鴨着く島 おおすみ ~南九州の歴史の謎を探る~

   古日向王朝論

はじめに

 日向とは宮崎県のことと思い込んでいる人が多いが、それは奈良時代初期(西暦713年)までの「古日向」から、薩摩国と大隅国とが分離独立(建国)されてからの日向であって、713年以前の日向は宮崎と鹿児島を併せた広大な領域全体が日向だった。

 私はこの時代の日向を上の段に鍵カッコで示した「古日向」と呼んで区別している。日向とだけ言ったのでは「宮崎県のことだ」と誤解されるおそれが多いからである。

 ここで扱うのはすべてその古日向時代のことで、タイトルもその内容を強調するために「古日向王朝論」とした。



(※戦前にはこの時代をよく「神代」「上代」などと形容を付されたりしていたが、現代ではそれ使えない。)



 また、世に「日向王朝論」という古代史(戦前の分類でいえば上代史)の一論争がある。これは葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘の磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后となり、その血筋の三皇子と次世代までにわたる天皇位(17代から24代まで)を独占したことに因んだ命名である。

 葛城襲津彦自身は古日向出身ではないが、名に「襲」を持つことと、神功皇后時代から応神天皇時代にかけて何度も使者としても朝鮮半島に渡って活躍していることから、南九州の海の民を統率するような力を持っていたと類推してそう名付けられたものであり、おおむね仁徳天皇後の430年から武烈天皇の530年頃までの100年間が日向王朝の時代といえるわけである。

 この「日向王朝」も時代から言えば「古日向王朝」なのだが、すでに日向王朝でブランド化されており、また学者・研究者ならこの時代の「日向」を「宮崎のことだ」などと短絡しないことが前提になっているのでこのまま通用し続けている。そこに異論をはさむ必要はないだろう。


 さて、ここで論じる「古日向王朝」とは、上の注(※)で触れた戦前の分類で言えば、「神代及び上代の日向王朝」ということになる。

 上代はともかく「神代はいただけない、アレルギーが出てくる」と眉に唾をつけたくなる向きには申し訳ないが、天孫ニニギノミコトの天下り、ホホデミノミコトの竜宮行き、ウガヤフキアエズノミコトの海浜での誕生と養育放棄など、今日ではおとぎ話に属するストーリーの展開は「神代」としてくくらないと話が進まない。

 ただ、上代(じょうだい)という言葉は歴史区分としてあってもいいような気がする。もちろん今は考古学の進展により、「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」という名称が生まれ今日ではその時代区分が普遍的ではあるが、特定の人物が史書に現れる時、考古学的時代区分ではその人物の活躍やその内面にまで入っていくのは困難だろう。

 そういった時代の特定の人物群は古事記にも日本書紀にも現れ、さらに中国の史書にも現れる。その代表的人物が「卑弥呼」である。卑弥呼の活躍した時代は2世紀末から3世紀半ばと特定されており、考古学的時代区分では弥生時代末から古墳時代の初めの人物ということになる。


 卑弥呼も卑弥呼を取り巻く男弟や難升米などの官吏は、古事記にも日本書紀にもさらには新撰姓氏録などにも一切書かれていないが、2世紀に実在した人物であるであることは、『魏志倭人伝』の描く通りである。

 (※卑弥呼については日本書紀では「神功皇后」になぞらえている注記があるが、年代が120年ずれており、誤認である。)


 以下に論じる「古日向王朝」は、その卑弥呼の時代をさらにさかのぼった弥生時代中期以前のものであり、天孫ニニギノミコトから始まる上代の日向でいわゆる「神武天皇の東征」に至る長い期間を支配した南九州(古日向)の王国の話である。


古日向の領域

「はじめに」で述べたように、古日向とは薩摩国の分離独立(702年頃)と大隅国の分離独立(713年4月3日=『続日本紀』による)以前の日向のことで、今日の宮崎県と鹿児島県とを併せ持った広大な領域であった。

古事記にイザナギ・イザナミの「国生み神話」があるが、それによると九州(筑紫島)には4つの国があるとされ、
南九州を「熊曽国」(別名・建日別)とするが、古日向はまさにこれに属している。


また中国の正史のひとつ『三国志』の中の魏志倭人伝によると、朝鮮半島の帯方郡から南へ水行20日の行程のところに「投馬国」があるとされるが、これは私の解釈では南九州に所在し、これこそはまさに古日向と重なる国である。
(ここでは私見の南九州投馬国説についての論拠は示さない。ホームページ「鴨着く島おおすみ」に詳論がある。)

この投馬国について邪馬台国九州説の中でよく見られるのが「宮崎県西都市説」である。西都市の妻という所に「都萬神社」(古くは妻大明神。地元では「妻萬(さいまん)様」と呼びならわしている)があり、ここを含む西都市全域が投馬国であると比定するものである。

だが、倭人伝では投馬国の戸数を「五万戸」としてあり、2~3世紀に西都市や周辺を併せても五万戸を収容する広さはない。なにしろ五万戸と言えば一戸当たり5人としても25万人、10人とすれば50万人もの人口になり、これを西都市域で収めるのは到底不可能である。

これを私見のように投馬国の領域を古日向とすれば、今日の宮崎と鹿児島を併せ持った広さであるから五万戸を容れることは可能である。今日の宮崎県と鹿児島県の人口の合計は約300万で、これの十分の一程度の30万なら2~3世紀当時でもあり得る話だろう。


日向神話は「古日向神話」

記紀に描かれた天孫降臨神話の舞台は「日向」であるが、すでに述べたようにこの日向は「古日向」のことである。したがってこの神話のことを通称では「日向神話」としているが、正しくは「古日向神話」でなければならない。

天孫降臨神話はまた「高千穂神話」とも言われることがある。天孫初代ニニギノミコトが「真床覆衾(まとこおふすま)に包まれて」高天原から降り立ったのが、「筑紫の日向の高千穂のクシフルタケ」(古事記)だったからである(日本書紀では「日向の襲の高千穂峰」)。

この高千穂については宮崎県北部の高千穂町、同都城市(鹿児島県霧島市にまたがる)、鹿児島県大崎町などに比定地があるが、複数あるのことについては、降臨地である古日向の広大なことを考慮すれば想定内のことと言ってよい。このことについては後述する。



初代ニニギノミコトの「降臨」

ニニギノミコトは古事記では「天津日子番能邇邇芸命」、書紀では「天津彦彦火瓊瓊杵尊」と書くが、「日子」は「彦」であり、「番」は「火」に通じ、「邇」と「瓊」は「玉」の意味であるから、どちらも「天(高天原)由来の男子で、心に玉(王権)を持っているお方」と解釈できる点では変わりがない。

降臨した場所に関して、古事記と書紀では名称に違いはあるが、「日向」と「高千穂」だけは共通している。この「日向」はもちろん「古日向」のことである。

高千穂という名称は、町の名として高千穂町があり、山の名としては都城市と霧島市の境界に連なる霧島山系の東端にそびえたつ秀麗な高千穂峰がある。また鹿児島県曽於郡大崎町に「立小野(たちおの)」という地域があり、その語源は高千穂だと言われている。

古日向が私見のように戸数5万を数える広大な南九州投馬国であるならば、数か所の比定地があってもおかしくはない。一般的にはこれを「地名遷移」というが、ただ、どれか一か所が最初の降臨地であると決めなければならないとすれば、この現象は「地名の拡散」ということになる。

さて、どの一地点が起源地であるのかを考えていくと、そもそも「高天原からの降臨」とはいかなる現象なのか――という問題に逢着する。



高天原からの降臨とは何か

高天原は天照大神が照覧(統治)している天上界のことで、スサノヲノミコトが狼藉を働いた所であり、そのために根の国に追放されることになるのだが、スサノヲは根の国にまかる前にまた高天原にいる姉の天照大神に会いに行く。その様子を「天に昇り詣でる」としてあるので、やはり天上界なのであろう。

中国から来た「天(テン)」というのは、あくまでも「地上」およびそこで生活をしている人間とは断絶した概念だが、記紀に描かれる高天原は地上とそこまで没交渉ではない。

また朝鮮神話の檀君神話では、最高神の檀君は白頭山に降臨し、人間になりた虎と熊を試すことはあっても地上の人間とはやはり没交渉である。ただ、魏志韓伝に見える「天君(テンクン))」(馬韓の条)については、これを「あめぎみ」と倭語で解釈すれば、女王卑弥呼のような神々との霊交を事とする人物を抱える制度があったのかもしれない。

いずれにしても天上界である高天原から統治者としてのニニギノミコトを降臨させるには、地上よりはるかに高いところから降ろすわけであるから、高い地点が選ばれることになる。

高い山は雲がかかることが多く、そこから水が生まれ流れ下って麓を潤す。時代が米作りを中心とし始める弥生時代になると、この水が生活・生業の生命線として珍重されるようになり、その水源である高い山には、山頂に何かしらの神(その多くは水神・龍神・雷神)が祭られる。

こうしてその地方の最も高い山は高いがゆえに多くの流水を生み、麓に大きな恵みをもたらす聖なる山として崇められ、神が宿ることになる。もちろん神が勝手に宿るのではなく、麓から人々が神々しさを褒めたたえ降臨を仰ぐことが前提となる。

高千穂峰というのは「高」は高天原の「高」と同様、「大いなる」という意味の美称である。「千穂」は「数え切れぬほどたくさんの穂」の意で、これも「穂」への美称ということになる。核心は「穂」であり、これは直ちに稲の穂を連想させる。

弥生人たちが米作りを生業としたが故の敬虔な祈りが源流の山への信仰に変化し、あるいは昇華し、そこに祖先(ニニギノミコト)の源流をも付与したのが高天原(天上界)からの降臨という神話に結実したのだろう。

このことには弥生人の死生観が反映していると思われる。そのころの墓の多くは集落を少し離れた共同墓地のようなエリアに直葬ないしは甕棺・土器棺・木棺などで地下に埋め、そこを土で盛り上げるいわゆる土饅頭が主流だったが、首長クラスの墓となると集落の中の高い場所、そこから集落が見下ろせる尾根の突端などに作られるようになった。

今日でも地方ではよく見られる「鎮守様」。それらの多くは集落の小高い場所に
鎮座しているが、そこはかってはそういった首長墓の跡であった可能性が高い。自分の統治した集落を死後も見守るには小高い場所でなければならないからである。残された者にとってもいつも見上げる高みにあれば集落を守ってくれているという実感が伴い、安心が生まれよう。

そこはまた死者がより高い「高天原」に昇るための通路でもあった。そしてまたいずれこの世に再生するための通路でもあった。天孫降臨神話はこのような弥生時代人の信仰心と死生観に立脚して形成された神話とみてよい。

広大な「古日向」では、そこここに「聖山」があり、そこに暮らす者の信仰心と死生観によって
支えられた「高天原」との相互ルートがあり、それぞれの「降臨説話」があったと見るのが自然で、これらは記紀神話にまとめられる時に、各地それぞれの地方説話から大和王朝の始祖説話(すなわち天孫降臨神話)へと収斂し、記紀が編纂された。


(1)ニニギノミコトの王朝

高天原から降臨し、地上の世界で大国主の勢力に代わって新たな支配者となったのが、高天原を照覧している天照大神の孫・ニニギノミコトである。


古事記ではフルネームを「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」とし、日本書紀では「天津彦彦火瓊瓊杵尊」とする。どちらも「ホノニニギノミコト」は共通だが、前半にかなりの違いがある。特に古事記のは長いのであるが、それでも「あめにぎし・くににぎし」という形容は天孫として生まれ地上に遣わされた「ニニギノミコト」の意義を強調したに過ぎない。

(※ ひとつ何気なく見逃してしまうのが「天津日高日子」の部分で、これを普通は日本書紀の「天津彦彦」に倣って、「ひこひこ」と読んでしまうのだが、これは「天つ日高きひこ」と読むのが正しいと思う。「天つ日高き」を「ひこ」の形容ととらえるのである。日本書紀のように「彦彦」と読むのであれば「日高日子」ではなく「日子日子」でなければならないからである。)

さてニニギノミコトが降臨する様子は古事記と日本書紀とでかなりの違いがある。古事記では「五伴緒(いつとものを)」が付いて行き、途中からは国つ神の猿田彦が先導して地上の案内役となるのだが、日本書紀ではどちらも登場しない。

また南九州の阿多地方にやって来た時に出会った「このはなさくやひめ」との一夜契りで生まれた三男子は、古事記では「ホデリ(火照)・ホスセリ(火須勢理)・ホオリ(火遠理)」で、長男のホデリが隼人の祖、三男のホオリが別名「ホホデミノミコト」で天孫の二代目になっている。一方、書紀では「ホスソリ(火闌降)・ヒコホホデミ(彦火火出見)・ホアカリ(火明)」とし、長男のホスソリが隼人の祖であることは変わりないが、天孫の二代目のヒコホホデミは二男である。

ニニギノミコトがどのような統治をしたのかについては記紀ともに詳細は全くない。

ただ古事記では南九州の阿多地方にやって来て「ここは韓国に向かい、笠沙の岬をまき通って来たが、朝日も夕日も直接よく当たる場所で、大変良いところだ」として宮殿を建てたとまではあるが、次世代のヒコホホデミがいわゆる「海幸山幸神話」の中で、隼人の祖である海幸を懲らしめて支配下に置いたというような統治の片鱗を見せているのに比べると非常におとぎ話っぽい。美人の妹のコノハナサクヤヒメだけを受け入れ、醜い姉のイワナガヒメを拒絶したがゆえに「天孫の命は花が咲いてすぐに散ってしまうように短いものになった」という教訓めいた内容があるだけだ。


また古事記はニニギノミコトの死後どこに埋葬されたか、すなわち御陵はどこかについて何も記さないが、書紀にはそれがある。

書紀には「久しくありて、天津彦彦火
瓊瓊杵尊は崩御したもう。よりて筑紫日向可愛之山陵の葬りまつる」とあるので、南九州は薩摩川内市の「可愛山上陵」がそれであると比定されている。

さらに記紀ともにニニギノミコトの統治期間は記さない。

ところが統治期間について、古事記が意外な書き方をしている箇所がある。

それはニニギノミコトの次世代のホホデミノミコト(山幸彦)および三代目のウガヤフキアエズノミコトの説話を縷々書いた挙句に、「日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳いましき。御陵はすなわとその高千穂の山の西に在り。」としている箇所である。

何とニニギノミコトもウガヤフキアエズノミコトもその統治期間については口をつぐむのだが、ホホデミノミコトの統治期間をサラッと書いているのだ。


580年続いたホホデミ王朝については次項に譲るのだが、実はニニギノミコトがいつ天降って来たかを考えるうえで大きなヒントを与えてくれる箇所がある。それは日本書紀の神武天皇紀の次の個所である。

神武天皇が45歳の時、「東に良い土地があり、青山が周囲を囲んでいます」と言う塩土翁(しおつちのおきな)の言葉に従い東への渡航を決心したのだが、その決意の詔の中に、

「皇祖皇考(先祖)は神々のように慶事を重ねて多くの年を経てきた。天祖の天降りましてからこの方、今に至るまで百七十九万二千四百七十余歳。」

とある。

この179万2470余年(歳)こそが刮目に値する数字である。最初読んだときはそのべらぼうな数字に着目するどころか、全く訳の分からない出鱈目がよく書けたものと驚くやら呆れるやらの感慨しか浮かばず、完全無視をする他なかったのだが、「天祖の天降りまして」というのは「ニニギノミコトが高天原から降臨して」という意味なら、その降臨の時代として何らかのヒントを提供してはしまいかという考え方が胸中をよぎったのであった。

これをそのままの期間(年数)とは考えられない。なぜなら179万年前にはまだ現生人類は誕生していなかった――というのが今日の人類学の定説で、近年非常に発達して来た遺伝子による解析では、現生人類はおよそ9万年前にアフリカの大地溝帯から世界各地へ移動した
ことが分かって来た。

そうすると179万というのは年数を表しているのではなく、月数か日数を表しているのではないかと考えてみた。

179万を十二か月の12で割ると、約16万年。これは上記の「現生人類はおよそ9万年前以降に世界に拡散した」という定説に矛盾する。そこで今度は一年の日数365で割ると、約4904年と出る。

つまり179万日(=4900年)ということではないか。179万年を179万日と改変するのは一寸気が引けるが、179万日なら数えることが可能だと思ったからである。

一日というのは縄文人でも弥生人でも現代人でも「日が昇ってやがて日が暮れる」のが一日であり(この際夜は考慮しない)、誰が見ても一日は一日であり、数えることができる。例えば、日が暮れるたびに小石を一つ壺なり袋なりに入れる。これが100個溜まったら少し大き目の石に置き換えて小石はまた次の100個(100日)に使い、また100個溜まったら、二つ目の少し大きな石に置き換える。

こうして100個の単位で前より大きな石に置き換えることを繰り返していけば、100個の最小の小石と、100個の少し大きい石でまず最初の1万日が数えられ、さらにもう少し大きい石を100個用意すれば100万日が数えられる。

要するに100進法ということだが、その理屈は知らなくても4種類の大きさの違った粒ぞろいの石をそれぞれ100個ずつ用意し、保管場所さえきちんと管理すれば1000万日まで数えることが可能である。

ということで、私見では179万年(歳)は数えられなくても179万日なら数えることは可能であり、年(歳)は日の誤りだろうとして話を進めていく。

さて、今計算された「4900年」というのは、書紀が編纂された西暦720年をさかのぼること4900年前に「天祖が天降りまして」(書紀)ということであるから、紀元前4180年の頃にニニギノミコトが日向の高千穂峰に降臨したことになり、この年代がニニギ王朝の始まりというに等しい。


紀元前4180年と言えば、日本では縄文時代の前期から中期にかかるころであり、南九州(古日向)では7400年前(紀元前5400年)に南海に浮かぶ薩摩硫黄島付近で「鬼界カルデラ」が大噴火を起こし、薩摩半島と大隅半島の南半分はほぼ壊滅した時期から約1000年後のことである。 

この鬼界カルデラの大噴火は有史以来最大の噴火災害をもたらし、これにより特徴的な「貝殻文土器」を指標とする当時の世界でもっとも先進的だった「南九州縄文早期文明
」は滅んだ。

(※南九州における縄文時代早期の土器は「貝殻文様」が特徴で、土器壁が極めて薄く平底であり、美術品としても通用しそうな繊細なフォルムを持っている。またこの時代にすでに「壺型土器」があり、その先進性は世界的にもまれである。中国の浙江省「河姆渡遺跡」で大量の稲モミが水に浸かった状態で発掘されたが、もしかしたら鬼界カルデラ大噴火による大津波で埋もれたものかもしれない。また宮崎市の生目台地の麓に所在する跡江貝塚から発見された縄文早期の曽畑式土器の文様は南米エクアドルの海岸地帯に出土する土器の文様とほぼ一致しており、鬼界カルデラ大噴火からの避難縄文人が跡江あたりから船で逃げ延びた可能性が指摘されている。)


7400年前(紀元前5400年)に南九州の極めて先進的な縄文早期文明が滅んだのち、火砕流と火山灰によって失われた大地の恵みが再び循環するまでには500年から1000年という時を要したと思われ、そこへ天孫ニニギノミコトが降臨して新たな文明を築き始めたのが紀元前約4200年の頃、すなわち書紀編纂の720年からすればその4900年ほど前(約179万日前)のことだろう。

南九州の縄文早期の高度文明は一度滅びたものの、500年から1000年の時を待って再び人々は南九州にやって来て文化を継続した。しかし早期文明ほどの先進性は失われていた。

先進性の有無は端的に土器の形態に現れ、あの土器壁の薄くかつ平底の芸術作品のような早期の土器の特徴は全く失われ、縄文前期以降の南九州産の土器の厚みは他の地域のものと変わらず、分厚くなり丸底になった。

火山灰に覆われた南九州の内陸はその多くが未開地になっており、人々はおそらく川を交通の通路として奥へ奥へと辿ったものと思われる。そこには小型の舟が使われたが、すべて丸木の刳り船であった。

南九州では縄文早期にすでに「石製の丸ノミ」を使用していたが、
南九州南部では壊滅していたにしても北半では海岸地帯や河川の一部には残されたものがあり、かろうじて水運はすぐに復活したようだ。その証拠が「黒曜石の交易」である。

縄文前期、南九州の各地の黒曜石の産地から小規模ではあるが黒曜石が掘り出されて加工され、おそらく交易(物々交換)によって必要な各地域にもたらされている。

中期になるとその交易路(航路)は飛躍的に拡大され、遠くは佐賀県の大産地である伊万里市腰岳や大分県の姫島産の黒曜石が南九州で見つかっている。すべて航路によってもたらされたもので、南九州からの交易品は主に南海産のタカラガイ・スイジガイ・ゴホウラであった。

このニニギノミコトの時代の南九州は縄文早期文明を滅亡させた鬼界カルデラの噴出ほどではないにしても、霧島御池カルデラ、池田湖カルデラ、開聞岳噴火・・・とやはり霧島火山帯の活動が活発で、生活の多くは山野での採取と狩猟、海の漁撈に依拠する以外になかった。

南九州の各地で同じような生活が営まれてはいたが、資源や資産の蓄積ということはほとんど行われず、したがって人々の間に経済格差から生まれる身分制のようなものはなかったはずである。

それでも各地域で土器や矢じり(黒曜石製)が作られ、土器利用の多様性と土器そのものの交易、また海の物と山の物との交換などで地域間の交流が行われていた。そしてその運搬に活躍したのが丸木舟(刳り船)であった。もしかしたら船主というような交易船を操ることを生業とする者たちも現れていたかもしれず、その中から富を蓄える者もいたかもしれないが、証拠がないので
今は原始的な共同社会が続いたとしておきたい。

南九州各地に存在した始祖を天上界から降臨したとする「ニニギノミコト」説話は信仰と言い換えてもよいが
、縄文時代前期(6500年前~5500年前)から後期(4500年前~3500年前)にわたる長い年月がそれに充てられた。そう考えた時、「ニニギノミコト王朝」が次のホホデミ王朝につながるまでに要した時間はおよそ3000年ということになるだろう。(ニニギノミコト王朝・終

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