Aの説明から熊襲の「熊」が倭人伝の「狗奴国」であることはお分かりいただけただろうが、「襲」が投馬国とどう結び付くのか、余りにも発音が違い過ぎはしないか――という疑問が出てくるはずだ。

 襲人の「そ」は「背」であり、背は「根幹」の意味であるとしたが、ではそれがどう「投馬国」と結び付くのか。

 投馬国はそもそも当時の中国人、具体的に言えば魏の史官が現地語の発音を踏まえて、漢字を当てたものである。その際に、最低、二段階の過程を経る事になる。一つは現地倭人、なかんずく「襲人」が自分の国をどう発音しその発音を現地で魏の(帯方郡に派遣されていた)官吏がどう聞き取ったか(インプット)。二つ目はその聞き取った発音をどう漢字表記したか(アウトプット)、だろう。

 この段階は異国語を自国語に置き換える場合、今日でもごく自然に行われていることで、その際に現地人の発音がかなり変形されてしまうことは珍しいことではない。たとえばstyleは日本人だと「す・た・い・る」だが現地人(英米人)は「す・た・い・う」であり、ひらがなで書くと見ての通り、違う単語を表しているといってよい。

 当時の倭人(襲人)の発音が、当時の中国人に正しく発音どおりに表記されたかというと、同じように怪しいものではないだろうか。私は次のような聞き取り違いを想定する。

   帯方郡の役人「お前たちは自分の国を何と呼んでいるのだ?」
    襲   人  「そつま(襲津間)じゃ」
   帯方郡の役人「なに?――つま?」
    襲   人  「そつま、じゃ」
   帯方郡の役人「ふむ、そうか。つま、だな」

 襲人は「そつま」で「襲の国」を表現したのだが、帯方郡の役人である中国人にとって、「つ」音の強勢に「そ」音がかき消されたように聞こえたのだろう。あるいは南九州方言にありがちな「O]音が「U」音に置き換えられたため、「すつま」と発音されより一層「つま」としか聞き取れなくなったのかもしれない。

 ともかく中国側は「そつま(襲津間=襲の国)」を「投馬」と記録した、いや記録してしまったと考えられるのである。

 以上が私見の「襲の国=そつま=投馬国」説であるが、これはまた鹿児島に極めて多い特徴ある地名「宇都」の解明にもつながると思う。

 鹿児島の「宇都」地名の例として次のようなものが挙げられる。

   宇都  釜ヶ宇都  火ノ宇都  宇都鼻  宇都丘  宇都平 など
 
 『鹿児島地名考』(小幡 晋著)によって調べると、こういった地名が鹿児島県全体で480件ほどあり、県下の市町村の75パーセントに見られる小字名である。そして「宇都」は「うと」と読み、その意味は「窪んだ所、狭い谷、山の奥、洞穴」であるという。なるほど海岸部にはほとんど見ない地名ではある。

 しかし山の奥ではなく、平坦な丘陵地帯にあったりもする。だが何よりも不思議なのが「宇都丘」であり「宇都平」だ。丘は膨らんだ地形だし、平は窪んでいないからこそ名付けられたのだろう。「宇都」が「窪んだ、狭い谷のような、洞穴」という概念であるとすれば、宇都丘・宇都平は全く背反する意味の言葉をくっつけた矛盾地名になってしまう。

 こうなると、そもそも「宇都」を「窪んだ、洞穴」としての「うと」と呼ぶのが正しいのかという疑問が湧く。

 ところで、鹿屋市に「打馬」とかいて「うつま」と読ませる地域がある。ここは肝属川中流の中心地区で、肝属川が真ん中を流れ、周囲の崖の下からは水が湧き出ている。崖を這い上がれば広大な台地が広がり、無尽蔵の薪や小動物が手に入る。人間にとって必要な根本条件がすべて整っている土地柄である。このような土地を「根幹(背)の地」すなわち「背都間(せつま)」と呼んだのではないか。それが転訛して「そつま」そして「すつま」から「うつま」へと変わって行ったのではないだろうか。

 この「打馬」はもしかしたら投馬国の中心地のひとつだったのかもしれない。大隅半島の穀倉地帯は肝属川と串良川の合流地帯だが、それは古墳時代に入ってからのことで、弥生時代以前はまだ潟湖(ラグーン)だった所だ。邪馬台国時代の3世紀半ばに栄えていたのは肝属川にしろ、串良川にしろ中流域だった可能性が強いのである。

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熊襲と隼人 B

襲(そ)がなぜ投馬国か?