祢寝氏累代の墓
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かって祢寝氏は平清盛の曾孫・清重の下向に始まるとされて
いたのだが、近年の研究によりその誤りが正され、今は建部
姓であることが判明している。建部氏は大隅国庁の官吏であ
る。
 記録(祢寝氏系譜)では清重は建仁三(1203)年に大隅国
祢寝南俣院の地頭職に補任されて、家臣を連れて下向した
ことになっているが、実際にはそれ以前に当地に居住してい
たことが分かっている。
 だが始祖の伝承を否定してもなお当時、根占地域一帯を支
配していたことは間違いない。

 七代目の清成の時には元寇が起こり、九州北岸に出兵し
たが、軍功を挙げて福岡県早良郡に田地屋敷を恩賞されて
いる。このあとから祢寝氏は祢寝院の北俣(大根占・浜田・
大姶良)に進出し始める。そこは島津庄の一部であったため、
以後戦国期にまで及ぶ所領争奪戦が、島津氏・肝付氏など
との間で行われることになる。特に南北朝時代は南朝方に
与した肝付氏や楡井氏との激しい戦いが交わされた。

 戦国時代になると、島津氏の攻勢が大隅にも及び、まず肝
付氏が天正二(1574)年に降り、ついで祢寝氏も同八(1580)
年、ついに島津の軍門に下ることになった。
 肝付氏は18代目の兼道(兼護)の時に始祖以来540年にし
て敗れて阿多郡へ、また祢寝氏は17代・重張の時に同じく始
祖から380年にして敗れ、こちらは日置郡へそれぞれ改易と
なって本貫の地を離れることになった。

南大隅の板碑

鎌倉開府以来の武家の消長の中で祢寝氏は辺境の隔絶した地勢的特色があったため比較的平穏に本拠地に君臨し続けることが出来た。
 下に掲載した写真の板碑三基は左から「正応六(1293)年」「永仁二(1294)年」「建武年間(1334〜1338)年」に建立されたもので、祢寝氏統治時代の精神文化の一端を伝える文化財である。

旧岩林寺跡に残されていた板碑群

建武の板碑

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