南蛮クス
マップ

旧根占町のシンボルツリーがこの巨大なクスである。
樹齢は推定700年、目通しの直径は約2.2メートルもある。
交通量のかなりある国道沿いに聳える巨木というのも珍しい。
 「南蛮」の由来は、かって南蛮交易の盛んだった戦国末期に南九州もその例外ではなく、時おり南蛮船(ポルトガル船・中国南部の船)がやって来ており(根占港や向かいの山川港に停泊したという記録が残っている)根占港に入った時はこの大楠にとも綱を掛けたという。それが「南蛮」クスの名の起こりだそうである。
 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到来した時(天文18=1549年)に案内役として大活躍をしたパウロ弥次郎は
根占出身の池端弥次郎のことではないかとかって話題になったことがあったが、今は鹿児島城下の人間であるという見方に落ち着いている。

南蛮交易時代の生き証人の大楠
  国道を挟んだ向こうは雄川

右の写真は南蛮クスの対岸側から見た雄川の河口で
橋の遥か向こうには薩摩半島の山並みが望まれる。
 根占港と山川港の間はフェリーで結ばれるが、直線
距離にして12キロ約40分で到着する。

 根占は戦国期までここを支配していた大隅半島では
肝付氏に次ぐ雄族として知られていた祢寝氏のネジメ
から由来するとされ、また祢寝氏も『和名抄』の「大隅
国郡郷」のなかの「大隅郡・祢覆郷」の「祢覆」から来
た姓であるらしい。治暦五年(1069)の古文書には既
に「祢(禰)寝」となっており、確実にはその頃まで下る。

 ただその一方で同じ古文書の所領相続案文の中で根
占をさらに細かく分割した際の地名として「志天利(シテ
リ)・作志木(サシキ)」という聞きなれない地名が現れ
ている。「志天利」が雄川の中流域でもっとも肥沃な水田
地帯である川北地区の西本薗あたり(下の写真、正面に
見える長大な丘陵の手前下)を指すとするのは理解でき
るが、「作志木」をそこからひとつ丘を越えた旧大根占町
の南端部に比定しているのは不審である。そこは近世に
なってようやく水田が作られた所だからだ。

 「作志木」は「サスキ」であるというのが筆者の説である。
続日本紀・天平元(729)年七月、大隅隼人が朝貢をし
ふたりの指導者が叙位されたが、そのうちの一人が「佐
須岐君(サスキのキミ)ヤマトククメ」であった。この「佐須
岐」こそ「作志木」に違いない。もう一人の指導者は「姶良
郡少領・カシのキミ・ワタリ」であり、ふたりは隣同士の領
域の首長と考えてよい。
 真ん中の写真の手前あたりまでが古代の港・佐須岐で
あり、中世に近くなると左岸(川南地区)が水田化されて
「作志木」地区となったと思われる。

南大隅町の史跡