カヤ(鹿屋)考         

はじめに

 鹿屋はふつう「かのや」と言うが、漢字の正しい読みからは「かや」が正しい。
 源順の著した『倭名類聚抄』(10世紀初めに成立)には大隅国姶羅郡にある郷の一つに「鹿屋郷」があるが、もし当時、鹿屋郷を「かのやごう」と読んでいたとしたら、著者は「鹿之屋郷」もしくは「鹿野屋郷」などと書いたはずである。そう書かなかったということは、著者が「かやごう」と読んでいたからだろう。
 もちろん著者が造作した郷名ではなく、何らかの文書、あるいは口承により、著者が採取して自著に記載したはずのものである。

日本・中国・朝鮮史料に見える「カヤ」一覧

国別 カヤを含む名称 出典 備考
日本  厚鹿文 (あつかや)
  鹿文 (さかや)
 市乾鹿文(いちひかや)
 市鹿文 (いちかや)
 取石鹿文(とりしかや)
 『日本書紀「景行紀」』
 厚鹿文と 鹿文は兄弟。市乾鹿文と市鹿文は姉妹で、厚鹿文の娘。景行天皇自らにより、誅罰された。
 また、取石鹿文は南九州クマソ国の川上に蕃居しており、ヤマトタケルが征伐したとする。
 <推定で4世紀の初め頃>
中国  弁辰狗邪(ベンシンクヤ)国
 狗邪韓(クヤカン)国
 『魏志韓伝
 『魏志倭人伝
「狗邪」は「クヤ」だが、倭人伝の「狗邪韓国」は金海市であることは確実で、金海市はのちの「金官伽耶」であったから、「狗邪」は「カヤ」と読んで差し支えない。
 <3世紀半ば(確実)>
朝鮮 ・伽耶軍と黄山津で戦った
・南部に伽耶軍が侵入してきた
・伽耶軍が講和を申し込んだ。
・伽耶国の嘉忝王が「伽耶琴」 を作った。
・11年後、伽耶が反乱を起こし たので討伐したら、降伏した。 伽耶は滅亡した。
・・高句麗は半島南部に5万の軍を送り、倭人と戦った。任那加羅まで至り、城を抜いた。
 『新羅本紀
・第4代トヘニシキン21年
・第6代キマニシキン4年
・第10代ナへニシキン6年
・第24代真興王12年
・同王の23年(562年)

・・『高句麗広開土王碑』の10年(400年)の条。
『新羅本紀』は『高句麗本紀』『百済本紀』と共に『三国史記』という高麗王朝時代の歴史書の一部。1100年代に成立。
 時代的に確実なのは第24代真興王の年代で、王の在位は540年から576年。
『新羅本紀』によれば第4代トへニシキンは倭人で、「多婆那国」の出身だという。その在位は57年〜80年。

・・広開土王は好太王とも言うが、倭人が攻めてきて「新羅・百済」を占領したのに対して反撃した時のことが刻まれている。

  以上から、@「カヤ」名称は、少なくとも3世紀にはあった。 A「任那(ミマナ)」「加羅(カラ)」名称は4世紀末には存在した。ということが言える。さらに「カヤ」→「カラ」という転訛が行われたことも分かる。ただし「カヤ」という言葉が消えたわけではなく、562年の伽耶国の滅亡までは使われていた。


「カヤ」と鹿屋

 南九州は『古事記』の国生み神話によれば、「クマソ国」であり「建日別(たけひわけ)」であった。

 また『魏志倭人伝』によれば、3世紀の南九州には「投馬国(つまこく)」があった。さらに九州北半に存在した「邪馬台国」のすぐ南にあり、邪馬台国とは敵対していたのが「狗奴国(くなこく)」であった。

 私見ではこの「投馬国」と「狗奴国」を併せた領域が、古事記で言う「クマソ国(建日別)」であり、「投馬国」は今日の鹿児島県と宮崎県を併せた領域、「狗奴国」はほぼ熊本県に重なる領域と考えている。

 「鹿屋」はクマソ国の中の「投馬国」に属しており、「神武紀」に記されているように鹿屋を含む大隅半島は「神武東征」の出発地でもあった。「神武紀」では、ワカミケヌこと神武天皇とその皇子「タギシミミ」が船団を率いて東征の途に就くのだが、「ミミ」名称は実は「投馬国」の王の名でもあった(魏志倭人伝では「彌彌(みみ)」と書いている)。

 また「タギシ」とは「船舵(ふなかじ)」のことであったから、「タギシミミ」とは「船舵王」すなわち「航海王」ということでもある。鹿児島はこのような航海民を輩出した土地柄であったため、「船子・舵子」を意味する「鹿児(かこ)」から「鹿児島」と名付けられたのだろう。

 また、日向神話では天孫降臨後の2代目「ヒコホホデミ」は海神の娘「トヨタマヒメ」と竜宮で見初められ結婚し、時を経て「鴨着く島(かもどくしま)」に渡り、そこでトヨタマヒメは「ウガヤフキアエズ」を産む。トヨタマヒメは出産を見られたのを恥に思い竜宮に帰ってしまうが、ウガヤフキアエズは「鴨着く島」に土着する。

 このとき鹿児島は「鴨着く島」と言い変えられているが、「鴨」という鳥の属性つまり「夏は半島から大陸に渡って過ごし、冬は日本列島に来て過ごす」ことは、鹿児島をはじめとする九州島から半島へ渡って交易に従事することを暗喩し、そのような鴨に似た属性を持つ航海民を「鴨(族)」と表現し、蝟集する土地を「鴨着く島」と名付けたに違いない。

 鹿屋もそのような土地柄の一つの中心であるから、当然、鹿屋からも半島に渡り、交易を営む者たちが多かったはずである。従事した職種は「鉄資源の開発、運搬」であったろう。『魏志韓伝』には「弁韓・辰韓には身体に入れ墨を施した者が大変多くいる」との記述があるが、それらこそ航海民に他ならない。

 鹿屋は半島南部の「伽耶」すなわち「弁韓狗邪国」「狗邪韓国」と直結する名称である。後者は3世紀には存在した国々であるが、3世紀の半ば(247,8年ごろ)に起きた大規模な「反魏闘争」により、敗れた弁韓・辰韓のそのような航海民が多数流れ込んだゆえ、「かや」という地名が生まれた可能性がある。

 しかし先に大隅半島側に「かや」なる名称があったとも考えられる。

 今のところ、どちらが先かの結論は出し得ないでいるが、「鹿児屋(かこや)」すなわち「鹿児(鹿児)の屋(や)=航海民の住みか」と言われていたのが、「児(こ)」の脱落で「鹿屋(かや)」になったのかもしれないとも思っている。


渡来人(帰化人)・渡航人・帰還人  

 むかしの教科書では、列島以外のところから来て同化する人々を「帰化人」と呼んだが、今は廃止されて「渡来人」となっている。

 名称は変化したが、われわれはどうも海外からやって来る人を、「列島人とは血のつながりも何にもない人」と考えがちで、ためにすべてをかっての帰化人(今の用語では渡来人)と捉えてしまう傾向が強い。つまり海外から一方的にやって来るばかりの人的交流しか考えていない。「仏教留学して帰って来た人」は枚挙にいとまないくらい教科書には載せてあるが、こちらから積極的に出向いて交易に従事するなどということは、はなから無いものだと思う傾向が根強くある。

 中世になると「倭寇」、戦国期末になるとフィリピンやシャムやカンボジア交易が盛んになるので、日本人の海外進出はおおっぴらに語られるようになるが、古代以前は「遣隋使」「遣唐使」などの不定期の官製交流くらいしかないくらいに思っている。

 そういう立場からは3世紀に記された「弁韓・辰韓に多数見られる入れ墨をした航海民」が、主に九州島から渡っていった倭人である、などということは視野のうちからこぼれてしまい、古代以前の歴史認識を狭いものにしている。いやそういうことにさえ気付かない場合がほとんどである。

 日本に列島以外から渡来する人々を、私見では次のように分類する。

  <渡来人(海外から日本列島にやって来る人)の分類>

   @異国人(純粋の渡来人。かっては帰化人と呼ばれた人)・・・・・招聘学者・僧侶・難民(亡命者)
   A渡航人(倭人だが半島なり大陸なりにも本拠のある人)・・・・・・交易者・航海業者
   B帰還人(倭人で向こうの本拠地を撤収して列島に帰った人)・・・おもに難民(亡命者


 @だけを考えていては古代史以前の歴史は狭い解釈に陥る。A、Bのケースも多かった。とくにAは忘れられがちである(その好例が幕末の薩摩藩財政を救った指宿の貿易商・濱崎太平次である)。


帰還人の一例――日羅

 日羅は「敏達天皇紀」に登場する人物で、「百済の達率(タッソツ)・日羅」として記される場合が多い。

 「敏達紀」の12年条によると、日羅は父が「火葦北国造・アリシト」の息子で、百済王に仕えており、その時の位は「達率(タッソツ)」といい、王族が任命される6人の一品官「佐平(サヘイ)」に次ぐ二品官という高官になっていた(全部で16品官がある)。残念ながら就任に至るまでの事情は記されていないが、百済王からは重く用いられていた。(注:率官は上位から達率・恩率・徳率・干率・奈率がある。その下には徳官が続く)

 この日羅が敏達天皇(第30代。在位571年〜585年。父は欽明天皇)の命令で、百済から召還されることになったのが、同天皇の12年のことであった。
 そのわけは、先代の欽明天皇23年に任那が滅ぼされたのを復興するため、百済に日羅という賢人がいるから呼び寄せて、一緒に策を練ろう――ということである。

 百済王は返還を拒んだが、使節の吉備海部直・羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)の恫喝で何とか連れて帰ることができた。
 しかし、日羅に付いて来た百済の使い人の手により、日羅は落命する。
 
 敏達天皇12年条は、かなり長文だがそのほとんどが「日羅の事績」で埋め尽くされている。今、その流れを摘記して示しておく。

●秋七月、天皇の詔が出る。(内容はすでに上に記したように日羅招聘のこと。

●紀国造・押勝(おしかつ)と吉備海部・羽嶋(はしま)を遣わすが、百済王は承知しない。(この時の百済王は第 27代威徳王。在位554年〜598年)

●羽嶋だけが百済に残り、ひそかに日羅邸に行き直接会う。日羅に言われたとおり百済王を威嚇し、招聘を聞き 入れさせる。

●しぶしぶ受け入れた百済王は日羅に添えて百済の臣「恩率・徳爾(トクニ)・余怒(ヨヌ)・歌奴知(カヌチ)・参  官(サンカン)」「舵師(かじとり)」「徳率・次干徳」「水手(かこ)等若干名」を遣わす。

●吉備児島屯倉に到着した日羅らを、大伴糠手子連に迎えさせ、難波館まで案内する。

●天皇の百済大井宮を甲冑を纏い騎馬で訪れ、次のように言った。
  「欽明天皇の御世に、我が君・大伴金村大連が国家のために海表に派遣した火葦北国造・靫部阿利斯登(ゆ  ぎべのありしと)の子、臣・達率日羅、かしこまりて天朝に参りました」

●阿部目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を遣わして日羅の策を問うと、次のように答えた。
  「3年は民を休ませて賑わいをもたらし、その後に多くの船を作らせて、港ごとに備えなさい。そして百済などか  らの使い人に見せ、その上で百済の太子・佐平などの高官を招致すれば、自ずと従うようになるだろう。」

●恩率・参官らは先に国へ帰るとき、同じ恩率の徳爾に、「日羅を殺せば百済王から高位・高爵を得られる」とそそのかした。

●徳爾等は日羅のスキをうかがうが、いつ近寄っても日羅の身から炎のような光が放たれていて、殺すことができなかったが、12月大晦日にその光が消失したので殺害した。

●徳爾等は捕らえられて「下百済の阿田村」に置かれた。尋問すると徳爾は恩率・参官らの言い付けであると白 状したので、獄にいれ、その後、葦北の日羅の親族を呼び、徳爾等を決罪させた。葦北君は彼等を斬罪にし彌 売島に捨て、その一方で日羅のなきがらを引き取り、葦北に葬った。(日羅の墓は現在の八代市にある)

 ※以上が「帰還人」の実例である。「渡航人」であった日羅の父・アリシトの百済での事績は不明だし、日羅が上位の百済高官に抜擢された経緯も不明だが、6世紀後半にあった史実として間違いないところである。

 これより300年、400年前にもこのような事例はあったとして何らおかしくはない。

 『三国史記』「新羅本紀」では、新羅の第4代トヘニシキンは倭人であると記すが、あながち作り話とは言えないだろう。「新羅ナショナリズム」からすれば、書かない方がよかったはずである。   


        (「カヤ(鹿屋)考・終り)                トップページへ戻る