クマソとは、ハヤトとは、と多くの研究者、歴史マニアがその実態を掴もうとしてきたが、今日おおむね同意を得た説は――クマソもハヤトも同じ南部九州人で「大和王朝」への服属、非服属の関係で呼ばれた南九州人の通称であろう。そのうちクマソは非服属時代の呼称でありハヤトは服属後の呼称である――というものだ。
 
 筆者もクマソからハヤトに呼称換えされた背景はそうだろうと思っている。だがそもそも熊襲の解釈に大きな違いがある。

   熊襲とは

 景行天皇紀に初めて登場する熊襲は、いきなりまつろわぬ存在としてクローズアップされる。

 いわく「熊襲そむきて、朝貢せず」(景行紀12年7月条)と。その翌8月に天皇自ら征伐に九州へ渡るのだが、一度では済まずに二度目はヤマトタケルを遣わしてようやく鎮め終える(同27年8月条)。
 
 次に登場する時もやはり「そむきて、朝貢せず」という形で登場する。それはヤマトタケルの第二子である仲哀天皇の時代で、仲哀天皇も征伐のため九州島へ赴く。だが后の神功皇后に憑依した神が半島の新羅を討てと言うのを真に受けず、他界してしまう。

 本文ではこれを神罰のように扱っているが、実際は熊襲と戦って敗れたのだろう(分注にも、あるいは熊襲の矢に当たったともいう、としてある)。仲哀の死後、妻の皇后は神の教えのままに、新羅を討とうと決意し渡海する前に「吉備の臣・鴨別(かもわけ)」を遣わして熊襲を撃たしたところ、すぐに「自ずからに服した」という。

 この神功皇后紀の記事が最後となり、これ以降、熊襲は書紀の本文から消える。そして皇后が自ら新羅を征伐した直後に子の「ホムタワケ」こと応神天皇が生まれている。このことから応神天皇こそ本当は熊襲なのだとする論者が結構多い。

 最も著名な論者は早稲田大学教授の水野祐だろう。氏の説はかって一世を風靡した祟神天皇騎馬民族説の江上波夫につながる「ネオ騎馬民族説」だが、東征したのは祟神天皇ではなく5代後の応神天皇で、これは南九州熊襲族に他ならないとするものだ。そしてその子の仁徳天皇の時代を「新王朝」と名づけた。

 氏によれば、熊襲は魏志倭人伝上の「狗奴国」であり、かって後漢に遣使して金印をもらった九州北岸の奴国が南部九州に移って発展した国である。しかも九州島において騎馬で大いに駆け回っていたとも言う。その証拠および史料は明らかではないが、推古女帝が蘇我氏に言ったという「馬なら日向の駒」と「肥前国風土記」値嘉嶋条にある「隼人に似た白水郎(あま)が牛、馬を大量に飼っていて、騎射を好む」あたりを参考にしたのではないかと思われる。

 私見では狗奴国は熊襲の一国だが、九州南部は「投馬国」の領域であった。もっとも投馬国人も熊襲族であるから「応神天皇は狗奴国の王であり、東征を果たした」というところは「投馬国の王であり、九州にとどまっていた」となる。

 熊襲国(古事記では熊曽国)は、古事記の国生みの段によれば九州島に四つあった国のうちのひとつ「建日別
」である。他の三つの国は「白日別(筑紫国)」「豊日別(豊国)」「建日向日豊久士比泥別(肥前・筑後国)」であるから建日別は残りの肥後国と日向国(ただし古日向)をあわせた九州南半分の大国なのである。

 このうち肥後国に当たるのが「狗奴国」であり、日向国に当たるのが「投馬国」であった。熊襲の熊は今日の球磨地方で襲は今日の曽於地方とする説が根強いが、それはいわゆる「まつろわぬ」状態になってから以降、貶められて矮小化し過ぎた説で3〜4世紀当時の実態ではないので採用することはできない。

 ここは本居宣長のように熊を襲にかかる形容語とする説のほうが正しいが、さりとて「熊=隈=隅っこに棲む猛々しく王化に浴さない存在」という蔑称と捉えてはならない。

 熊とはその本義「能+火(烈火)」では「火を能くする」すなわち「火をコントロールできる」であり、熊襲とは「火をものともしない襲人」というふうに捉えるべきなのである。つまり九州南半を覆う活火山列の活動激しさの中に生きる、あるいは生きざるを得ない九州南部人を指す言葉だったのである。

 これは他称ではなく自称ではなかったかと私は考えている。狗奴は熊に他なるまい。また投馬国の投馬は「襲津間(ソツマ=そのくに)からの転訛すなわち「ソ」の脱落であろう。もちろん倭人伝を書いた当時の中国人史官のミス(聞き落とし)である。同族だが肥後系の熊襲は「熊人(くまびと)」を自称し、日向系の熊襲は「襲人(そびと)」を自称して、区別していたのではないだろうか。

 北の「熊人」は有明海という豊穣な内海と火山灰土とはいえ豊富な湧水に依拠することができた。他方で南の分厚いシラス火山灰台地の「襲人」は外海に依拠した。つまりより航海族としての生業に励んだ。というより励まざるを得ないような劣悪な土地条件だった。この環境の違いが熊襲族を大きく二つの国に分けたのだろう。
 
 熊とは「火をコントロールする」であり、そのような「火の達人」をまた「建日(火)、武日(火)」と言い替えたのであり、それはまた日向神話の皇孫二代目ホホデミの兄に当たる「ホスセリ(火が盛んに燃え上がる)」と同義でもあろう。ホスセリは「ハヤトの祖」であったから、ここでも隼人が熊襲と同族であることが分かる。
 
 次に、では「襲」とはどんな意味だろうか?私は「背(せ)」と同じ意味だろうと考えている。「背」とは「バックボーン」のことで、古典に見る「背の君」の「背」がそれである。「大黒柱、根幹、大本」というニュアンスを持つ言葉だ。「背」を「山のうしろの陰」と解釈する学者もいるが、万葉集の歌に「背」と「影」とが同じ場面に違う意味で使われているので、背=影は否定できる。

 以上から要するに「熊襲」とは3〜4世紀の統一国家始原期に九州南部を統治していた部族のことで、そのうち今日の熊本県域を支配していたのが熊襲の中の「熊(狗奴)人」であり、宮崎・鹿児島県域を支配していたのが「襲(襲津間=投馬)人」で、両者を区別せずに呼んだのが「クマソ(熊襲)」だったのである。


   隼人とは

 隼人の呼称についてもいろいろな説がある。呼称そのものは大和王朝確立期の天武天皇時代に作られたものであろうが、おおむね次のような経緯で名付けられたようだ。

 「王朝の宮廷にはべり、近衛兵のような役割を果たしていた南九州出身の服属者は、当然のことながら日本列島の最南部の出である。そのころモデルとしていた大陸の唐王朝の考え方に、四方を守る四神になぞらえた動物がいた。北は亀に似た玄武、東は青竜、西は白虎、そして南は朱雀であった。

 この最後の南に当てられた朱雀は鳥である。そこで日本では南に「はやと」がいた。その「はや」を「速い」とし、鳥になぞらえるると「はやぶさ(隼)」が該当する。したがって南を守る鳥には日本では朱雀ではなく隼にしよう―−。これが「はやと」に隼人が当てられたわけなのである。」

 隼人という漢字が「はやと」に引き当てられたその理由はまさに上の通りだろう。しかし問題はなお残る。それは、そもそも「はやと」と和語で呼んだのはどういう理由からなのかということである。

 鹿児島の著名な隼人研究家である中村明蔵・国際大学教授はハヤブサのように速いことから来ているのか、あるいは鹿児島方言で南の風を「はえ」というので南方人を「はえの人」と言い、それが「はやひと」となったのか結局はよく分からないという。もうひとり郷土研究の大家である平田信芳氏は、大隅国の曽於郡を中心とするソオ人のソオに漢字の「早」が当てられ、最初は「早人」と書いて「そおびと」だったのが、次第に「はやひと」と読まれるようになり、やがて縮音化によって「はやと」になり、四神思想から「隼人」と漢字化された――と考えている。

 漢字で隼人と書かれるようになった経緯はまさにそれでいいと思うが、私は「はや」そのものに意味があると考える。けっして「ソオ→早→はや」というような語呂合わせ的な変化からではないだろう。

 それでは「はやひと」の起源は何か。それを考える糸口が日向神話にある。

 皇孫二代目に生まれた皇子を見てみると、ニニギノミコトとカムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)との間の子にホスセリ、ホホデミ、ホアカリの三子がいた(日本書紀・神代の下巻の本文)。このうちホスセリが隼人の祖、ホホデミが天皇家の祖そしてホアカリは尾張連の祖というわけだが、この最後のホアカリはフルネームを「アメ二ギシ・クニニギシ・アメノホアカリ・クシタマ・二ギハヤヒ」という。
 
 フルネームの最後尾「二ギハヤヒ」だけが個体名(個人名)で、あとは全部美称または敬称であり、ここから抽出されるホアカリの属性は二ギも「にぎにぎしい」という形容語とみなせば、つまるところ「ハヤヒ」だけが残る。ハヤヒは隼人の祖ホスセリの弟に当たるわけだが、弟のホアカリは南九州から尾張地方へ東遷している。その際、船で行ったはずで、このことは私見の「南九州投馬国王こそが東征した」こととも重なってくる。

 山城国風土記逸文の賀茂建角身(カモタケツヌミ)を解釈した時に繰り返し述べたように、南九州(建)の航海民(賀茂=鴨)の王(ヌミ=ミミ=王)は船で東征し、大和の葛城山に到った。航海民の力強いオールさばきで進む船は当時もっとも早い乗り物であった。その航海民(舵子=鴨=鹿児)の属性こそが「ハヤヒ(速日)」と捉えられたのだろう。

 以上から、隼人(はやと)とは南九州の航海民(鴨族)に通底する「すばやい身のこなし、海上をすいすい走るその速さ」という性質(個性)から「速日人(はやひびと)」と言われたことに起源を持つと考えられる。

 後世の天武朝の頃を中心に隼人は近畿地方に移住させられるが、天皇家とは始祖を同じくするということで極く信頼の置ける者にしかあてがわれない天皇の近侍となり、またその呪能が特別に優遇されていることから考えると、近侍としての武術にしろ霊能力の大きさにしろ、当時の南九州人に共通の「速日(すばやさ)」が評価されていたと見て間違いないようである。
                                                      

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