欽明紀を読む

※欽明天皇紀は日本書紀の第19巻目をすべて当てているほど、書紀においては大部の記録だが、古事記ではわずかに岩波本で1ページを少し超えるくらいでしかない。
 実に50対1くらいの差があるが、その大きな理由は古事記のほうの編纂当時の史観「半島由来の事は書かない」ためである。逆に言うと、日本書紀のこの欽明紀ほど半島(任那・百済・新羅・高句麗…)のかかわりを克明に記した天皇紀は他に例を見ない。



  父母      父・・・継体天皇(オオド天皇)
           母・・・手白香皇后(仁賢天皇の皇女)
  
  
和風諡号   天国排開広庭(あめおしはらきひろにわ)

   
       磯城嶋金刺宮(大和国磯城郡磯城嶋)

  
皇后      イワヒメ皇女(宣化天皇の皇女)

 
 皇子・皇女   箭田珠勝大兄(やだのたまかつおおえ)皇子・譯語田渟中倉太珠敷(おさだのぬなく            らふとたましき)皇子・カサヌヒ皇女

  
墳墓        檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)
              古事記:記載なし


  <妃・皇子・皇女>(一覧表)   ※妃の所生ではキタシヒメの産んだ大兄皇子が用明天皇、トヨミケカシ                          キヤヒメが推古天皇として天皇位に就いている。

皇后・妃名 出 自 皇子・皇女名
ワカアヤヒメ 皇后の妹  石上皇子
ヒカゲ皇女 皇后の妹  倉皇子
キタシヒメ 蘇我稲目の娘  大兄皇子・イワクマ皇女・アトリ皇子・トヨミケカシキヤヒメ・マリコ皇子・オオヤケ皇女・石上部皇子・山背皇子・オオトモ皇女・桜井皇子・カタノ皇女・橘本稚皇子・トネリ皇女
オアネギミ キタシヒメの妹 茨城皇子・葛城皇子・ハシヒト穴穂部皇女・ハシヒト穴穂部皇子・泊瀬部皇子
ヌカコ
春日日振臣の娘  春日山田皇女・橘麻呂皇子

     

    < 年代順の事績 >
事       績 備 考
即位前紀 若い時、夢に「秦大津父(はたのおおつち)」と言う人物が現れ、必ず天皇になるだろうと予言。その人物は山背国の深草にいた。呼んで話を聞くと、商売の道すがら山で2匹の狼が闘うのに出会った。「猟師に見つかったら殺される」と諭して放してやった――という。
 この秦氏を近侍させ、ついに大蔵省の役人に取り立てた。
 宣化天皇は4年目に崩御し、跡を継ぐことになった。御年は若干であった。
 大連は大伴金村と物部尾輿。大臣は蘇我稲目
・欽明天皇と秦氏との深い繋がりを垣間見せるエピソード。
・50ページという大部なのに、即位時の年齢が不詳とは解せない。
 元年
 (540年)
・正月、石姫(イワヒメ)を立てて皇后とする。
・2月、百済人コチブが投化する。添上郡山村の己知部の先祖である。
・3月、蝦夷、隼人が衆を率いて帰順した。
・7月、14日に都を磯城郡磯城嶋に遷す。「磯城嶋金刺宮」という。
・8月、秦人の戸数は7053戸になっていた。大蔵掾となっていた秦人を秦伴造と呼称した。
・9月、難波の祝津宮において天皇が「新羅を討つにはどれくらいの軍勢が必要か」と問うと、物部尾輿は「大伴金村が512年に百済に任那の四県を割譲して以来、新羅は非常に恨みに思っているので、容易には討てません」と返答。大伴金村は自ら謹慎して自宅にいたが、天皇は罪に問うことはなかった。この年は「太歳・庚申(かのえさる)=西暦540年」であった。
大蔵掾とは「オオクラジョウ」と読み、律令制下では国司の2級したの位であるが、まだ制定前なので「大蔵省の役人」とアバウトに考えてよい。即位前紀を受けている。
2年
(541年)
・春3月、五妃を納れた。(妃名など省略…上記の妃・皇子・皇女表を参照)
・4月、安羅のイトンケイ・タイフソン・クストリ、加羅のコテンケイ、卒麻の旱岐、散半渓の旱岐の児、多羅のイタ、斯二岐の旱岐の児、子他の旱岐らと、任那日本府の吉備臣(名不詳)とが百済に行き天皇の詔を提出する。
・秋7月、百済が「安羅の日本府と新羅が謀を行っている」として使者を安羅に遣わした。分けても安羅の日本府にいた河内直を責め罵った。百済の聖明王は任那日本府に対しても「新羅に欺かれてはならない」と、日本からの執政官たちに直言した。
・秋7月、百済が紀臣奈率ミマサ・中部奈率コレンを遣わし、下韓任那の政治について奏上した。
日本府…任那と安羅には日本府があるといているが「日本」の使用は無理で「倭府」とすべきだろう。
4年
(543年)
・4月、紀臣奈率ミマサらが百済に帰る。
・9月、百済聖明王が扶南の財物と奴を二人献上してきた。
・11月、天皇は百済に証書を送り、任那の早い復興を呼びかける。
・12月、百済王、佐平ら諸臣に任那の復興を諮る。佐平らは「任那の執事・国々の旱岐らを召集して言い聞かせ、安羅の日本府にいて新羅と組んでいる河内直・イナシ・マツらを元の所に戻したらよいでしょう」と述べた。
佐平…百済の王族が就任する最高執政官。
5年
(544年)
・正月、百済は任那と日本府のそれぞれの執事を召集しようとするが、二人ともうまく言い逃れて来ようとしなかった。
・2月、百済、使者を任那に送り「任那日本府の執事および諸国の旱岐は日本に行き、天皇の詔を直接聞くべきである」と言わせる。また河内直に「汝の悪行によって任那は損なわれた。汝も天皇の下に行き、元の所に戻れ」と言った。
・3月、百済が三人の使者を送ってきた。これに対して天皇は「的臣吉備臣河内直らが新羅に通うのは朕の意に反する。だが、昔、新羅に攻められて田を耕せない時期があった。百済に救援を求めるにしても道が遠いので、一応新羅に従うことによって、急場はしのいだ。このことは先代から聞いて知っている。しかし任那が復興しさえすれば、新羅にへつらっているイナシやマツもおのずから帰ってくるであろう」と
・11月、百済王のもとに集まった日本府の吉備臣と任那の諸国旱岐らを前にして聖明王は三つの対新羅策を表明した。
・12月、粛慎人が佐渡の海岸に漂着した。
6年
(545年)
・3月、膳臣ハテビを百済に遣わす。ハテビ、百済で虎を退治する。
・秋7月、百済、丈六の仏像を造る。
7年
(546年)
・高句麗に内乱が起こり、細群2千人余が死んだという。 細群…麁群とともに種族名。
8年
 (547年)
・4月、百済が使者を立て救援軍を乞う。
9年
(548年)
・10月、百済の再三の要請に応え、370人を派遣し、城をトクジシ(得爾辛)に築く手助けをさせる。
10年
(549年)
・6月、百済に送った将兵はそのまま留めて置くことにする。
11年
(550年)
・2月、百済から高句麗との戦いで捕虜にした者を送ってくる。
12年
(551年)
・3月、百済の聖明王、みずから兵を率い、新羅・任那と連合して高句麗を討ち、漢城を獲る。また北上して平壌まで攻略する。
13年
(552年)
・4月、箭田珠勝大兄皇子が死ぬ。
・5月、高句麗と新羅が連合して百済・任那を攻略しようとしたので、百済が援軍を要請してくる。
・10月、聖明王が釈迦の金銅仏像・経典などを献上してくる。蘇我稲目大臣が仏像を礼拝し、向原の家を寺にして安置する。物部大連尾輿・中臣連鎌子は折りしも発生した疫病を仏像の為と称し、奪って難波堀江に捨てさせ、さらに寺を焼き討ちにする。
中臣連鎌子…皇極天皇の時代に中大兄皇子とともに蘇我氏を滅亡させた「中臣鎌子連」(中臣鎌足)とは別人。
14年
(553年)
・8月、百済から任那の執事「的臣(いくはのおみ)」が死亡したので、代わりを派遣するよう要請がある。
15年
(554年)
・正月、渟中倉太珠敷皇子を皇太子とする。
・5月、筑紫の内臣、水軍を率いて百済にいたる。
・12月、百済の聖明王、王子の余昌とともに新羅に入って戦うが、聖明王は捕らえられて斬首される。余昌は筑紫の国造「鞍橋君」の強弓に助けられ、かろうじて生還した。
鞍橋君…くらはしきみ。王子・余昌が褒めて名付けた名。
16年
(555年)
・2月、百済王子・惠(ケイ=余昌の弟)が渡来し、聖明王の戦死を告げる。蘇我稲目は惠に次のように述べた。
 「昔、雄略天皇の時代に、百済は高句麗に攻められ危うく滅びるところだったが、天皇は神祇を重んじ<国を建てた神>を勧請して救援したので、ようやく社稷が安定し、平穏になった。その神とは天地が開けたときに天から降り、国家を造り立てなさった神で、聞く所では百済はその神を祭るのを疎んじているとか。悔い改めて神を宮に祭りなさい。そうすれば国は栄えるのです…」
・7月、蘇我稲目、吉備の五郡に白猪屯倉を置く。
17年
(556年)
・正月、百済王子・惠を百済に送るため、阿部臣・佐伯連・播磨直らを派遣し、筑紫の水軍を徴収した。中でも筑紫の火君は勇士千人を率い、百済まで惠を護送した。
・7月、蘇我稲目らを備前の児嶋郡に派遣し、屯倉を置かせた。
・10月、蘇我稲目らを遣わし、大和の高市郡に韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉を、また紀の国に海部屯倉を置かせた。
火君…肥君のこと。本源は肥後・肥前をカバーする大族。
18年
(557年)
・3月、百済の王子・余(餘)昌が聖明王の後継となった。威徳王である。 威徳王は第27代。『百済本紀』では554年に継ぐとしてある。
21年
(560年)
・9月、新羅がミシコチナマを遣わして朝貢して来た。
22年
(561年)
・新羅がクレシクホッカンを遣わして朝貢して来たが、待遇は前年のミシコチマナより劣っていたので、クレシクは恨みに思った。また、ヌテタサを遣わして来たが、百済の使者よりも劣る序列となった。帰る際に穴門に館を造っていたのでヌテタサが問うと、「礼無き新羅の使者の宿泊する館だ」と言わたので、それを本国に帰って告げると、本国では新たに城塞を構えて日本に備えた。
23年
(562年)
・正月、新羅が任那を滅ぼした。
・7月、大将軍・紀男麻呂、副将・河邊臣瓊缶を遣わし、任那の状況を検分させた。河邊臣瓊缶は新羅軍が降伏の白旗を挙げたのに、自分も白旗を掲げて新羅陣中に入って却って囚われる。
・8月、大将軍・大伴狭手彦に数万の兵を率いらせ、高句麗を攻める。
26年
(565年)
・高句麗人ツムリヤへら、筑紫に亡命してきたので、山背国に置く。
28年
(567年
・諸国で大水が発生して食糧不足になり、人が人を食するほどにもなった。
30年
(569年)
・詔して、船史・王辰爾の甥・膽津に白猪田部の丁(よぼろ)の籍で脱漏があるかないかを調べさせた。果たして多くの脱漏があり、すべてを籍に定めたので、膽津に白猪史の姓を与え、田令に任命した。 船史は船に関する専門職。白猪史は白猪屯倉の事務管理職。
31年
(570年)
・3月、大臣・蘇我稲目が死亡する。
・7月、越の海岸に漂着した高句麗の使者を、新たに造った山城の相楽館に入れてねぎらう。
32年
(571年)
・3月、坂田耳子郎君を新羅に遣わし、任那滅亡の理由を尋問させた。
・4月、天皇の病は重く、皇太子を呼んで遺言である「任那の再興」を直接話した。この月、天皇は崩御した。御年は若干であった。
・8月、新羅から弔問使がやって来た。
・9月、亡骸を檜隈坂合陵に葬った。

(注)
御年は若干・・・即位前紀に即位時の年齢は「若干」とあり、結局のところ不明、また最後の32年紀に崩御の年齢も「若干」と記す。事績のある天皇紀では最も長い記録を持つ、というのに、肝心の天皇自身の即位年齢も死亡年齢も分からないというのは一体どうしたことか?
 欽明天皇の存在自体が疑わしいということになりかねない。現に古事記では以上の不明に加えて、死亡時の干支年もなく、御陵の記載もないのである。
 少なくとも書紀の「欽明天皇は継体天皇の子」という記述は疑ってかかる必要があるだろう。


蘇我稲目・・・最高執政官である大臣。大連の大伴氏・物部氏は、天皇が大和に東征した時点での功臣であり、天皇家に並ぶ古い家柄できあるが、蘇我氏は下って第8代の孝元天皇に起源を持つ。蘇我氏の直接の先祖は武内好宿禰である(子の蘇我石川宿禰が始祖)。
 この稲目の娘の産んだ子が用明天皇や推古天皇になっているが、臣下の娘の子としては異例である。

任那四県の割譲・・・任那西部に属する上多利(オコシタリ)・下多利(アルシタリ)・娑陀(サダ)・牟婁(ムロ)の四県を百済が乞うたのを、大伴金村が賛成し、結局その通りになった。翌年は以上の四県より内陸にある己紋(コモン)・帯沙(タイサ)まで百済に譲っている。
 任那は加羅、百済、新羅とともにかの「高句麗広開土王碑」(4世紀末建立)に記載されている古い実在名称で
、魏志倭人伝の時代には「弁韓」と呼ばれていた地域とほぼ重なる。安羅・加羅・卒麻・散半渓・多羅・斯二岐・子他(23年の正月条の割注にはこれらに加えて古嵯国・乞サン(にすいに食)国・稔禮国の3国がある)の諸国にはそれぞれ首長が居る。安羅は今のカンアン、加羅は今の金海、卒麻は密陽、などと比定されているが、いずれも確証は得られていない。

紀臣奈率ミマサ・・・百済の倭系官僚。このほか巨勢氏や物部氏などの出自で百済の高級官僚になっている者がいる。奈率は百済の官僚では上位から6番目である。
 因みに百済の官制は16等制で、最高位は佐平(王族)で、達率、恩率、徳率、扞率、奈率・・・と続く。敏達天皇の時に百済に居た火の国葦北の国造アリシトの子・日羅は佐平に次ぐ達率の地位にいた。

河内直・イナシ・マツ・・・河内直、イナシ(移那斯)、マツ(麻都)は当時、安羅日本(倭人)府を支配していたが、新羅に通じていた。新羅は彼らを通じて任那全体を日本本土の勢力から切り離し、新羅への属国化を図っていた。

中臣連鎌子皇極天皇の4(645)年6月に、蘇我入鹿を誅殺した「乙巳の変」の立役者のひとりである神祇伯・中臣鎌子連(中臣鎌足)とは同姓同名だが、別人である。後者は後の藤原鎌足で、父は「御食子(みけこ)」、祖父は「可多能古(かたのこ)」までは判明しているが、それ以前の系譜にこの中臣連鎌子がいたかどうかは不明。二人には90年の開きがあるから、鎌足から4世代前くらいの人物という事になる。
 中臣連鎌子は「中臣連」姓であるから物部氏と同様、初代神武天皇近臣の古い家系であったことは間違いないだろう。

白猪屯倉・・・現在の岡山県大庭郡大庭郷あたり、旭川の中流域にあった。和銅6年に吉備国から美作国が分割されると美作国大庭郡となった場所。旭川の水運とともに栄えた。
 ここを蘇我稲目はみずから訪れて屯倉を定めている。律令制の元では農民に口分田を支給して自分で耕すのが慣例だが、このような律令制以前に定められた屯倉はかえって蘇我氏など管理者の私領のようになっていった。
 それを矯正しようとしたのが、30年の記事で、新たに検分者を派遣して農民(田部)の把握を行ったのである。

任那の滅亡・・・上記の任那四県の割譲に記したように、任那は旧弁韓諸国のことで12国あったが、この時代には10国となっていた。中でも中心の国は加羅国で、今日の金海市周辺がその領域であったようである。韓国では任那とは言わず加羅を含めて「伽耶(加耶)」と呼んでいる。
 任那(伽耶)滅亡の状況を朝鮮史料『三国史記』の「新羅本紀」第四・第24代真興王・23年条では次のように記す。

 <〔真興王23年=562年〕9月、加耶が反乱を起こした。王は異斯夫(イシフ)に命じてこれを討伐させ、斯多含(シタガン)を副将とした。シタガンは五千騎を率いて先鋒隊となり、〔加耶城の〕栴檀門に押し入り、白旗を立てた。城中では恐れおののいて為すすべを知らなかった。イシフが軍隊を率いてやってくると〔加耶軍は〕一度にすべて降服してきた。・・・・・>  
                           (出典:『三国史記』東洋文庫372・平凡社:108ページ)

   
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