これまでで、私見として次のことが確認できた。


 熊襲とは3世紀の中国史書「魏志倭人伝」の中の〈狗奴国〉と〈投馬国〉とを併せた九州南部の部族を指し、それを日本側の史書「古事記」では〈建日別〉(熊曽国の異称)とも表していた。
 また、熊襲族には二種あって、自称「熊国」は今日のおおむね熊本県域を領域とし、自称「襲国」はおおむね今日の宮崎・鹿児島両県域を領域としていた。倭人伝上の〈投馬国〉は「襲人」の発音「ソツマ(襲の国)」の中国語(漢字)表記であった。

 隼人とは7世紀後半以降の中央集権的修史事業の過程で、「南方を守る鳥=朱雀」の日本版として「隼」を措定したことにより、熊襲の一派・投馬国(襲人)の後継者であり南九州に住み続けている部族を「隼人」と名付けたものである。
 「隼」を当てたのは、南九州人の航海民(鴨族)としての生業――つまり海に生きる気性の荒さ・素早さ、また船をこぐスピードから身に付いた「速日(はやひ)」という属性による。


以下、これを前提として、3世紀前後の時代状況を、熊襲の動向から解明してみたい。


   投馬国東征 と 熊襲

 私見では、記紀に描かれた南九州日向からのいわゆる「神武東征」は史実であり、その東征主体は倭人伝上の戸数五万、ミミ、ミミナリを国王(王妃)とする投馬国であったと考える。
 投馬国が南九州にあることと、神武の子に「タギシミミ」「キスミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」というように一人を除いて(カムヤイ)、すべての皇子の名に「ミミ」の付いていることが根拠になっている。

 これを史学者は「南九州のまつろわぬ種族も、とうの昔から大和王朝に属していたのだということを言うために、聖地的な名である日向に皇孫を天降らせた。そしてその地で婚姻させながらも、二代目の隼人の祖である海幸彦は山幸彦に屈服させられる、というストーリーに仕立てた。神武の子にミミ名をたくさん付けたのも、南九州から大和入りしたことをもっともらしく見せるための造作である」というような論法で否定するに違いない。

 だが造作上の文飾にしても余りにくどすぎはしないだろうか。筆者が造作するとすれば、大和入りしたあとの子たちにまで「ミミ」名を付けることはしないだろう。既に隼人の祖ホスセリ(海幸彦)は屈服しているのだから何もそこまで造作しきることはないだろう。

 日本書紀はれっきとした漢文体の正史なのである。つまり史書の本場の中国人が読むことのできる、いや中国人に対して「わが国は天上至高ののアマテラス神のおくだしになった聖なるニニギを始祖にもつ天皇の統治する国柄である」ということを表明する役割の史書でもあるはずだ。

 それを国内事情つまり「まつろわぬ南九州人」を懐柔するためにリップサービスをするのが先決ー―とばかり、南九州日向のことがらを完璧に造作した、というのでは正史としての価値は激減しよう。それに当の南九州人にとってそのように、つまり皇室の二代目と南九州人の祖先は実は兄弟なのだ、というふうに書かれて果たして何ほどの有難みを感じたであろうか。そう考えると、文飾はあってもすべて造作したとまでは言い切れないと思うのだ。

 さて、筆者は3世紀の古日向に投馬国があったとした。

 記紀の日向神話によると、神武と現地のアイラツヒメの間に「タギシミミ」「キスミミ」が生まれていた(ただしキスミミは古事記のみ)。そのどちらにも「ミミ」がつく以上、二人は投馬国王としてよい。
 キスミミの動向は不明だが、タギシミミは神武とともに東征しているのであるから、この東征は「投馬国東征」と言うことができる。「タギシ」とは「船舵」のこと(ヤマトタケルの最期の場面=足がタギシのようになってしまい歩けない=足が曲がって歩けない、とある)で、タギシミミは「船舵王」となり、船団を組んで東征した王の名にふさわしい。

 ところで、投馬国は狗奴国とともに「熊曽国」(古事記の国生み説話)を形成していたから、この投馬国東征は「熊襲東征」と言い替えることも可能だろう(ただ、狗奴国は参加していないので厳密とは言えないが)。
 応神天皇をクマソ王とし、応神天皇こそが東征したという「クマソ東征説」が著名な学者に唱えられているが、応神天皇がクマソ族であったことは筆者も認めるところだが、応神自身が東征したとは考えないので「応神天皇による東征説」を筆者は採らない。

 では「投馬国東征」の時期はいつだろうか?

 『後漢書』の安帝紀・永初元年(107)に「倭国王・帥升ら、生口160人を献じ、朝貢してきた」という記事がある。筆者はここに登場する「帥升」という倭王を「ソツシオ=襲の男(王)」という倭語と解釈するが、この大量の生口の中には「留学生」的な者もおり、彼等は漢の諸制度・文物などを学んできたのではないかと推量する。これによって、倭人の間にも「統一国家体制」への気運が高まり、その結果として第一次の東征が「襲の国」すなわち「投馬国」の主導で行われたと理解する。その時期は西暦120〜140年にかけてのことだろう。

 また同じく『後漢書』によると、後漢の桓帝(147〜167)と霊帝(168〜188)の頃、倭国が乱れ、長い戦いがあったように書いているが、この戦乱は東征そのものを指すのではなく、投馬国が東征を行った後の九州島内倭人間の勢力再編における主導権争いであろう。

 その結果、広大な佐賀平野を支配していた「伊都国(私見ではイツ国)」は西隅の小城あたりに押し込められ、北部九州から海岸までに版図を広げたアンチ「伊都(イツ)国連合」である九州北部倭国連合は「大倭」として勢力をふるい、また、筑後地方を中心としていた邪馬台国の前身は「天津日嗣の女王国」と化していた。

 この「天津日嗣(あまつひつぎ)の国」が中国史官の筆記で「邪馬台国」と書き表せられたのである。
 

     第二次東征――「大倭」東征があった
 
 東征の第一波は投馬国によるものだが、筆者はその後、約120年ほどのちの西暦260年代半ばに次の東征があったと考えている。
 その主体は九州北部倭国連合すなわち「大倭」である。「大倭」は魏志倭人伝にも登場する「市場と交易を監督している大倭」のことであるが、この大倭に新たな王が擁立された。それが「月支国王」であり「辰韓王」でもある「箕子の末裔」である。

 245年頃、公孫氏に代わって帯方郡の直接支配を目指した魏のやり方に憤激した辰韓を主とする三韓は、帯方郡への反乱を起こした。帯方郡の長官を殺害したことで魏軍の進攻を受け、ついに敗れた(魏志韓伝・弁辰条)。ここを辰韓条は「二郡、ついに韓を滅す」と書く。

 このとき辰韓王は九州島へ亡命したはずである。丁度、辰韓王の祖先・朝鮮王「箕子準」が北部朝鮮にいた頃、秦末の大混乱の中(紀元前200年頃)、燕の地からやってきた衛満によって国を乗っ取られ、辛くも南部朝鮮の馬韓の地に落ち延びたように・・・(魏志韓伝・馬韓条)。

 だが九州とて安全とはいえなかった。というのは大将軍・司馬懿一党の長征の可能性が捨て切れなかったのだ。事実、司馬懿の軍隊は帯方郡の公孫氏を殲滅しているのであった。幸いにも魏の内部抗争でその可能性はしばらくは猶予があった。しかしやはり九州は危険だとの認識が列島の中原を目指させたのだ。

 この「大倭」東征の主人公は記紀における「祟神天皇」に他ならない。したがって「祟神東征」と言い替えることができよう。祟神は大和入りしたが、やはり土地の神々や先に東征していた投馬国王統とは融和できず、相当に国内が乱れたようだ(祟神紀2年〜9年条)。

 祟神天皇が大和の外部からやって来たことは、祟神5年から9年の記事によっても判断できる。人民の半ばが失われたなどと記されているこの五年間は、内憂の絶えることなく、それゆえ大物主神や大和国魂の神を祟神天皇サイドではないオオタタネコやイチシナガオチという審神(さにわ)タイプの人物にお任せするほかなかったのであった。

 祟神治世がようやく安定を見たのは祟神10年、年代で言えば西暦280年の頃だろう。祟神紀によれば祟神元年は甲申の年であった。西暦に直すと264年だが、それは北部九州から大和入りした年であり、実際に即位できたのは十年後であったろう。


      その頃の 狗奴(熊)国 の動き
 
 狗奴国が正始年間(240〜249年)に女王国に進攻しようとして反撃に合い、あまつさえ魏からの黄幢(こうどう=皇帝お墨付きの指揮幡)がもたらされて、逆に押し返されてしまったような状況は「倭人伝」から読み取れるのだが、そのあと卑弥呼に代わって宗女トヨが女王になってもすぐには再進攻できなかったようだ。

 だが臥薪嘗胆二十年、女王国を保護していた「大倭」が東征を果たした隙に、狗奴国はついに宿望を遂げる。266〜7年の頃である。その結果、狗奴国の領域は女王国のあった筑後はもちろん、九州の北岸にまで達したのである。その様子を垣間見せるのが、仲哀紀に登場する「熊鰐(くまわに)」だろう。

 また継体紀の筑紫国造「イワイ」が物部アラカビ軍に敗れたあと、イワイの子クズコが死罪を免れるために九州北岸の「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」を大和政権に差し出している。筑後を本拠地とするイワイが、はるか北方の九州北岸に領地を持っていたのは、その250年前に狗奴国が筑後の女王国を併呑したあと、余勢を駆って九州北岸まで制圧したのと無縁ではない。

 ところで「熊鰐」は仲哀・神功皇后の進出の前に降伏した、と書かれているのだが、降伏する前に仲哀天皇は既に殺害されていた可能性が高い。
 このことについては応神天皇の謎を含めて、稿を改めて述べたいと考えている。


      2度の東征が本当にあったのか?

 私見では第一次東征は「投馬国東征」で、第二次東征が「大倭東征」別名「祟神東征」であった。これを垣間見せる記事が「景行紀」にあるので紹介しよう。

 書紀によると、クマソが朝貢しないので景行天皇が親征したことになっている。そして熊襲八十梟帥(やそたける)の首領「アツカヤ」「サカヤ」という者が蛮居していたので、娘のイチフカヤをうまく使って殺害の手引きをさせる――という内容だが、そもそも景行天皇が親征をするのであれば、南九州の襲の地は皇孫三代が眠る聖地のはずであるから、「天皇自らうやうやしく御陵を親拝した」というような場面があってよい。

 造作説からは、もともと有りもしないことを、まつろわぬ南九州人が昔からまつろっていたかのように造作したのだから、なくて当然、とするだろう。だが、待てよと思う。造作ならばこそむしろ南九州の「聖地性」を強調しておくべきではなかっただろうか。そうすれば「聖なる父祖の地を占拠しているけしからぬ熊襲を討つ」という大義名分が立ったろうにと思うのだ。文字通り「造作もない」、ただ一文加えるだけの簡単な潤色ではないだろうか。

 そこを敢えてしなかったのは、実際のところ景行天皇にとって南九州は父祖の地でも聖地でもない全く無関係の土地だったからだろう。そう考えると景行天皇の王統(祟神王統)と南九州から発した神武(投馬国)王統とは、クロスしない二系統の王統だったと言うことができる。

 であれば南九州の熊襲は、祟神天皇が大和入り後に打倒した第一次大和王権である投馬国王統のいわば残党であり、それは祟神王統である景行が討伐すべき対象に違いなかったのである。

 景行天皇の熊襲征伐の真相は以上のようなことだった。

 因みに、祟神東征の際に倒した第一次大和王権(投馬国王統)の当主は「タケハ二ヤス・アタヒメ」コンビで、それを祟神紀では「タケハニヤスヒコの叛乱」として描いている(祟神紀10年)。また、古事記では同じ様に「丹波(たには)のクガミミノミカサ」を殺害している(祟神記)が、ミミ名を持つミカサも投馬国王統と考えられるので、やはり投馬国王権追い落としの一環であった。

 投馬国王統(第一次大和王権)は以上のように第二次の「大倭」東征こと「祟神東征」によって排除されたが、では祟神王朝はずっと続いただろうか。答えは否であり、私見ではカゴサカ王・オシクマ王まで続くが、「新羅征伐」をめぐって仲哀天皇が変死したあと、応神天皇から再びクマソ系つまり南九州系の王統が始まるようである。

  先に述べたように、このことについては別の稿を考えている( 「熊襲と隼人」 完 )。


  邪馬台国、狗奴国、投馬国、「大倭」、伊都国について、また魏志韓伝の内容についての論考は下の拙著に詳しいので、興味ある向きは大隅史談会にお問い合わせ下さい。

  
 『 邪馬台国真論 』 松下高明著 2003年刊 (健友館) ¥1700円 (税込み) 送料 290円


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