養老四(720)年一月、大隅隼人
が、時の大隅国司・陽侯史麻呂を
殺害した。原因の主なものは、戸
籍の作成による口分田の班給とそ
れに伴う租税の強制徴収であった
が、それよりも大きなものが仏教へ
の改宗ではなかったかと思われる。

大和王府の鎮圧軍の総大将は大伴
旅人(家持の父)で、途中で藤原不
比等の死というハプニングもあり、制
圧までに一年五ヶ月を要した大反乱
であった。


終戦の時、隼人側の死者および捕虜の数は千四百余人と正史には記されており、これは
隼人にとって極めて大きな損失であり、以後、大和王府へ反旗を翻すことは無かった。但
し、このことに免じてか、口分田による租税徴収は80年ほどの猶予が与えられることになっ
た。

また、隼人の叛乱にあたって特に宇佐神宮が鎮定祈祷の中心的役割を担ったため、終戦
後に隼人の怨霊を静める儀式を執行した。それが「放生会(ほうじょうえ)」の起源だという。

隼人塚がその頃に築かれたとの確証は無い。塚の上に立つ四体の兵士像と三基の五重塔
(石造)もそこまで古くはない。
いずれにしても敗れた隼人への鎮魂のモニュメントには違いない。

祭神  ヒルコノミコト

イザナギノミコトとイザナミノミコトが子を産むときに、女であるイザナミから声をかけて交わ
ったところ、足の立たない児・ヒルコが生まれた。児の数に入れないということで、葦舟に乗
せて流してしまった。古事記も書紀もその行方は書いていないが、ここ大隅の国分に漂着
したという。

元来、鹿児島は著名な流罪人あるいは落人の多い所で、奈良時代の和気清麻呂、平安末
期のかの安徳天皇、鹿ケ谷事件の俊寛上人、戦国大名の宇喜田秀家、さらに豊臣秀頼さえ
実は潜居していたという説もある。

ヒルコは人物か?との疑問も湧くが、私は古代以前にかなりの人物がやって来たことの神話
的表現ではないかと見ている。境内は広いがうっそうとした樹木、とくにクスの大木が目立つ。
古来ここは「奈気木の社(なげきのもり)」として高名があり、歌にも詠まれている。

隼人塚
マップ
姪子神社
hayatoduka
hirukojinjya

マップ