「欠史八代」を読む

 「欠史八代」とは、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの八代で、天皇名、おくり名(和名)、宮、皇后、皇子、皇女など、必要事項しか記載されていない代を指す。

 言い換えれば「統治時代の事績がない」つまり「帝紀」(系譜)のみで「旧事」(事績)のない天皇が八代続いたということだが、これをして「これら八代の天皇は実在しない、造作された天皇である」ことの証左とする見解がある。しかし、事績がないということでは、古事記では上の八代に加えてさらに実在が疑われたことのない第24代仁賢天皇から33代推古天皇までの十代に亘っており、これも実在しなかったと言われても仕方がなくなってしまうだろう。

 また、実在するのは祟神天皇からで、それ以前の9代は大和王朝をより古く見せるために造作した――とする見解も根強いが、それならわずか9代の造作などといわず、20代でも30代でも創作すればよかったわけで、それをしなかったということは、9代が史実だったからに違いない。

 ところで、今、八代は事績がない、と言ったが、実は2代目の綏靖天皇にはわずかながら事績がある。多くの「八代欠史」論者が見落としている点である。

 
    第2代 綏靖天皇 の事績
 
 事績のほかに、当然のこととして和名、宮、皇后などが記載されているが、これら帝紀的な事項は他の7代の天皇とまとめて表にして示すので、ここでは綏靖天皇にだけある事績部分を取り上げて論じておきたい。

 即位前記に当たる部分は次の通りだが、意外に重要な事績・事項が網羅されている。


 @綏靖天皇ことカムヌナカワミミは、神武天皇の第三子とある。これはタギシミミ(母はアイラツヒメ)、カムヤイミミ(母はカムヌナカワミミと同じヒメタタライソスズヒメ)に継ぐ三人目ということである。

 A長子で腹違いの兄タギシミミは、年嵩がいっており、長いこと治世の要枢をになっていた。けれども、タギシミミは仁義の心がけに欠けており、神武天皇の諒闇中、自分が後継者たらんとして二人の弟を亡き者にしようと考えていた。

 Bこれを察知したカムヌナカワミミは、兄のカムヤイミミと図ってタギシミミを誅殺することにした。
 最初、カムヤイミミが矢を射ろうとしたが怖気づき、カムヌナカワミミが代わって射り、首尾よくタギシミミを殺すことに成功した。

 Cタギシミミ亡き後、皇位継承権はまずカムヤイミミにあったが、惰弱な兄に代わって弟のカムヌナカワミミが2代目後継者となった。



 以上が「欠史八代」の中で、他の7代には見えない第2代だけが持つ事績である。

 Aを私は重く見る。というのは「長いこと治世の要枢をになっていた」(原文は「行年、已に長けて、久しく朝機を歴たまえり」)の部分だが、これを看過してはならないと思うのだ。「久しく朝機を歴(ふ)る」とはひかえめに言っても「王権の中枢にいた」、重く解釈すれば「王権の中心だった」となろう。

 私は後者のように重く解釈し、要するにタギシミミは「王位者だった」。すなわち「日向から東征し、大和王権を打ちたてた神武天皇とはタギシミミのことだと解釈するのである。タギシミミが南九州古日向に存在した投馬国の王統のひとりであることは何度も述べたが、単に父親の神武に従って東征したのではなく、実は神武その人であったと考えるのだ。ミミ(耳)の付く皇子が集中して登場するのが東征を描いた神武紀であることが、これを裏付けている。

 するとBとは、矛盾しないか。なぜ聖王であるはずの神武(タギシミミ)が、大和に入ってから生んだ自分の子に「仁義がない」からといって殺害されなければならないのか――という疑問が起きるはずである。これに対して、私はこう解釈する。

 紀記の編纂初期、白村江の海戦で大敗北を喫した水軍の一大拠点だった九州島は、敗戦によって唐の「都督府」が置かれ、一種の占領統治が行われていた。南九州もその影響はまぬかれず、それでなくても南九州はもともと鹿児(かこ)、つまり船子の輩出地であり、白村江の海戦にも出陣していた船子も多かった。そのことから、南九州(鹿児=鴨族)の評価は極端に低下せざるを得なかった。
 したがって、かっては海運力によって東征し、大和王権を樹立したことさえある南九州だが、紀記編纂当時はそれをはばかる気運がみなぎっていたため、南九州からのストレートな王権樹立という影響を極力避けようとして、南九州生え抜きのタギシミミを王家内の内紛で処理した(ように、造作した)のだろう。

 実際には、当然ながらタギシミミ殺しは行われなかった。要するに2代目からは畿内生まれの畿内っ子による王権が始まり、南九州の影響はもうなくなったとしたかったのだ。それが「大和中心主義」の狙いだったはずだ。トカゲの尻尾切り――という言葉が適切かどうか分からないが、それに似た編集心理が支配していた結果と見られよう



   八代の帝紀的部分の一覧表
 
 表T(和名・父母・妃・皇子・皇女・王宮・御陵)
                                   
注:青字は書紀、茶色字は古事記による

天皇名 父母 王妃 皇子・皇女 王宮 御陵
第2代・綏靖天皇
 カムヌナカワミミ
神武天皇(第3子)
母:ヒメタタライソスズ姫
   (事代主神の大娘)

  ヒメタタライスケヨリ姫
   (大物主神の娘)
イソスズヨリ姫
 (事代主神の少娘)

 カワマタ姫
  (師木県主の祖)
シキツヒコ
   タマテミ

シキツヒコ
   タマテミ
葛城
高丘宮

高岡宮
桃花鳥田
丘上陵

衝田岡陵
第3代・安寧天皇
 シキツヒコタマテミ
綏靖天皇(長子)
母:イソスズヨリ姫
   (事代主神の少娘)
  カワマタ姫
   (師木県主の祖)
ヌナソコナカツ姫
(事代主神の孫・鴨王の娘)

 アクト姫
   (師木県主ハエの娘)
イキシミミ
オオヤマト
 ヒコスキトモ

トコネツヒコ
     イロネ
オオヤマトヒコ
 ヒコスキトモ
シキツヒコ
片塩
浮孔宮

浮穴宮
御陰井陵
美富登陵
第4代・懿徳天皇
 オオヤマト
   ヒコスキトモ
安寧天皇(第2子)
母:ヌナソコナカツ姫
  (事代主神のひ孫)
  アクト姫
  (師木県主の娘)
アメトヨツ姫
  (イキシミミの娘)

  フトマワカ姫
   (師木県主の祖)
ミマツヒコ
   カエシネ

ミマツヒコ
   カエシネ
タギシヒコ
曲峡宮
 (軽)

境岡宮
 (軽)
繊沙
 谷上陵

真名子
 谷上陵
第5代・孝昭天皇
 ミマツヒコカエシネ
懿徳天皇(長子)
母:アメトヨツ姫
   (イキシミミの娘)
  フトマワカ姫
   (師木県主の祖)

  
ヨソタラシ姫
(尾張連祖オキツヨソの妹)

  ヨソタホ姫(同上)
アメタラシヒコ
 クニオシヒト
ヤマトタラシヒコ
 クニオシヒト

古事記も同じ
葛城
池心宮
葛城
掖上宮
掖上博多
山上陵

 (同じ)
第6代・孝安天皇
 ヤマトタラシヒコ
   クニオシヒト
孝昭天皇(第2子)
母:ヨソタラシ姫
   (オキツヨソの妹)
   ヨソタホ姫
オシ姫
(姪:アメタラシヒコの娘か)

  オシカ姫(同上)
オオヤマトネコ
  ヒコフトニ

オオキビ
  モロススミ
オオヤマトネコ
  ヒコフトニ

 
秋津島
宮(室)
葛城室秋津嶋
玉手
 丘上陵

(丘が岡)
第7代・孝霊天皇
 オオヤマトネコ
   ヒコフトニ
孝安天皇(長子)
母:オシ姫(孝安の姪)
   オシカ姫
クワシ姫
 (磯城県主・大目の娘)
ヤマトクニカ姫(ハエイロネ)
ハエイロト

  クワシ姫
  チヂハヤマワカ姫(春日)
  オオヤマトクニアレ姫
  ハエイロト(クニアレ姫妹)
オオヤマトネコ
 ヒコクニクル
ヤマトトトヒ
    モモソ姫
ヒコイソサセリ
ヤマトワカヤ姫
ヒコサメマ
ワカタケヒコ

ヒコクニクル
チヂハヤ姫
モモソ姫
ヒコサシカタワケ
ヒコイサセリ
トビハヤワカ姫
ヒコサメマ
ワカタケ
   キビツヒコ



黒田
廬戸宮
(同じ)

片丘
 馬坂陵

(丘が岡)
第8代・孝元天皇
 オオヤマトネコ
   クニクル
孝霊天皇(長子)
母:クワシ姫
   (大目の娘))
   クワシ姫
ウツシコメ
(穂積臣遠祖・ウツシコオ妹)
イカシコメ
ハニヤス姫
 (河内の青玉繋の娘)

 ウツシコメ
 イガカシコメ
  (ウツシコオの娘)
 ハニヤス姫

 
オオビコ
ワカヤマトネコ
  ヒコオビビ
ヤマトト姫
ヒコフツオシ
      マコト
タケハニヤス
       ヒコ

オオビコ
スクナヒコ
 タケイゴコロ
ワカヤマトネ
 ヒコオオビビ
ヒコフツオシ
     マコト
タケハニヤス
      ヒコ
境原宮
 (軽

軽之
境原宮
剣池
 嶋上陵

剣池之
中岡上陵
第9代・開化天皇
 ワカヤマトネコ
  ヒコオオビビ
孝元天皇(第2子)
母:ウツシコメ
   (ウツシコオの妹)
   ウツシコメ
イカシコメ(庶母に当たる)
タカヌ姫(丹波)
オケツ姫
 (和邇臣の祖・オケツの妹)

 タカヌ姫
  (旦波大県主ユゴリの娘)
 イガカシコメ(庶母)
 オケツ姫
 ワシ姫
  (葛城垂見宿禰の娘)
ミマキイリヒコ
    イソニエ
ヒコユムスミ
ヒコイマス

ヒコユムスミ
ミマキイリヒコ
    イニエ
ミマツ姫
ヒコイマス
タケトヨ
  ハヅラワケ
春日
率川宮

春日之
伊邪河
率川
 坂本陵
伊邪河之
 坂上陵


 表T
を見てまず気づくことは、3代、4代、5代の天皇の母の名が、書紀と古事記とで著しく異なっていることだろう。
 書紀はイソスズヨリ姫(3代母)、ヌナソコナカツ姫(4代母)、アメトヨツ姫(5代母)と続き、いづれも事代主神の系譜上の姫たちである。

 2代目の母は書紀が「ヒメタタライソスズ姫」、古事記が「ヒメタタライスケヨリ姫」。違うといえば違うが、「ヒメタタラ」までは全く同じだ。父方も前者は事代主神、後者は大物主神で、どちらもいわゆる出雲系であるところは共通している。

 ところが、3代から5代までの母名は似ても似つかない。
 書紀の3代目がイソスズヨリ姫なのに、カワマタ姫。4代目はヌナソコナカツ姫なのに、アクト姫。5代目はアメトヨツ姫に対してフトマワカ姫、と全く違う。

 他の代はほぼ同じ名なので、その違いが際立ってしまう。

 なぜこんなに違うのかは、首を傾げるほかないが、共通点がないことはない。それは、書紀の3代、4代、5代の母親たちは全て事代主神の系譜上にあるのに対して、古事記の母親たちは全て師木県主そのもの、もしくは娘であり、系譜は違うにせよ、この三代はひとかたまりと捉えられていたことが分かる。

 古事記の母たちはすべて師木(しき)系だが、神武記では神武紀とは違い、師木地方に勢力を張っていた兄師木(エシキ)、弟師木(オトシキ)は両方とも滅ぼされいる。従って師木県主の祖だというカワマタ姫以下の師木系の姫たちとエシキ、オトシキは繋がらないと考えなければなるまい。

 いずれにしても、磯城地方は神武東征時に磯城八十タケルという豪族群が盤居していた所であり、大和南半の中心的地方であるから、そこから王妃を入内させるというのは理にかなっている。

 そうすると、むしろ書紀の事代主神系の王妃たちの方が蓋然性に乏しく、取って付けたような感じを受ける。つまり、東征という名の「大和侵攻」によって生まれた王権が樹立した時、その王者は大和で最も大きな勢力から王妃を獲得するのが普通であろうから、古事記の系譜のように師木県主系の女たちを王妃を娶る方が筋は通っている。

 では、事代主神系の王妃たちを娶ったとする書紀の記述は造作なのだろうか。私はそうではないと考える。その理由のひとつは、分注の存在である。表Uを見ていただきたい。


 表U

天皇 分注(一書では) 古事記では
3代安寧天皇 イソスズヨリ姫
(事代主神の少娘)
1磯城県主の娘・カワマタ姫
2春日県主大日諸の娘・イトオリ姫
師木県主の祖・カワマタヒメ
4代懿徳天皇 ヌナソコナカツ姫
(事代主神のひ孫)
1磯城県主ハエの娘・カワツ姫
2大間宿禰の娘・イトイ姫
カワマタヒメの兄の娘・アクトヒメ
5代孝昭天皇 アメトヨツ姫=姪
(イキシミミの娘)
1磯城県主ハエの弟イテの娘・イズミ姫
2磯城県主フトマワカヒコの娘・イイヒ姫
師木県主の祖・フトマワカヒメ

 以上で分かるように、書紀においても分注を見れば、三代すべて「磯城県主」系の姫たちが入内したように書いてある。つまり書紀では磯城系の王妃を羅列した書(系譜)の存在を知っていながら、あえて全く別系の王妃を記載しているのである。

 わたしは、あえて、と言ったが、文字通り強いて「イソスズヨリ姫ーヌナソコナカツ姫ーアメトヨツ姫」という独自の王妃群を持ち出してきたのだろう。この王妃群は事代主神系ということができる。3,4代は括弧で示したように文句なく事代主神の系譜だが、5代目の母となったアメトヨツ姫については説明を要する。一見したところ事代主神とは関係がないように見えるからだ。

 アメトヨツ姫は括弧で示したように、イキシミミ(息石耳)の娘である。このイキシミミは事代主神のひ孫ヌナソコナカツ姫の子であるから、その娘のアメトヨツ姫も事代主神の血筋と言うことができる。つまり5代目の天皇まで、書紀では母方が事代主神系だと言っているわけで、コトシロヌシはどうやら九州北部の「葦原中国」において天孫族(天津日を獲得し、代々伝えている=アマツヒツギ=とする勢力)に敗れたのち、南九州に落ち延びたのではないかと考える筆者の視点からは、この点について整合性は得られる。ましてイキシミミは「ミミ(耳)」という南九州投馬国由来の名を負っているのであるから、その整合性の確度はより高いものになる。

 古事記はこの事代主神系を全く無視するのだが、そのことについても触れておかねばなるまい。わたしは古事記が無視する事自体に意味がある、とおもう。つまり古事記は書紀よりももっと「大和中心主義」の強い立場を採っているということに他ならない、と考えるのだ。古事記編纂者の太安万侶にとって、事代主神という明らかに大和自生でない種族、すなわち国譲りをさせ、「出雲国」という辺境に追いやった天孫一系の大和王権とは不倶戴天の敵の血筋を交えてはならない――という史観がそうさせたと見る。

 したがって古事記はそこのところを「偽装」したのではなく、「隠蔽」したのである。

 それでは書紀の方はどうか。書紀は正系としては事代主神の系譜と説くが、一書には古事記と同じく三代にわたってシキ県主系の王妃があったともいう。そうなると両書に共通するのはシキ県主系で、むしろこちらの方が正系であり、事代主神系のほうが疑わしく感じられるかもしれない。
 だが、初代神武天皇の皇后が攝津三嶋のミゾクイミミの娘に事代主神が通じて生まれたヒメタタライソスズヒメだったわけであるから、その後も三代にわたって事代主系の王妃が続くというのは理にかなっている。

 以上から判断すると、このニ系統の王妃群が記載された背景にはニ系統の王統があったと考えてみればよい。その二系統とは、私見でたびたび指摘するように、二つあった「神武東征」による2回樹立された「大和王権」に他ならない。
 一回目の南九州からの東征による第一大和王権の初期王妃群が書紀記載の事代主神系であり、二回目の北部九州からの東征による第二大和王権の初期王妃群が古事記記載のシキ県主系であろう。これも何度も論じたように、一回目は神武(実は投馬国王タギシミミ)東征であり、二回目は祟神(九州北部倭人連合=大倭の王)東征である。
 私見では一回目を2世紀半ば、二回目を3世紀後半とするので、これら二つの王妃群は時代が違うが、古事記の方がそれを古くさかのぼらせ、あたかも第一大和王権の初期王妃群であるかのように付会させたのだろう。


 (以上の所論については「二種あった初期大和王権」「第二次神武東征論」などを参照されたい) 


   表V(各天皇の子孫と氏族)

 欠史とはいえ初期王権に由来するとされる氏族の数は多い。特に古事記は豊富な系譜群を記す。付会と見られる氏族名も多々あると思うが、後世に活躍する氏もかなり見られるので表にして参照に供したい。

   注:青字は書紀、茶色字は古事記記載のもの(〜臣の場合、臣は省略している)。
 

天皇 子孫(2世代目) 子孫(3世代目)
2代
綏靖
天皇
シキツヒコタマデミ(安寧天皇)=古事記も同じ
 兄のカムヤイミミの子孫
  多臣
  オオノ、チイサコベ、サカイベ、ヒノキミ、オオキダノキミ、アソノキミ、  ツクシミツヤノムラジ、サザキベ、サザキベノミヤッコ、オハツセノ
  ミヤッコ、ツゲノアタイ、イヨノクニノミヤッコ、シナノノクニノミヤッコ、
  ミチノオクイワキノクニノミヤッコ、ヒタチナカノクニノミヤッコ、
  ナガサノクニノミヤッコ、イセノフナキノアタイ、オワリノニワノ、シマダ
3代
安寧
天皇
イキシミミ
オオヤマトヒコスキトモ
(懿徳天皇)
シキツヒコ
トコツヒコイロネ
オオヤマトヒコスキトモ(〃)
シキツヒコ

 第三子シキツヒコの子孫
  猪使連
  長子(名は不詳)―イガノスチノイナギ、ナバリノイナギ、ミノノイナギ               の祖
  二男(ワチツミ)―ハエイロネ(オオヤマトクニアレヒメ)、ハエイロド
4代
懿徳
天皇
ミマツヒコカエシネ(孝昭天皇)
ミマツヒコカエシネ(〃)
タギシヒコ
 
タギシヒコの子孫
  チヌマノワケ、タジマノタケワケ、アシイノイナギ
5代
孝昭
天皇
アメタラシクニオシヒト
ヤマトタラシクニオシヒト
(孝安天皇)
アメオシタラシヒコ
オオヤマトタラシヒコクニオシヒト(〃)

 長子アメタラシヒコの子孫
  和邇臣ら
  カスガ、オオヤ、アワタ、オノ、カキモト、イチヒアシ、オオサカ、アナ、  タキ、ハグリ、チタ、ムザ、ツヌヤマ、イセノイイタカノキミ、
  イチシノキミ、チカツオオミノクニノミヤッコ
6代
孝安
天皇
オオヤマトネコヒコフトニ(孝霊天皇)
オオキビモロススミ
オオヤマトネコヒコフトニ(〃)
7代
孝霊
天皇
オオヤマトネコヒコクニクル(孝元天皇)
ヤマトトトヒモモソヒメ
ヒコイソサセリヒコ
ヤマトトワカヤヒメ
ヒコサシマ
ワカタケヒコ

オオヤマトネコヒコクニクル(〃)
チヂハヤヒメ
ヤマトトモモソヒメ
ヒコサシカタワケ
ヒコイサセリヒコ(別名オオキビツヒコ)
ヤマトトビハヤワカヤヒメ
ヒコサメマ
ワカヒコタケキビツヒコ
 ワカタケヒコの子孫―吉備臣
 オオキビツヒコの子孫―キビノカミツミチノオミ
 ワカヒコタケキビツヒコの子孫―キビノシモツミチノオミ、カサノオミ
 ヒコサメマの子孫―ハリマノウシカノオミ
 8代
孝元
天皇
オオヒコ
ワカヤマトネコヒコオオヒビ(開化天皇)
ヤマトトヒメ
ヒコフトオシマコト
タケハニヤスヒコ

オオビコ
スクナヒコタケイゴコロ
ワカヤマトネコヒコオオビビ(〃)
ヒコフツオシマコト
タケハニヤスヒコ

 オオヒコの子孫
  阿倍臣、膳臣、阿閇臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、
  伊賀臣

  タケヌナカワワケ(アベノオミの祖)
  ヒコイナコシワケ(カシワデノオミの祖)
 ヒコフトオシマコトの子孫
  二代後に武内宿禰が生まれる
  ウマシウチノスクネ(ヤマシロノウチツオミの祖)
  タケシウチノスクネ(9子がいる。右の欄に記す)

 
タケシウチノスクネの子
 
ハタノヤシロノスクネ
  ハタ、ハヤシ、ハミ
    ホシカワ、オウミ、
    ハセベノキミ
の祖
 コセノオカラノスクネ
  コセ、キサイベ、カル     ベの祖
 ソガノイシカワノスクネ
  ソガ、カワベ、タナカ
   タカムク、オハリダ
   サクライ、キシダの祖
 ヘグリノヅクノスクネ
  ヘグリ、サワラ、ウマミ
  クイノムラジの祖
 キノツヌノスクネ
  キ、ツヌ、サカモトの祖
 クメノマイトヒメ
 ヌノイロヒメ
 カツラギナガエノソツヒコ
  タマデ、イクハ、イクエ
  アギナの祖
 ワクゴノスクネ―エヌマの祖
 9代
開化
天皇
ヒコユムスミ
ヒコイマス
ミマキイリヒコイソニエ
(祟神天皇)
ヒコユムスミ
ミマキイリヒコイニエ(〃)
ミマツヒメ
ヒコイマス
タケトヨハヅラワケ

 ヒコユムスミの子孫(書紀には記載無し)
  オオツツキタリネ、サヌキタリネ
 ヒコイマスの子孫(〃)
  オオマタ、オマタ、シブミノスクネ、サオヒコ、オザホ、サオヒメ
  ムロビコ、タニハヒコタタスミチノウシ、ミズホマワカ、カムオオネ
  ミズホノイホヨリヒメ、ミイツヒメ、ヤマシロノオオツツキマワカ、
  ヒコオス、イリネ
 
タケトヨハヅラワケの子孫
  ミチモリ、オシヌミベノミヤッコ、ミナベノミヤッコ、イナバオシヌミベ
  タニハノタケノワケ、ヨサミノアビコ
  
オオマタの子
 アケタツ
  ホムチベノキミ、サナノミヤ  ッコ
 ウナカミ
  ヒメダノキミ
 オマタ
  タギマノマガリノキミ
 シブミノスクネ
  ササノキミ
 サオヒコ
  クサカベノムラジ、カイノク  ニノミヤッコ
 オザホ
  カヅヌノワケ、チカツオウミ  カヌノワケ
 ムロビコ
  ワカサノミミワケ
タニハヒコタタスミチノウシ
 ヒバスヒメ
 マトノヒメ
 オトヒメ

 ミカドワケ
  ミカワノホノワケ
 ミズホマワカ
  チカツオウミノヤスノアタイ
 カムオオネ
  ミヌノクニノミヤッコ、モトス  ノクニノミヤッコ、ナガハタ  ベノムラジ
ヤマシロオオツツキマワカ
 カニメイカヅチ
  (神功皇后の祖父)
 
 


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