記紀解釈の大前提

 古事記・日本書紀が古代史前史解明の基礎文献であることは言うをまたない。かって古事記は偽書ではないかと言われたこともあったが、編纂者の太安麻呂の墓が見つかり、そこに納められていた墓誌銘によって安麻呂の実在が確認されて偽書の嫌疑は晴れた。

 その一方で書紀は偽書の疑いはかけられなかったが、年紀の大幅な誇張でもってまずその真実性が疑われ、皇国史観の完全な否定と戦後の考古学ブームの中で相手にされなくなっていった。

 だが、私見で「魏志倭人伝上の投馬国は南九州にあり、そこの国主ミミ・ミミナリは記紀に描かれた神武天皇の皇子らの名と共通している。したがって南九州=日向からのいわゆる神武東征は史実である」という命題からすれば、記紀の記述は相当な信憑性を持つ――という結論が導かれる。

 記紀の各天皇年代記をつぶさに検討していけば、これまで謎とされた諸問題も解明されると考えるのだが、しかし、記紀には特有の史観がかぶせられてあるので、そのことを常に念頭において解釈していかないと行き詰ることになる。

 その史観とは、すでに定説となった天皇の超長寿による年代の引き伸ばし(上古への引き上げ)はもう考える必要はないにしても、まだ二つある。
 
 ひとつは「日本王統万世単立史観」であり、もうひとつは「日本王統列島内自生史観」である。

 後者については、すでに東洋史学者・江上波夫による「祟神天皇渡来騎馬民族説」が戦後間もなく表明されて以来、「日本の歴代天皇の中には、渡来人もいたのではないか」という論調が今なお続いており、皇国史観を否定したはずの、特に畿内(大和)中心主義的歴史学者あるいは歴史愛好家の嫌悪感を誘っている。

 今はすこし下火になったが、十年くらい前はよく「朝鮮半島出自の神武天皇・聖徳太子・天武天皇」とか、「徐福こそが神武天皇」などという本が出されたりした。まだまだ話題性としては十分取り上げられてしかるべき歴史の謎ではある。

 かく言う筆者も「祟神天皇は大陸由来、半島経由の殷王朝の末裔に違いない」と結論付けているので、渡来人説とは「同じ穴の狢」である。証拠としては魏志東夷伝とくに「わい(さんずいに歳)伝」「扶余伝」「高句麗伝」「韓伝」そして「倭人伝」による総合的な判断でしかないが、王権の移動が比較的簡単に行われていた時代相を考えると、一箇所に千年も二千年もとどまっていることの方がむしろあり得ないと思う。

 列島内でも王朝の所在地はめまぐるしく変わっている。確かに平安朝は形式的には794年から1869年まで実に1085年続いたが、飛鳥・白鳳時代は天皇の代替わりごとに替わったと言っていいくらいだし、平城京以降も恭仁京、長岡京と動いている。平安京にしても王権とは名ばかりで、将軍府こそが実質的な首都であった時代のほうが長い。

 事情は半島でも、大陸でもそう変わりはない。王府の所在地はよく替わっている。

 こう書くと「半島や大陸は王朝の主そのものが変わっているが、日本の王朝はずっと一系だ。桓武天皇の母は確かに渡来系の高野新笠(たかののにいがさ)だが、男系だけは連綿と一系だ」と言われそうだ。これは最近の天皇お世継ぎ問題で、天皇はどうしても血筋の男子でなければならぬ――と論ずる人たちの骨子である。

 だが、肝心の記紀の記述では継体天皇が天皇家の血筋とはいっても、応神天皇の5世孫などとほとんど他人と言っていいような人だし、その4世代前の清寧天皇にも子が無かったりしているので、男子では連綿として一系であるというのも根拠が薄弱だ。

 少し脱線したが、とにかく列島内のみで日本王統が自生しそのまま連綿と続いたと言うことはできないと思うのであるが、それについては各天皇事跡を見ていくことで証明できると考えている。

  
   < 日本王統万世単立史観のベールを剥ぐ >

 それでは、まずはじめに挙げた万世単立史観について考えてみたい。

 万世一系は普遍的に使われ、上で触れたように、そもそも元になっている記紀の記述からも怪しい史観であることが言えるが、では「万世単立」とはどういうことだろうか。
 単立とは「ある王権が排他的に他の権力を圧倒して存在している状態」であり、平たく言えば「他の権力を臣従していること」である。

 記紀は神武天皇から始まった「大和王権」は、常に他の権力を臣従させたままずっと存在していた――と説く。これが「日本王統万世単立史観」である。つまりそこには「複立(並立)」も「鼎立」も無かったというわけである。
 
 これが誤りであることをここで、記紀の記述から証明したい。

 その前に、現実にあった王朝の並立を見ておこう。それはいわずと知れた中世の「南北朝時代」である。この単立ではない「並立」王朝の状態を否定する歴史家はいないだろう。

 大覚寺統の南朝と、持明院統の北朝が同時にそれぞれ皇位継承した状態が57年間続いたのであった。
 その間、南朝は後醍醐――後村上――長慶――後亀山と4天皇が皇位につき、北朝は光厳――光明――祟光――後光厳――後円融――後小松と6天皇が皇位に就いていた。西暦1392年に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を渡してようやく両朝の並立状態は解消されたのだが、もしこれを単立に直したらどうなるだろうか。

 たとえば1337年に初代鎌倉府長官に任命された「足利義詮」という人物がいる。この人物は1349年に足利基氏と交代するのだが、この人事は両王朝に同時に記録されており、並立を偽らなければ就任と退任はその通り書かれ就任期間は13年で何の問題もないのだが、単純に両王朝を単立化すると足利義詮の就任と退任は当然二度書かれ、並立を単立にした造作が即座にばれてしまうことになる。

 そこで、就任は当たり前に1337年と書くにしても、退任は1349年に並立期間の57年を足した年、つまり1405年と記載しなければならなくなるだろう。そうすると就任期間は70年という大きなものになる。中世のことだからこんな文字通り御伽噺のような長期の期間にせず、その間に造作した人物を巧妙にはめ込んでカモフラージュするだろうが、そのためには文書を偽造し、また逆に正式な記録文書類を破棄したりしなければならなくなるはずだ。

( 以上のことはもちろん「もしも」の話だが、それにしても就任期間を70年に引き延ばされた足利義詮の寿命は少なくとも90歳以上という長寿になる。実はこれが武内宿禰の超長寿の原因でもあるのだが、そのことは後の証明で明らかしたい。)

  
  < 応神王朝と仁徳王朝に見る並立 >

 さて、日本書紀の応神紀と仁徳紀とをつき合わせて読んで行くと、大きく三つの不審点が浮かび上がる。そのことから仔細に検討してみると、両王朝には重なる記事が多く、並立していた状況を考えてみた方が筋が通るように思われる。

 大きな三つの不審点とは

    @ 仁徳天皇の誕生記事をめぐるもの

    A 盾人宿禰への賜姓記事

    B 八田皇女の入内をめぐる一連の記事

 の三つで、これらをひとつひとつ検討し、両王朝並立の実態をあぶり出していきたい。

   @ 仁徳天皇の誕生記事をめぐって

 仁徳紀元年には、仁徳天皇が難波に高津宮を造ったという記事と共に、その誕生秘話を載せている下りがある。

 それによると、仁徳天皇誕生の時に「木菟(ヅク=ミミヅク)」が産屋に飛び込んだ、とあり、そのことを父である応神天皇が大臣の武内宿禰に語ったところ宿禰は「(大意)それは吉祥です。実は私の子も同じ日に生まれましたが、産屋に鷦鷯(サザキ=ミソサザイ)が入ってきたのです。これはまた不思議なことでございますな」と答えたので、応神天皇はその二つの鳥の名を交換してそれぞれの子に付けた――という。

 仁徳天皇の名が大鷦鷯で、武内宿禰の子のひとりが木菟宿禰であることの由来がこれで示されているわけだが、実はこの同じ日の生まれ、つまり仁徳天皇と同い年のはずの木菟宿禰は応神三年の時点ですでに武将として登場しているのだ。その記事を抜き出すと次の通りである。

  この歳(応神3年)、百済の辰斯王立ちて貴国(倭国のこと)の天皇に礼無し。故に紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わして、その礼無き状をころばしむ(叱責する)。

 
朝鮮の史書『三国史記』によれば、百済の辰斯王の即位は西暦385年で、王はその在任中、倭国に対して礼を失することが多かったので、四人の武将を派遣して詰問した、ということだが、結果として辰斯王は廃されて次王の阿花王が擁立された(392年)という。

 もう少し「礼無し」の中身を考えると、百済は応神天皇の即位に対して祝賀の遣使がなかったということだろう。それを怒った倭国側が武人を派遣したのだ。その結果が半島側の金石文「高句麗広開土王碑」に「辛卯の年(391年)、倭人が渡海し、新羅、加羅、百済を臣民となす」とあるのがそれで、紀角宿禰をはじめとする四武将の派遣の年は応神2年であり、その応神2年は西暦391年に当たることが分かる。

 となると、派遣武将の一人に挙げられている木菟宿禰は、少なくとも応神2(391)年の時点では成人していたと見るのが妥当で、仮にもっとも若い20歳とすると生年は371年になる。仁徳天皇はこの木菟宿禰と同じ日に生まれているのだから、その生年は371年かそれ以前でなくてはならないことになる。

 ところで、応神天皇の生まれは、母の神功皇后が『三国史記』の新羅本紀に記載の「倭人、大挙して襲来す」の年、すなわち西暦364年に比定できるのだが、しかしそうなれば、364年生まれの応神が371年かそれ以前に仁徳を生んだことになる。それがあり得ないことは言うまでもないだろう。

 以上のことから、応神天皇と仁徳天皇との関係は父子の繋がりではない、と結論せざるを得ない。


   A 盾人宿禰への賜姓記事をめぐって

 仁徳天皇12年7月に「高麗(高句麗)国、鉄の盾、鉄の的を貢げり」とあり、翌8月にその鉄盾と鉄的とを群臣に射させたところ、誰も射抜く者がいなかった中でただひとり盾人宿禰が強弓で射通したというので大層ほめられ、「的戸田(いくはとだ)宿禰」という姓を賜った――という記事がある。

 ところが、この仁徳12年に初めて「的戸田宿禰」と改称したはずの同じ人名の者がすでに応神16年に登場しているのだ。その記事を次に掲げてみよう。

  平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わす。よりて精兵を授け、詔していわく「襲津彦、久しく還り来ず。必ずや新羅人の拒ぐによりて滞れるならん。汝ら速やかに往きて新羅を撃ち、その道路を披くべし」と。

 
たまたま同姓同名の武将「的戸田宿禰」が応神朝にも仁徳朝にもいた、としたら書紀編纂段階で読者の誤認を防ぐために分注を入れただろうし、また同一人物であれば応神16年の時点ではまだ「盾人宿禰」でなくてはならず、わざわざ仁徳紀に賜姓記事を入れた以上、うっかり前代の応神時代にも「的戸田宿禰」と書いてしまったとの言い訳は通用しないだろう。

 これも応神王朝と仁徳王朝が並立していたと考えれば、うっかりミスでもなんでもなくなるのである。


   B 八田皇女の入内記事から見えるもの

 八田皇女は菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の実の妹で、応神天皇と日触使主(ヒフレノオミ)の娘・宮主宅媛(ミヤヌシヤカヒメ)との間の子である。記紀の記述に従えば、仁徳天皇とは異母兄妹の間柄になる。

 仁徳即位前紀によると、応神40年に後継者として指名されたワキイラツコは、オオサザキ皇子(仁徳天皇)に皇位を譲ろうとして自分は即位せず、それから三年を経て宇治宮において自害して果てる。
その今はの際に、枕頭に駆けつけたオオサザキ皇子に対して次の治世を委ね、さらに妹の八田皇女を后にするよう頼んだという。

 ところが仁徳天皇が実際に八田皇女を後宮にいれようと、皇后の磐之媛に「八田皇女を貰いたいのだがどう思う?」と話を切り出したのは、実に22年後のことだった(仁徳22年正月条)のだ。これはどう考えてもありえない話で、いくらワキイラツコの諒闇中だから遠慮をしていたのだ、と言っても限度というものがある。

 仁徳紀から八田皇女の入内に関する記事を抜き出してみると

    即位前紀――ウジノワキイラツコから皇女の入内を薦められる
      22年――皇后へ皇女の入内を打診する
      30年――皇女の入内(磐之媛の留守中)
      31年――去来穂別(イザホワケ)皇子の立太子
      35年――磐之媛の死
      37年――磐之媛を那羅山陵に埋葬
      38年――八田皇女が正妃となる


 というようになる。年紀がえらく飛んでいるのだが、これらは連続した歳月、つまり一連の出来事と捉えるべきだろう。そう考えて不都合なことは何もない。このあたりに年紀延ばしの手法が垣間見えるのだ。

 特に最初の即位前紀から22年の打診を経て、30年の入内までの引き延ばしは度を越えている。これは誰が見ても極度の造作だということが分かる態のものだ。

 ここまで造作しきったわけは、やはりよく言われるように仁徳天皇聖王化のためだろう。聖王たる者はくれるといったものを即座に貰ってはいけないということを年紀の引き延ばしでカモフラージュしたのだろう。私見では単にそれにとどまらず、実はウジノワキイラツコから仁徳天皇への皇位の承継は、禅譲といったものではなく、力ずくのものであった。

 「播磨国風土記」によれば、ワキイラツコはすでに宇治天皇であったのだ(揖保郡・上はこ=草かんむりに呂岡条)。宇治という名の通り山代の宇治地方がワキイラツコの本拠地で、和邇氏が中心勢力として支えていたれっきとした王権だったはずである。

 これに対して河内を掌握し、葛城氏をも掌中に収めた仁徳王権が、結局は戦いで宇治王権を従えた。その証拠が「隼別皇子の叛乱」に他ならない。皇子の恋の相手は八田皇女の妹・雌鳥皇女だったのである。一見、恋の鞘当てのように見えるこの出来事は、当時の葛城氏と和邇氏間の抗争を象徴したものと見てよい。
 

 以上、応神紀と仁徳紀とを通覧した時に感じざるを得ない大きな三つの不審点を検討してみた。
 @とAは、書紀編纂上の誤記あるいはうっかりミスとするには余りにもはなはだしく、誰が読んでも不審なのは明白で、そのような表記上の明らかな齟齬をあえて書かざるを得なかった、もしくは修正することができなかった背景には何かがあると見なさざるを得ない。


 それこそが「日本王統万世単立史観」であり、記紀編纂当時の7世紀後半から8世紀初頭まで大和王権が置かれていた列島内的条件と対新羅・唐諸政策という二つの大きな制約の下で、画策された編纂の立脚点が「万世単立史観」だったと言える。平たく言うなら「日本は昔から列島の隅々まで単立一系の天皇が統治していた。これは新羅とも唐とも決定的に違う点である」ということを誇示したかったのだろう。

  
   < 王統の列島内自生史観は正しいか? >

 この史観ともうひとつの「日本王統列島内自生史観」が記紀の編集方針の大黒柱だ。

 ところで、魏志韓伝によると三韓つまり半島南部の馬韓・弁韓・辰韓には大量の倭人、なかんずく身に刺青を施す「文身した倭人」がいた。これはもちろん海人系倭人で、彼らは漁労ではなく主に鉄資源の交易に従事していた。

 中でも弁韓と辰韓は倭人の国といってよく(ただし倭国ではない。大量の倭人がいても倭国と言われないのは、大量の華人がいるシンガポールなどが華国と言われないのと同じだろう)、ここで首領となった倭人が九州を始め列島にやって来て王権を樹立したとしてもおかしくはない。

 東洋史学者・江上波夫が戦後間もなく「祟神天皇渡来騎馬民族説」を唱えたことは先に触れたが、私は「騎馬民族」を除けば、おおむね正しい見解だと考えている。半島の辰韓がその渡来直前の故地であったろう。まだ他にも半島南部が故地ではなかろうかと思われる天皇もいるが、それらの論証は各天皇紀の解釈の際に述べるつもりである。

 とにかくここでは少なくとも祟神天皇は渡来系でありながら、大和に王権を樹立したことは間違いないとだけは言っておきたい。



 これで記紀にかぶせられた二つの大きな史観「王統の万世単立」および「王統の列島内自生」が解釈を大きく曲げてきたあるいは不可解にしてきた元凶であることが分かってきたと思う。この二つの「偏向」を極力排除しながら記紀を見ていけば、これまで不明とされた多くの問題が明らかになり、記紀に寄せられた言われなき反感蔑視やその逆も正されるように思われる。問題の多い書物だが、日本人に与えられた最古の通史としての価値は十分あると確信している。
  
   
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