皇極紀を読む

皇極天皇の4年(645)6月12日、に俗に言う「大化の改新」(乙巳の変)が起きている。
 蘇我氏の専横がこれにより絶たれたわけであるが、その際に「天皇記」「国記」その他の珍宝が焼かれた。だが、船史(ふねのふびと)惠尺が「国記」だけは何とか取り出し、無事だった。
 蘇我入鹿が討ち果たされる描写とともに、日本書紀の中で最も臨場感のある場面である。


 父母      父・・・茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子・敏達天皇の孫)
          母・・・吉備姫王(キビノヒメミコ)

和風諡号    天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)

 宮        飛鳥板蓋宮

 夫君      高向王(たかむくのみこ)・舒明天皇(第34代)

皇子・皇女    漢皇子(父は高向王)
          葛城皇子(天智天皇)・間人皇女・大海人皇子(天武天皇)…父は舒明天皇


 
  < 年代順の事績 >

事        績 備   考
即位前紀  息長足日広額天皇(舒明天皇)の2年(630)に皇后に立つ。同13年(641)10月、舒明天皇が崩御。
元年
(642年)
・正月15日、即位。大臣は蘇我蝦夷。
・同29日、筑紫に到着した百済の弔問使に百済情勢を聞く。
・2月21日、難波に到着した高句麗の使者に高句麗情勢を聞く。
・4月10日、蘇我蝦夷、百済王の甥・翅岐(ギョウキ)を呼び寄せる。
※この秋、大旱天で神社や寺にて降雨の祈願をするが、降らず。
・8月1日、天皇自ら南淵川畔において四方を拝み天に祈ったところ大雨となり、その後も5日間降り続いたため水不足は解消。天下の民が喜ぶ。
※この年、蘇我蝦夷、己の祖廟を葛城高宮に建て、八?の舞を行った。また、多くの民を使い、自分のと児の入鹿のために墓を二つ造らせたりした。これを知った上宮(山背大兄の宮)の大娘姫王は非常な怒りを示したが、のちに上宮一族とともに滅ぼされた。
百済情勢…前年に武王から第31代義慈王に代わった。義慈王の20年(660)、百済は滅びる。
高句麗情勢…27代栄留王の時代。同王は25年(642)10月、家臣の蓋蘇文に殺害され、28代宝蔵王が即位。宝蔵王の27年(668)9月、高句麗は滅びる。
八つらの舞…「つら」は人偏に八と月。祝賀の舞である。
2年
(643年)
※2月、地方の巫覡たちが枝に木綿紙垂を取り付けたのを持ち、蝦夷が通る橋などに待ち伏せ、競って神懸りなことを言い合った。
・3月28日、新宮となる飛鳥板蓋宮に遷った。
・9月1日、先帝(舒明天皇)を押坂陵に葬る。
・10月12日、蘇我入鹿、山背大兄王より古人大兄を天皇にしようと目論む。
・11月1日、巨勢徳太・土師娑婆をして上宮を襲わせる。いったんは山に逃げた山背大兄一族は斑鳩寺に入り、そこで全員が自害した。
古人大兄…舒明天皇の妃・ホテノイラツメの子。ホテノイラツメは蘇我馬子の娘。
3年
(644年)
・正月朔日、中臣鎌子連を神祇伯に任命する。鎌子は蘇我入鹿が専横するのを憎み、ひそかに中大兄皇子に心を寄せていた。たまたま法興寺で蹴鞠の会が催された折に中大兄と昵懇になり、蘇我入鹿を排除しようと図る。
・7月、東国の富士川のほとりで大生部多(おおし)が橘に付く毛虫を「常世の神」として祭れば富み栄えるという戯言を広める。葛野の秦造河勝は民を惑わすものとして多(おおし)を誅伐した。
・11月、蘇我入鹿は父・蝦夷の家を「宮門」と呼び、自分の家を「谷宮門」と呼び、子供たちを王子と呼んだ。また家の周りには城柵を設け、力士に武器を持たせて守らせた。
神祇伯…律令官制では「神祇官」があり長官を神祇伯と言ったが、この時代にあった確証はない。
中大兄…初出。皇極天皇の皇子・葛城皇子のことだが、中大兄となった経緯は不明。
4年
(645年)
・6月8日、中大兄が倉山田麻呂に入鹿暗殺計画を告げる。
・6月12日、三韓の貢進の日、倉山田麻呂が大極殿において三韓の上表文を読み上げている時に佐伯連と葛城稚犬養連が入鹿に斬りつける手筈であったが、惧れをなして躊躇している間に中大兄自らが斬りかかり、後に続いた佐伯連と稚犬養連が止めを刺した。
 その後、父の蝦夷をも誅伐したが、家蔵の「天皇記」「国記」・珍宝を焼こうとしたので、船史・惠尺(えさか)が火の中から「国記」だけは取り出すことができ、中大兄に献上した。
・6月14日、皇極天皇は軽皇子に位を譲り、中大兄皇子は皇太子となった。
天皇記・国記…推古天皇の28年(620)に聖徳太子と蘇我馬子がこれらと「臣・連・伴造・国造・百八十部並びに公民等の本記」を蒐集編纂している。
軽皇子…かるのみこ。皇極天皇の弟。


            ー皇極紀・終わりー               < 記紀を読む >の目次に戻る