大隅国分寺跡

 国分寺は国分尼寺とともに天平13(741)年に聖武天皇
の勅願によって諸国に建立された。仏教鎮護の平和文化
国家建設のため、と言われているが、その背景には世の中
の混乱と動乱があった。
 
 混乱は天平9年の天然痘の大流行による朝廷内の最有
力者で皇后光明子の兄弟でもある藤原氏一族の相次ぐ死
であり、動乱は天平12年に起こった藤原氏の同族・藤原広
嗣の乱である。

 当時、天皇は混迷の平城京を離れて、木津川上流の恭仁
京を都としていたが、ついに金光明経を中心とする仏教の国
教化を図ることになった。皇后の意向が強かったとも言われ
ている。
 
 大隅国では舞鶴城の並び一角に建てられたのは国分寺で
国分尼寺は実は隼人駅近くの隼人塚がそれだとする説があ
る。確かにどちらにも六層の石塔があるので、そう考えて誤
りはないだろう。ただし塔自体は康治元(1142)年のものだ。

大正10年に国の史跡となった

止上神社

祭神  ホホデミノミコト・トヨタマ姫
  相殿  ニニギノミコト・コノハナサクヤ姫
       ウガヤフキアエズ・タマヨリ姫

 止上神社は式内社ではなく、記録的には十二世
紀の初め頃の物しかないが、口伝ではかなり古い。
 幕末鹿児島の地歴書『三国名勝図会』によれば景
行天皇の時代、クマソ征伐を行った時のクマソの霊
を慰めるために祭った所、だそうだが、クマソではな
く隼人のことだろう。それなら養老5(721)年の頃と
特定できる。
 
 ただ同書にもあるように、宮の後に聳え立つ尾群山
の山頂に石祠があり、そちらが本宮であるらしいこと
からすると時代は遡り、隼人の時代の前つまりクマソ
と呼ばれる人々の時代から祭られていた可能性は高
い。境内には大隅神社という地主神を祭る摂社があり
祭神は隼人の祖と記紀神話に書かれている「ホスセリ
ノミコト」である。
 ホスセリとは「火が激しく燃える」でクマソの「熊」と同
義であると思われるので、隼人の祖は同時にクマソの
祖であるとしてよい。

 今はもうないが、旧の一月七日に行われていた
「王の御幸祭り」は30頭もの馬の行列があったという。
 また島津氏初代忠久の七社参りでは開門宮、新田宮
の次に詣で、鹿児島正八幡宮に先んじていたという。
 よほど霊験あらたかだったのか、隼人の怨霊が凄まじ
かったのか、いずれにせよ大社扱いを受けていたのは
間違いない。

 

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