高山本城
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高山本城は平安時代後半から戦国時代の天正年間まで大隅
半島随一の豪族として18代540年を統治していた肝付氏の中
心的居城であり、戦国期の築城の姿をよく留めているとして昭
和20年2月22日に国指定の史跡となった。

肝付氏は大宰府の大監であった伴兼行(とものかねゆき)が
まず薩摩国掾(じょう)として安和元(968)年鹿児島の神食邑
に着任したのが始まりで、その後3代目の兼貞の時に大隅国
肝付郡の弁済使に任命され、子の兼俊が高山に居住した。
 これが高山・肝付氏の始祖で姓は地名を採ったものである。


「きもつき」のいわれは明確ではない。文献上、最も古いのは『続日本紀』文武天皇四年六月三日の条に登場する「肝衝難波(きもつきのなにわ)」という人物の名であろう。大和王府が派遣した南島への国まぎ使を脅すという仕方で登場するのだが、薩摩半島側からも薩摩のヒメ・クメ・ハズという女酋や郡長クラスのアガタとかテジミなどという人物もやって来て共同で王府使に抵抗している。西暦700年のことである。

肝付氏第八代兼重は南北朝時代の雄将で、志布志城に拠った楡井頼仲とともに南朝方の忠臣として戦前は大変高く評価された。その是非は措くとして、以後室町時代から戦国時代は大隅半島から日向南部にかけては文字通りの群雄割拠の趨勢が長く続き、結局は薩摩半島を統一し北薩地方を攻略した島津氏がその余勢を駆って、大隅半島のもうひとつの豪族・祢寝(ねじめ)氏とともについに肝付氏をも落とす。天正二(1574)年のことであった。
 かくして同八〈1580〉年、肝付氏は薩摩半島西部・阿多の地に移封され、ここに肝付・高山を本拠とした名族肝付氏は滅びたのである。

 次に出るのが同じ『続日本紀』の元明天皇和銅六(713)年四月の記事で、日向国の「肝属・曽於・大隅・姶羅」の四郡を割いて大隅国を建てる、とある。姶羅が今日では「吾平」と表記されている以外、これらの地名は現在と変わりなく使い続けられている(筆者は大隅国風土記の記載などからこれを「神着き」と捉え、郷名の「串良」と同根の意義を持つと考えている)。いずれにしろ古地名中の古地名なのである。

城内に大伴氏の守護神・大来目命を祭る

南から見た本城の丘

西側は高山川の天然の堀となっている