大隅国府跡

 大隅国が薩摩の国に続いて日向国(古日向)から分立され
たのは和銅6(713)年のことで、薩摩国に遅れること7年、
古事記完成の翌年のことであった。

 現地隼人の抵抗が強いため、両国の分立の前には薩摩
には肥後から、大隅には豊前から大量の移住者を入れ込ん
でいた。どちらの国でも即座に隼人側からの反抗があったが
その時は比較的軽く収まった。

 だが養老4(720)年の正月、大隅の隼人は当時の大隅国
国司・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ=先祖は隋の陽帝とい
う)を殺害し、ついに大規模な叛乱を起こした。
 大和王府軍の最高指揮官・持節大将軍は歌人として著名な
大伴家持の父・旅人であった。地の利のある勇猛な隼人に苦
戦を強いられ、ようやく「斬首・捕虜千四百人」という成果を挙
げて終結した時には、一年五か月という歳月が流れていた。

 大隅国府は現地名・府中町の一角、向花(むけ)小学校の
通りを隔てたあたりにあった。今、通りに面した住宅の立派な
土塀の隅に、その場所を示す花崗岩のプレートがはめ込まれ
ているが、車で見つけようとすると気付かないかもしれない。

 国府の所在は古文書・考古資料のいずれからも特定がで
きないようだが、府中という地名とすぐ近くに祭られている祓
戸神社の旧名が「守公神社」であることから、国守・国庁の存
在は十分に考えられよう。

「大隅国府跡」碑は目立たないプレートだ

祓戸神社(旧名・守公神社)

 

亀ノ甲遺跡

 以前は「亀ノ甲墓」と案内書などにあったので、てっきり
これは墓の形状を指すネーミングかとばかり思っていた
のだが、現地で聞いてみると「亀ノ甲」は土地の小字の
名だそうである。

 しかも発見の経緯が左の写真の向花(むけ)小学校の
改築工事中に現体育館のあたりで掘り出されたというの
だが、例によって重機の撹乱に遭い、墓だったのか墓な
らどんな形状だったのかも不明になってしまったという。

 しかし出土した物が物だけに、相当な権力者の遺物で
あろうことは間違いない。ただ「墓から」とは証明できない
ので、現在は「亀ノ甲遺跡」と当たり障りのない名になっ
ている。国府との関連か、隼人の遺物かの結論は出てい
ない。

向花小学校の校庭の一角が遺跡
  ただそれを示すものはない

出土品  5〜6世紀の南朝鮮系の〈三累環頭大刀〉と8世紀頃の土器類

マップ