くのが「アタ」「タケ」「カモ」という単語の多いことだろう。
 「アタ」は「阿多(地方)」、「タケ」は「武(建)」で南九州地域、そして「カモ」は何度も考証した「南九州航海民」であれば、スサノオの孫に当たるアジスキタカヒコネ・ヤエコトシロヌシは南九州に居たのではないかと考えてもおかしくはない。少なくとも非常に関係のある立場にあったとしてよい。


  
    
出雲国と「葦原中国」そして南九州鴨族との繋がり

 現在の島根県を指す「出雲国」を支配する前、実はオオクニヌシは「葦原中国(アシハラノナカツクニ)」の王者だった。
 葦原中国とは、弥生(水田立国)時代の直前に縄文系の倭人が支配していた日本列島および周辺で、王者はもちろんオオクニヌシ(たった一人ではない。古事記に4つの別名があるように大まかな地域ごとにオオクニヌシ=オオナモチが存在した)で、縄文文化の代表者とみなすことができる。
 これに対して弥生時代的水田立国を掲げて中つ国の明け渡しを
迫ってきたのが、「天津日」を体得した天孫族グループであった。これが「国譲り」の中身であり、その具体的な舞台は当時もっとも先進的な弥生文化(水田立国、中央集権、鉄器)がもたらされていた北部九州である。
 国を譲った(明け渡した・負けた)側のオオクニヌシ一族は北部九州から四散し、大首長オオクニヌシは島根出雲国へ流された。またタケミナカタはさらに遠く、中部の諏訪地方まで行っている。

 ところが、不思議なのはアジスキタカヒコネとコトシロヌシだ。
 
コトシロヌシは「天逆手(あめのさかで)を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して、隠れましき」(古事記)とあるように、海に入って行ったらしく書いてあるが、行方知れずになっている。
 また、アジスキタカヒコネに至っては、天上から中つ国に降りてきた天若日子(アメノワカヒコ)が死んだ時にその死人と間違えられ、腹を立ててトツカノ剣で大暴れしたあと、「怒りて飛び去り給ふ」たが、その後の行方は杳として知られていない。
 

 どちらも死んだとは書かれていないので、オオクニヌシやタケミナカタと同様に何処かへ落ち延びたと見るのが順当ではないだろうか。
 そこで注目されるのが「アジスキタカヒコネは鴨の港の偉大な男王」という先の解釈だろう。アジスキタカヒコネは「鴨の港」すなわち「南九州航海民の港」に逃れ、そこの首長になったのであろう。またコトシロヌシも葛城の鴨神「鴨都味波八重事代主命」を「鴨族の鴨王で、あらゆることに精通した人物」と解釈したことを適用すれば、やはり南九州に逃れてきた可能性が強い。

 アジスキタカヒコネはカモタケツヌミと同一人物ではないかとも考えられる。南九州に逃亡してきたことを「曽の峯に天下り」(『山城国風土記逸文』)と書かれ、その後、大和葛城地方に遷ったからこそ、そこで鴨神として祭られたのではないだろうか。アジ=カモであるから、両者の名は一見して感じるほどの違いはない。 
 タカヒコネはヤエコトシロヌシの兄で、コトシロヌシの娘が神武天皇の后妃になるわけだから、タカヒコネは神武の一世代前の人物ということになる。すると『山城国風土記逸文』が言うように「神武の御前(みさき)に立ちて」、つまり神武より一足先に大和へ行っていたという記述と、まさに整合する。
 以上から、アジスキタカヒコネはより一層カモタケツヌミにダブって来るのである。

 その一方で、コトシロヌシはどうも神武東征を薦めた「塩土翁(シオツチノオジ)」その人ではないかという気がしてならない。あらゆることに精通しているのなら、当然「潮路(航路や海流)」をも知っていたはずである。

さて、以上のようにアジスキタカヒコネもコトシロヌシもともに「国譲り」のあと、南九州に落ち延び、そこの鴨族の首長となり、やがて大和地方へ東遷を敢行した(ただし神武東征の前)と考えれば、『山城国風土記逸文』が説くカモタケツヌミ東遷との整合が得られ、かつ彼らが出雲系オオナムチ (ただし生まれたのは北部九州葦原中国=伊都国=イツ国時代)の子でもあってみれば、東遷した先の葛城の地に出雲系鴨神社があって、なんら不思議ではないことになろう。     (完)

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