継体紀を読む

 前項の「武烈紀を読む」で述べたように、武烈天皇と継体天皇はまったく血統を異にする天皇である。継体天皇の居所は後世の越前国(福井県)の三国であり、都の大和からすれば雛に住む土豪でしかなかった。
 その一地方の首長が天皇位を継ぐというのは記紀の編纂方針である「天皇は太古より一系連綿と続く家系である」に反していることである。それをクリアーするには前代の天皇が余りに非道で、人間的に許せないことを行ったと記述するしかなかった。
 継体天皇はそのような万世一系性とは相容れない出自であり、政権の交代も描かれているような平和裏に行われたのではなく、実はかなり武力的な衝突(一種の革命動乱期)があっての末ではないかと思われる。


       父母   父:彦主人王(ヒコヌシノミコ=応神天皇の五世孫)
             母:振姫(フルヒメ=垂仁天皇の七世孫)

      
和風諡号 男大迹(オオト)、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)

       
 宮    樟葉宮(元年〜5年)
             山背筒城宮(5〜12年)
             弟国(乙訓)宮(12〜20年)
             磐余玉穂宮(20〜25年)

       
皇后   (正)タシラカ皇女   (側)目子媛、稚子媛、麻績イラツコ、関媛、倭媛

       
墳墓   藍野陵(あゐのみささぎ)

     < 皇子・皇女 >(下記の一覧表)    

          皇子・皇女          
 天国排開廣庭尊(アメクニオシハラキヒロニワ尊)  タシラカ皇女(仁賢天皇の皇女)
 勾(マガリ)大兄皇子  檜隈高田皇子  メコ媛(尾張連草香の娘)
 大郎皇子  イヅモ皇女  ワカコ媛(三尾の角折君の娘)
 カムサキ皇女 マムタ皇女 マクタ皇女  ヒロ媛(坂田の大跨王の娘)
 ササゲ皇女  オミ郎子(息長真手王の娘)
 マムタオオイラツメ皇女 シラサカイクヒヒメ皇女
 オノノワキイラツメ皇女
 セキ媛(茨田連小望の娘)
 オオイラツコ皇女  椀子(マリコ)皇子
 耳皇子  アカヒメ皇女
 ヤマト媛(三尾君カタヒの娘)
 ワカアヤヒメ皇女 ツブライラツメ皇女 厚皇子  ハエ媛(和邇臣河内の娘)

 
         < 年代順の事績 >
                      事   績    備考
即位前紀 ・オオトを産んだフル媛は、故郷の越前・高向に帰って子育てをする。
 武烈8年、武烈天皇崩御の時、オオトは57歳になっていた。
・最初、丹波国に居住の仲哀天皇の五世孫・倭彦王に白羽の矢が立ったが、倭彦王は大伴金村大連らの迎えの大軍を怖れ、山に逃れてしまった。
元年 ・大伴金村大連、物部麁鹿火大連、許勢男人大臣らは越前にいるオオトを後継者とすることで一致し、迎えに行く。オオトは幾度も拒んだが、河内馬飼首の荒籠(アラコ)の懇望に負け、後継を受託する。
樟葉宮に入る。
・タシラカ(手白香)皇女を皇后とする。天国排開広庭(アメクニオシハラキヒロニワ)皇子を産む(後の欽明天皇)。
西暦507年
2年 ・武烈天皇を片岡磐杯丘陵に葬る。12月、耽羅人が初めて百済国に通交する   508年
3年 ・2月、百済に遣使。任那の日本県邑にいる百済国人で、逃亡してきた者たちを百済本国に還す。   509年
4年   510年
5年 ・都を山背の筒城に遷す。   511年
6年 ・4月、穂積臣押山を百済に遣わす。このときに筑紫国の馬を40頭持参する。
 12月、百済が朝貢し、任那の上多利・下多利・裟陀・牟婁の四県の割譲を申し出る。多利国守である穂積臣押山が割譲に賛成したので、物部麁鹿火大連を勅使に立てたが、アラカビの妻が大反対したため、アラカビは勅使を辞退した。
 だが天皇の決意は堅く、別の使いを遣って百済の意向に報いることになった。
 しかしそのことを後で知った勾大兄皇子は「応神天皇の時代から宮家を置いている
重要な土地を隣国に譲ってしまうとは・・・」と別使を立てて翻そうとしたが叶わなかった。
  512年
7年 ・6月、百済、姐弥文貴(サミモンキ)将軍、洲利即爾(スリソニ)将軍を遣わし、穂積臣押山に添えて五経博士・段揚爾(タンヨウジ)を貢献する。そして伴跛(ハベ)国が百済の己紋(コモン)地方を奪ったので元に還させてくれるよう懇願した。
・8月、百済の淳陀太子が亡くなる。
・11月、朝廷に百済の姐弥文貴(サミモンキ)将軍、斯羅(新羅)の文得至(モントクチ)、安羅の辛已渓(シンイケイ)・憤巴委佐(ホンイサ)、伴跛(ハベ)の既殿渓(キデンケイ)・竹文至(チクモンチ)らを前に、勅して百済に己紋・帯沙(タイサ)を与える。伴跛(ハベ)国は珍宝を提供して己紋を懇請したが、天皇は拒絶した。
・12月、詔して勾大兄皇子を皇太子とする。
  513年
8年 ・3月、伴跛国が子呑(コトン)・帯沙(タイサ)に城を築き、日本に備えた。   514年
9年 ・物部連(百済本記には物部至至連とある)を百済の使者・文貴将軍を送る使いとする。文貴将軍と別れた後、物部連は帯沙江に行く。伴跛国が攻めて来たので、物部連はかろうじて逃げ延びる。   515年
10年 ・百済は物部連を己紋(コモン)に迎え入れ、百済王都に連れて行く。   516年
11年   517年
12年 都を弟国に遷す   518年
13年   519年
14年   520年
15年   521年
16年   522年
17年 ・百済国の王・武寧王の死。   523年
18年 ・百済の太子・明が位につく。   524年
19年   525年
20年 都を磐余玉穂に遷す   526年
21年 ・6月、近江毛野臣が衆6万を率いて任那に向かう。このとき筑紫国造・磐井が叛逆する。新羅が好機と捉え、磐井に賄賂を贈り、毛野臣の進軍を妨げるよう要請する。
・8月、物部麁鹿火大連に天皇自ら「斧鍼(フエツ)」を授けて曰く「長門より東は朕が治め、筑紫より以西は汝が治めよ。賞罰を与えるのは汝の専権事項としてよい」。
  527年
22年 ・11月、物部麁鹿火は筑紫国御井郡で、磐井と戦った。ついに磐井を斬り、戦いは収まった。磐井の息子の葛子は父・磐井に連座することを恐れ、糟屋屯倉を献上して死罪を免れようとした。   528年
23年 ・下多利国の守・穂積押山臣が「加羅の多沙津を自分の百済へのルートとしたい」旨の発言をした。すると物部伊勢連父根(カゾネ)が、多沙津を百済に与えてしまった。加羅国の王はこれを不服とし、新羅と手を結んだ。
・任那にあった近江毛野臣は、新羅・百済の両国の王を召還したが、どちらも来ずに使いを送ってきたので、毛野臣は怒り、再度召還したところ、新羅は三千の兵を送ってきた。そうこうしているうちに任那の金官・背伐・安多・委陀の4つの村を取られてしまう。
  529年
24年 ・9月、任那の使いが来て毛野臣の専横を訴える。毛野臣は2年も任那に居座り、任那王・アリシトを差し置いて、勝手に民に探湯を行ったりしていた。アリシトはついに百済と新羅に援軍を依頼した。
・目頬子(メズラコ)が使わされて、ようやく毛野臣は帰ってきたが、対馬まで来たところで、病を得て死亡する。
  530年
25年 ・2月、天皇は磐余玉穂宮において崩御。82歳。12月、藍野陵に葬られる。
(ある本に云う、天皇は28年甲寅に崩御された、と。25年の崩御は百済本記の記すところで、太歳辛亥3月、師進みて安羅に至り乞託=コッタク城に宿営する。この月に高麗、その王・安を殺す。また聞く、日本の天皇および太子、皇子ともにみまかる、と。これによりて言えば、辛亥の歳は25年に当たっている。ついては後世の勘校を期待する。)
  531年

(注)
彦主人王と振媛・・・ヒコヌシ王は応神天皇から5世代目であるから、その子であるオオト王子は応神天皇から数えて6代目、つまり血の濃さは32分の1。またフリヒメは垂仁天皇から7代目、したがってオオト王子は垂仁天皇の血の128分の1しか持っていないことになる。せいぜい男系の孫くらいまでが王統を継ぐ条件だった古代にあって、オオト王子は、応神系で見るにしろ垂仁系で見るにしろ、ほとんどアカの他人と言ってよい。

高向・・・地名。越前国(福井県)坂井郡丸岡町高椋。継体天皇の父・彦主人王はフルヒメが美人の誉れ高いのを知り、別荘の三尾(近江国高島郡安曇川町三尾里)に召し入れ、そこでオオトが生まれたが、間もなく彦主人王が死んだので、古里の高向に帰り、オオトを育てた。
 なお、三尾の近くの高島町鴨の「稲荷山古墳」(6世紀初頭)からは金銅の王冠、履、耳飾り、鏡、鹿角装飾大刀などが出土しており、彦主人王の墓と言われている。

樟葉宮・・・くすはのみや。河内国(大阪府)の枚方市樟葉が伝承地。ここで大伴金村大連から「鏡と剣」の璽符(天子のしるし)を受け、即位した。ここには元年から5年まで宮を営んだ。

耽羅人・・・耽羅国人。耽羅国は韓国の済州島のこと。中国史書の『旧唐書』の「劉仁軌伝」に<倭衆ならびに耽羅国使、一時に並びて降る>とあり、西暦663年に行われた「白村江の海戦」において破れた<倭衆(倭国人)>とともに<耽羅国使>が投降したことを伝えている。継体2年(508)はそれより150年も前のことだが、その頃から済州島と倭国(九州)とは共通して百済と通じていたことが分かる。
 この済州島は実は『魏志』の「韓伝」に登場する。「韓伝」は<馬韓条><辰韓条><弁韓条>から成るが、<馬韓条>に「また州胡、馬韓の西海中の大島の上に有り。その人やや短小にして、言語は韓と同じからず。みな頭をそること鮮卑の如し。ただ韋を衣とし、好んで牛および猪を養う。その衣は上のみありて下は無し。ほぼ裸勢の如し。船に乗りて往来し、韓の中において市買す」と描かれた州胡こそは済州島のことである。

山背の筒城・・・京都府綴喜郡田辺町、現在の京田辺市に開かれたのが「筒城宮」。ここには即位5年から12年まで足掛け8年いた。

穂積臣押山・・・割注の「百済本記に云う」によれば「倭・意斯移麻岐海弥(倭のオシヤマギミ)」である。すぐ後にこの押山は「多利国守」であった、とある。穂積臣は『新撰姓氏録』によれば、「石上と同祖。カム二ギハヤヒの6世の孫・イカガシコオの後」で、二ギハヤヒの後裔、すなわち物部氏の一族である。

勾大兄皇子・・・継体天皇の最初の妃は尾張連草香の娘で目子媛と言った(越前と尾張の婚姻であるが、越前と尾張は琵琶湖(近江)を中継として繋がっていた)が、このメコ媛との間には「勾大兄皇子」と「檜隈高田皇子」の二人が生まれ、どちらも皇位を継いでいる。勾大兄皇子は継体天皇の次の安閑天皇として即位している。
 また檜隈高田皇子はそのあとの宣化天皇である。

伴跛(ハベ)国
・・・任那(弁韓=伽耶)の一国で、伽耶山の東の「星州」を中心とした国家を指す。この国の南に「高霊」を中心とした大伽耶国があった。

己紋・帯沙・・・コモンとタイサ。どちらも百済と任那の境界を流れるセンジン江の流域にある地方。

弟国の宮
・・・オトクニノ宮。京都府乙訓郡向日にあった。ここで八年ほどを過ごした。

武寧王・・・『三国史記』の「百済本紀」によれば、百済第24代の王で、幼名は斯摩(シマ)。統治年代は501年〜523年で、日本の武烈天皇と継体天皇の期間とほぼ並行している。
 武寧王は前代の東城王の子である。だが日本書紀「武烈天皇紀」4年の分注によると、百済新撰(という史書)に載るとして、この武寧王は筑紫島つまり九州で生まれているようだ。そのまま百済に帰還したが、島で生まれた故に「島=斯麻」と名付けられたと言うのである。
 応神天皇が神功皇后の腹に入ったまま朝鮮半島に渡り、新羅を臣属させたあと、筑紫島(九州)に帰ってから応神を生んだのと対照的である。

磐余玉穂宮・・・大和(奈良県)の桜井市。神武天皇の開いたとされる磐余の宮とは指呼の間にある。ここで最後の6年を過ごし崩御した、としている。

筑紫の君・磐井・・・八女郡に王宮を構え、筑紫の大半を統治していたのが磐井であるが、その出自は不明である。八女市吉田にある巨大な前方後円墳・岩戸山古墳はその磐井の墓とされるが、22年条からはそのように読み取ることはできない。また、「筑後風土記・逸文」によれば、磐井は物部アラカビ軍に斬殺されず、「南山の嶮嶺の曲に終われり」と、嶮しい山中に逃れて行方知れずになったと書いてあるから、ここからも磐井が筑紫の君として最後は「岩戸山古墳」に祭られた可能性はほとんど無いだろう。
 磐井は、半島国家では新羅に加担しようとしていたので、百済救援のために出動した倭軍と敵対したわけだが、筑紫国が記紀で「白日別」と称されているように、九州北部の筑前・筑後・豊前は魏志の時代(2〜3世紀)から新羅の前代・辰韓とは通交が深かった地域である。

糟屋屯倉・・・かすやのみやけ。現在も北部九州博多の東部にある糟屋町として残っている。八女市とは直線距離にして60キロもあり、磐井の権力がここまで及んでいたことを示している。

任那王アリシト・・・アリシトは「阿利斯等」と書くが、日本の万葉仮名の使い方とそっくりである。任那が倭人国家であることの証拠でもある。23年の夏四月七日の条に「任那王・己能末多干岐、来朝す」とあるが、それに割注が付され〔己能末多(コノマタ)と言うは、蓋し、阿利斯等なり〕とある 
 垂仁天皇の時代に任那国が使いを遣わしたという記事がある(2年条)が、そこの分注に<意富加羅国=オオカラ国=大伽耶国の国王の子、名は都怒我阿羅斯等=ツヌガアラシト、またの名は紆斯岐阿利叱智干岐=ウシキアリシチカンキと曰ふ>と出てくる名と共通しており、上の割注は下の分注を参照したのかもしれない。
 私見ではアリシトとアラシトはやはり同義であると考えるが、アラシトとは倭名の「タラシ」と同根で「王」を意味すると思う。

藍野陵…大坂の三島地方にある二つの巨大前方後円墳「太田茶臼山古墳(227m)=茨木市。宮内庁指定」と「今城塚古墳(190m=高槻市」のどちらかという議論がなされたが、築造年代が前者は5世紀半ば、後者は6世紀半ばと比定されされるので、後者(今城塚古墳)が継体天皇陵である可能性が高い。ほぼ定説と言ってよい。


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