孝徳紀を読む

『書紀』の第25巻が孝徳天皇紀に当てられている。

 父母    父…茅渟王(ちぬのみこ)
        母…吉備姫王(きびのひめみこ)


和風諡号  天萬豊日(あめよろずとよひ)

       飛鳥板蓋宮(先代から継承)
         難波長柄豊碕宮(遷都後)
         
 
皇后    間人皇女(はしひとおうじょ=舒明天皇の娘・天智天皇の妹)

 
墳墓    大坂の磯長陵(しながのみささぎ)

 皇子・皇女(一覧表)  

皇后・妃名 出自 皇子・皇女
 間人皇女 父は舒明天皇
母は皇極天皇
 なし
 小足媛 阿部倉梯麻呂の娘  有間皇子
乳娘(いらつめ) 蘇我石川麻呂の娘  なし

 
   < 年代順の事績 >

年 代 事      績 備  考
即位前紀 ・神道より仏法を尊ぶ。皇極天皇の4年4月に「乙巳の変」があり同年6月に中大兄皇子に譲位の意向だったが拒まれ、その代わりに古人大兄が候補に挙がったが、出家してしまった。そのため皇極天皇の弟である孝徳が位を継いだ。皇太子には中大兄皇子が就任した。 ・中大兄皇子…父・舒明天皇:母・皇極天皇・古人大兄…父・舒明天皇:母・ホテノイラツメ(蘇我馬子の娘)
  元年
(大化元年)
  645年
・秋7月、間人皇女を皇后とする。二妃を納れる。同月、高麗・百済・新羅が朝貢する。任那の貢は百済が兼ねていた。
・8月、諸国に赴任する国司(くにつかさ)に戸籍・校田を命ずる。また「仏教興隆」を詔する。
・9月、諸国に使者を派遣し、兵器を集めさせる。同月、古人大兄らが謀反を図る。(11月には鎮定される。)
・12月、都を難波の長柄に移し、豊碕宮を造営する。
・高麗…当時は高句麗である。
・任那の貢
…当時任那(伽耶)は新羅の下にあったが、完全に制圧されていたわけではなかった。
   2年
(大化2年)
  646年
・正月、「改新の詔」を宣言する。
 @各地の部曲(かきべ)、田荘(たどころ)を停止する。
 A京師(みさと)を制定する。「畿内」とは、東は名張横河、南は紀伊兄山、西は明石の櫛淵、北は近江の逢坂山を限りとする。
 B戸籍・計帳・班田収受之法を定める。50戸を里とし、里長を置く。田は長さ30歩、幅12歩を1段とし、10段を1町とする。1段の租は稲2束2把、1町では22束とする。
 C調の制・官馬の制・兵制・采女制を立てる。
・3月、19日の詔では官司の屯田や吉備島皇祖母の「貸稲(後の出挙)」を止めさせた。20日には私に所有する屯倉181か所を停止し、公有とした。22日、「薄葬令」。
・9月、高向博士黒麻呂を新羅に遣わし、人質を要請させる。同時に「任那の調(みつぎ)」は停止となる。
1段…今日の1反(300坪)だが、面積は1段の方が広く360坪ほどになる。
2束2把…1束(つか)は籾で約1斗(18g)。重さでは約6`。少ないようだが、当時の1段の籾収量は100`に満たなかった。
3年
(大化3年)
647年
・夏4月、官位を持つ者は寅の時に南門の外に居並び、日の出とともに入門して前庭で拝んでから職務に就くようにした。
・この年に「冠位13階制」を定める。最高位は「織冠」。次に「繍冠」・「紫冠」・「錦冠」・「青冠」・「黒冠」。以上の6階はそれぞれ大小に分かれて12階。加えて最後に「建武」階があり、「初位」とも云い、この冠には鈿(うず)が無い。
・この年、高向黒麻呂らを伴って新羅の人質・金春秋が来る。クジャク・オウムを1羽ずつ貢献する。
・寅の時…明け七つで午前四時。
・金春秋
…のちの新羅第29代・太宗武烈王。654年に即位し、百済が降伏した翌年の661年に死んだ。後継は嫡子の文武王。文武王の母は伽耶系の金ユシン将軍の妹。
4年
(大化4年)
648年
・2月、留学僧を三韓に遣わす。
・4月、磐舟柵を造り、蝦夷に備える。(前年には渟足柵を設けている。)
5年
(大化5年)
649年
・正月、「冠位19階制」を制定。最高位から6位までは「織」「繍」「紫」に「大・小」が付き、7位以下は「華」・「山」・「乙」それぞれに「大・小・上・下」が付いて12階。加えて最後に「立身」位がある。同時に「八省百官」を置く。
・3月24日、蘇我臣日向の讒言により、蘇我倉山田麻呂大臣が皇太子を殺害しようとしているという罪に問われる。大臣は自決。これに連座した者のうち23人が斬首または自死。15人が流罪。讒言した蘇我臣日向は筑紫の大宰となった。
・5月、三輪君色夫と掃守部連角麻呂を新羅に遣使。
・この年、新羅は金多遂を派遣し、人質とする。従者が37名。
蘇我倉山田麻呂大臣
…蘇我蝦夷の孫。右大臣。娘の造媛(ミヤッコヒメ)は中大兄の妃。
6年
白雉元年)
650年
・2月9日、穴門国の国司・草壁連醜経(しこふ)が白雉を献上した。百済君や学僧に問うと「吉祥の徴」とのことで、2月15日に大会を催し、「今、我が親神租の支配する国々のうち、穴門から瑞祥である白雉が献上されたので、天下に罪を赦し、年号を白雉と改める」との詔が出る。 ・白雉…鎌足の公伝『大織冠伝』では650年〜661年を「白鳳」年号にしている。
   7年
 (白雉2年)
  651年
・12月、大晦日に2100余りの僧・尼に一切経を読誦させる。
・この年、新羅の使いが「唐服」で筑紫にやって来たが、叱責して追い返した。巨勢徳陀古大臣は「新羅を今討たなければ悔いを残す」と進言した。
・唐服…唐の官制のユニフォームを着用して来たということは、倭国よりも中国を宗主国に撰んだということだろう。
8年
(白雉3年)
652年
・おおむね班田が終わる。
・4月、戸籍を造る。50戸を里となし、里毎に長一人。また5戸ごとに一人を長として互いに検察をさせるようにした。
9年
(白雉4年)
653年
・夏5月12日、遣唐使を派遣する。大使は小山上・吉士長丹、副使は小乙上・吉士駒、学問僧の道厳・道通・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聡・道昭・定恵・安達・道観、学生の巨勢臣薬・氷連老人など、総勢121名が第一船に、大使・高田根麻呂の第二船には120名が乗り込み出発した。
・7月、遣唐使の第二船が薩摩の近海で座礁して転覆し、生き残る者わずか5人が帰ってきた。
・この年、皇太子の中大兄が「倭の京」に帰りたい旨を上奏したが、天皇は許さなかった。
・定恵…じょうゑ。中臣鎌足の長子。不比等の兄に当たる。
10年
(白雉5年)
654年
・正月15日、中臣鎌足に「紫冠」を授け、封戸若干を加える。
・2月、遣唐使の第三船が帰る。新羅の海路から莱州に到着して長安に至り、天子に見えてきた。
・4月、吐火羅国の男女4人、舎衛の女1人が日向に漂着する
・7月、遣唐大使の吉士長丹らが百済・新羅の使いと共に帰る。多くの文書や宝物を齎したとして、吉士長丹に「小華下」位を授け、封戸200を与える。
・10月、天皇の病が重くなり、同10日に薨去。
・12月8日、天皇を大坂磯長陵に埋葬する。この日、皇太子一行は倭の河辺の行宮に遷る。
・2月…この2月の記事の後の分注に「定恵は乙丑の年を以て、劉徳高らが船に付りて帰る。」と見えている。乙丑は天智天皇の4年(665年)で、劉徳高はその年の9月に来日し、12月に帰国したという記事がある。
 なぜ定恵だけが遅れた上、白村江戦役後の唐使の船で帰って来たのか謎である。

 
       孝徳天皇紀の項終わり                   「記紀を読む」の目次に戻る