『三国史記』巻13〜22 <高句麗本紀>
<高句麗本紀>に倭人記事はない。
よく知られている「高句麗好太王碑」には「倭人」が登場するのに<本紀>には無い、ということは、遺漏あるいは偶然ではなく、意図して書かなかったと言うべきである。
その意図とは編纂者の意図であり、編纂者は新羅の後継者を自任する「高麗国」の首都「開京(開城)」深くまで攻め込んできた倭人など、かっていなかった――としたかったのであろう。
どの国の史書も自国の不都合な部分は隠そうとするものであり、編纂した史官が儒教の信奉者つまり大陸かぶれの立場を取るとすれば、海の向こうの「蕃夷の国(倭人国)」が国の中心まで攻めてきたなどとは書けようはずがないのである。
この高麗国の領域が鴨緑江まで達していなかったことは、高句麗好太王碑にとっては幸いなことであった。もし領域にあったとしたら無事では済まなかったに違いない(今日のピョンヤン以北は高麗時代、常に北方のモンゴル族系の契丹・女真・元などによって支配されていた。領域が鴨緑江付近まで拡大したのは1392年に成立した「李氏朝鮮」以降である。この時代は明との交易を通じて日本とは友好的であった)。
ここでは「高句麗好太王碑」に描かれた時代が、高句麗本紀ではどのように扱われているかを中心に見ていくことにする。
< 高句麗本紀と好太王碑 >
王名 | 紀年 (西暦) |
事 績 | 好太王碑の記事・その他 |
第18代 故国壌王 |
7年 (390) |
9月、百済が達率(官名)の真嘉謨を遣わして攻撃してきた。 都押城を攻め、二百人を捕虜とし、連行して行った。 |
百残・新羅はもと是れ属民にして・・・朝貢せり。しかるを倭、辛卯の年(391)を以って渡海し、百残・○○・新羅を破り、臣民となしぬ(好太王碑)。 |
9年 (392) |
春、使臣を新羅に遣わし修好する。新羅王は姪の実聖を人質として送ってきた。5月、王は亡くなった。 | ||
第19代 広開土王 |
元年 (393) |
7月、百済を征伐して10城を陥落させた。9月には北の契丹を攻撃し、奪われていた民1万を連れ帰った。 | |
2年 (394) |
8月、百済が南辺を侵したので、将士に命じて防がせた。 | ||
3年 (395) |
7月、百済が攻めてきたので王自ら5千の騎馬を率いて迎撃し、打ち破った。 | ||
4年 (396) |
8月、百済と戦って大いに打ち破り、8千余を捕虜とした。 | 丙申の年(396)、王みずから水軍を率い、科残国を討てり。 <応神紀8年>春3月、百済人来朝す。・・・百済記にいう「・・・王子・直支を天朝(倭国)に遣わし・・・」――に対応している |
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9年 (401) |
正月に後燕に朝貢したが、非礼だとして翌2月、燕王が3万の兵を引き連れ、攻めて来た。新城・南蘇の二城を落とし、七百里を開拓するため5千戸余りをそこに移した。 | 己亥の年(399)、百残、誓いに違い、倭と和通す。新羅、遣使して倭人の攻撃を報じ、救いを請う。 庚子の年(400)、歩騎5万を派遣し、新羅を救わしめた。 |
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11年 (403) |
広開土王は兵を送り、宿軍城を攻め、後燕の刺史らを城から追い落とした。 | ||
13年 (405) |
11月、兵を出動し、後燕を侵略した。 | 甲辰の年(404)、倭、無軌道にも帯方界に侵入する。倭寇、壊滅し、斬殺すること無数。 | |
14年 (406) |
正月、後燕王(慕容熙)自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。 | ||
15年 (407) |
12月、後燕王が契丹を攻めたところ、敵の数に怖れて取りやめ、かえって高句麗を襲った。3千里の行軍の疲労と寒さに死者が続出し、勝てずに帰った。 | 丁未の年(407)、歩騎5万を派遣し、斬殺蕩尽し、獲る鎧兜は1万余。 | |
16年 (408) |
2月、宮廷の修築を行った。 | ||
17年 (409) |
3月、北燕に遣使し、同族の礼を施した。北燕王の高雲の祖父・高和が高句麗の支流だったためである。 | ||
18年 (410) |
4月、王子の巨連を太子にした。 | ||
第20代 長寿王 |
22年 (413) |
10月、王が亡くなり、号を「広開土王」とした。 同月、巨連が王位に就いた。王は東晋に遣使し、国書と馬を献上した。 東晋の安帝は王「高句麗王・楽浪郡公」に封じた。 |
<応神紀28年>の秋9月の条に対応している(下の注記参照) |