仁徳天皇紀を読む

誕生     父:応神天皇
        母:ナカツヒメ(景行天皇の曾孫)


和風諡号  オオサザキ(大鷦鷯)

宮       
高津宮(難波)

陵墓
      百舌鳥
(もず)野陵
         ※古事記では毛受
(もず)之耳原陵

正妃      
磐之媛(イワノヒメ=葛城襲津彦の娘)

皇子・皇女  イワノヒメ・・・オオエノイザホワケ、スミノエノナカツミコ、ミズハワケ
                ヲアサツマワクゴノスクネ 
         ヒムカノ
          カミナガヒメ・・・オオクサカノミコ、ハタヒノヒメミコ


    
※仁徳天皇の父が応神天皇では有り得ないことについては「応神天皇紀を読む」で解明したが、上      には形式上、本紀記載の通り、父を応神天皇としてある


        
< 年代順の事績 >

年紀 事     績 備   考
即位
  前紀
 応神天皇と日触使臣(ひふれのおみ)の娘・ミヤヌシヤカヒメ
との間の子「ウジノワキイラツコ」を太子とするも、応神後に
即位せず、オオサザキ皇子に譲る。オオサザキもこれを拒ん
だため、三年間の空位が発生した。
 史実はウジノワキイラツコは「宇治宮」において天皇位についていた【宇治天皇=播磨風土記・揖保郡・上ハコ(草かんむりに呂)岡条】。宇治王朝が三年あった
元年396年  難波の高津宮を造営して即位。オオサザキ(仁徳天皇)は武内宿禰の子・ヅクノスクネと同じ日の生まれ。 ヅクノスクネは応神2年(391年)に武将として半島に渡り、高句麗と戦っている。
2年  葛城ソツヒコの娘・イワノヒメを皇后とする。イワノヒメはイザホワケ・スミノエノナカツミコ・ミズハワケ・オアサツマワクゴノスクネの4皇子を生む。
4年  三年間、民の課役を取りやめる。
7年  「百姓の富めるは、国の富めるなり」=聖王の自負
10年  宮殿を造る。
11年  難波の堀江および茨田の堤を作る。
12年  高麗が鉄の盾・鉄の的を献上。盾人宿禰が射抜いたので「的戸田(いくはとだ)宿禰」と賜姓する。  応神16年、すでに「的戸田宿禰」と登場し、加羅に出かけている
14年  石川の水を利用して新田4万頃(ケイ)余を拓く。  1頃=百畝=1、82fであるから、4万頃は7万2千fとなるが、今日でも石川水系では到底不可能な面積。誇張であろう。
17年  新羅が朝貢しなかったので、的戸田宿禰らを遣わして問責。
22年  八田皇女を納れようとしてイワノヒメの反対に遭う。  八田皇女はウジノワキイラツコの妹で、献上を約束されていた。
30年  イワノヒメが熊野に行っている間に八田皇女を娶る。イワノヒメは激怒し、以後、難波宮を離れ転々とする。
31年  大兄・イザホワケの立太子。
35年  イワノヒメは筒城宮で逝去。
37年  イワノヒメを那羅山に葬る。  那羅山(ならやま)は平城京の近く。狭紀盾列古墳群がある。
38年  八田皇女を皇后とする。
40年  妃に納れようとしたメトリ皇女(ウジワキイラツコの妹)を隼別皇子に取られたので、両者を誅殺する。 「隼別皇子の叛乱」も恋争いではなく、宇治王朝側の叛乱である。
41年  紀角宿禰を百済に派遣し、国郡を分かち、風物を採録させる。酒公の無礼を問責し、葛城ソツヒコに付けて日本に送致。 酒公(さけのきみ)は百済の王族の一人。
50年  茨田の堤で雁が卵を産んだのを、年老いた武内宿禰に確かめると、そんなはずはない、と歌で返される。
53年  新羅が朝貢しなかったので、上毛野君の祖である竹葉瀬と弟の田道を派遣する。田道は四つの邑の民を連れ帰る。
55年  蝦夷がそむいたので田道を派遣。田道、戦死する。
58年  冬10月、呉国と高麗国が朝貢してくる。  呉=南朝の宋。高麗=高句麗
62年  遠江国の大井川に大きな流木があった。倭直・吾子籠(あごこ)を派遣し、船に加工する。
65年  飛騨の宿儺(すくな=胴体は一つだが、頭と手足は二人分ある異形の人)をワニ臣祖・武振熊に誅伐させる。
67年  河内国石津原に陵墓地を定め、築き始める。そむく者が一、二あった。  この歳の最後に「20余年、事なし」と書く。
87年
427年
 逝去。百舌鳥野陵に葬られる。  古事記では83歳。分注に「丁卯年8月15日崩御」と書く。丁卯年は西暦427年である。 

(注)

ヅクノスクネ・・・木菟宿禰。武内宿禰の第4子。古事記では「平群都久宿禰」(孝元天皇記)。
仁徳天皇と同じ日に生まれた時、仁徳天皇の産屋には「木菟(ヅク=ミミヅク)」が飛び入り、ヅクノスクネの産屋には「鷦鷯(サザキ=ミソサザイ)」が飛び込んだ。それで飛び込んだ鳥の名を交換して本名とした、という。
  ヅクノスクネは仁徳3年に百済に遣わされ、辰斯王の無礼を詰問し、代わりに阿花王を擁立しているが、その年は『三国史記』年表によれば392年のことである。武将として派遣されたのであるからその時少なくとも20歳ほどではあったはずで、そうするとヅクノスクネの誕生は372年より後ではないことになる。
  ところで、応神天皇の誕生は神功皇后の新羅征討の364年であるから、応神天皇が仁徳天皇の父であるとなると、応神天皇はわずか8歳かそこらで子を産んだことになってしまう。
  以上から、仁徳天皇の父は応神天皇ではないことが導き出せる。
  では、父親は誰であろうか?
  仁徳天皇とヅクノスクネの誕生日が同じで、それぞれ名を交換し合ったというのであるから、両者は同一人物もしくは双子ではないだろうか。いずれにしても父親は武内宿禰であることになる考を待つことにする。

葛城ソツヒコ…葛城襲津彦。古事記「孝元天皇記」において、武内宿禰の第8子である「葛城長江曽都毘古(カツラギノナガエのソツビコ)」と同一人物であろう。「長江」という語句が余分だが、長江は小地域名であるから省略でき、そうなると「葛城ソツビコ」で全く同一の人物名になる。
  葛城は大和の葛城山麓に展開する大地名で、『山城風土記』によれば襲の嶺に下りた「カモタケツヌミ(鴨武角身)」が、神武東征に先んじて東遷し、定住した所である。
  ソ(襲)は、南九州を広く指す地域名で、出身もしくは出自が南九州であることを示しており、いま述べたカモタケツヌミの説話と完全に整合する。また、「応神天皇紀を読む」で解明したように武内宿禰が南九州クマソ族の大首長だったとする見解ともまったく矛盾しない。むしろ子である葛城ソツヒコの存在が武内宿禰が南九州の大首長だったことを証明してくれているとしてよい。

盾人宿禰・・・タテヒトノスクネ。出自は不明。仁徳紀12年に、高麗(高句麗)から到来した鉄の的をただひとり射抜くことができた、ということで「的戸田宿禰(いくはとだのすくね)」という姓を賜った。
  ところがこの的戸田宿禰は、すでに応神紀16年に賜姓前の「盾人宿禰」ではなく「的戸田宿禰」として登場しており、編纂上の単純ミスとするには不可解である。
  ここで応神・仁徳並立王朝説を取り入れる余地が生まれ、実は応神16年のほうが仁徳12年より後か、少なくとも同時ではなかったかと考えることが許されるのである。

筒城宮・・・ツツキの宮。筒城は今日では「綴喜」と書かれる。山城国南部、木津川が北上して琵琶湖からの宇治川と合流する地点に近い。またいわゆる「移配隼人」の一つの拠点であった旧田辺町の「大住」地区も、同じ木津川沿いの指呼の距離にある。
  さらにウジノワキイラツコが開いた「宇治宮」が宇治川沿いにあり、そことも10キロ程度しか離れてはおらず、イワノヒメは仁徳天皇側によって滅ぼされた宇治王朝に親近感を抱いていたようである。

紀角宿禰・・・キノツヌノスクネ。古事記「孝元天皇記」によれば、武内宿禰の第5子。初出は応神天皇の3年であるから、書紀の紀年通りとすれば約80年ぶりの登場となる。応神3年の時に仮りに20歳で半島に派遣されたとすると、今度は(仁徳41年)百歳で半島に派遣されたことになり、それが有り得ないことは言うまでもない。
  ここでたとえば書紀の紀年は間延びさせてあるから、王朝1代を20年ほどとして考えてみる。そうすると応神3年は文字通り3年とし、次に登場する仁徳41年は仁徳在位期間(80年)の真ん中だから仁徳20年に該当する。すると紀角宿禰は17年プラス20年で37年ぶりの登場となり、80年ぶりよりはだいぶ現実的な数字にはなろう。
  しかしそれでも武将としての派遣で、初めは20歳、次が57歳というのも間が空きすぎているし、第一に57歳で武将として半島へ渡るというのは無理ではないだろうか。もっと他に若い適任者がいたはずだ。
  そこで考えられるのが、応神・仁徳両朝並立説である。
  「応神天皇紀を読む」で指摘したように、応神王朝は西暦390年頃から412年まで、宇治王朝は412年から414年まで、また仁徳王朝は396年頃から427年までであり、396年から414年までは応神・宇治王朝と仁徳王朝は並立していた。
  この考えを導入すると、紀角宿禰の最初の半島派遣は応神3年=西暦392年、次の派遣は仁徳41年=西暦412年となり、20年ぶりということになる。最初が20歳であれば、次は40歳の派遣で、40歳ならまだ武将としての働きは十分可能だろう。
  盾人宿禰の記事の分析も、この紀角宿禰記事の考察も、ともに両朝並立の整合性を証明していると考える。

雁が卵を産む・・・雁や鴨のような北方由来の渡り鳥は冬季の列島に避寒のためにやってくるだけで、列島で卵を産み、子を育てることはない。仁徳50年の事績はそれをめぐる歌合せである。
  河内の人が、淀川の茨田(まむた)の堤に雁の卵があったと注進してきたのを天皇が使いをやって確認させたところ「本当でした」と報告があった。疑問に思った天皇は武内宿禰を呼び出して歌を詠んだ。
 
<たまきはる うちのあそ。 なこそは よのとほひと。 なこそは くにのながひと。 あきつしま やまとのくにに かりこむと なはきかすや>(何でも知っている長老の宿禰よ。雁が卵を産むことがあるのか?)
   武内宿禰の返し歌
 
<やすみしし わがおほきみは うべなうべな われをとはすな。 あきつしま やまとのくにに かりこむと われはきかず> (国の隅々までしろしめす大王。日本で雁が卵を産むなんて聞いた事がありません)
    ※かりこむは「雁、子産む(かり、こうむ)」が約まったもの。
  わざわざ武内宿禰を呼び出してまで聴くべき事柄だったのかは疑問が残るが、このことは私見の「武内宿禰=南九州クマソ大首長=鴨着く嶋の大王」説を補強してくれる。「雁・鴨のような半島から渡ってやって来る鳥については、生業として半島交易(往来)を行っている武内宿禰なら間違いなく知っているだろう」との判断から宿禰を諮問した、と見られるからだ。

呉国と高麗国の朝貢・・・ある朝鮮史学者は、呉国の「呉」は日本では「クレ」と読むから、「呉国」は「高麗=コウライ=クレ」のことを指しており、日本から南朝の「呉国(宋)」には使者を出していない――と言う。
  しかしこの仁徳58年条では「高麗」に並べて「呉」も記載されているので、高麗(高句麗)と呉とは別の国家を指し示しているのは明らかである。したがって「高麗=呉」説は成り立たない。
  「呉」は南朝の「宋」、「高麗」は半島の「高句麗」を指すとする従来説で問題はなく、いわゆる「倭の五王」が南朝の宋に使者を送ったことは史実である。ただ、この記事のように「呉(宋)から朝貢してきた」というのでは、立場が逆であろう。倭王のほうが叙位を求めたのであるから。

武振熊・・・ タケフルクマ。和珥臣の祖。正式名「難波根子タケフルクマ」。ワニ氏といえば「航海種族」であり、「武」が付いている以上「南九州系」であろう。
  また古事記では「建振熊」とし仲哀天皇記に登場し、大和王朝方の「オシクマ・カゴサカ両皇子」の軍勢を破っている。同じ事が書紀では神功皇后紀(摂政前紀)にあり、そこでは武内宿禰とともにタケフルクマが活躍する。
  書紀の紀年から見ると、タケフルクマの最初の登場は神功皇后即位の直前であり、次に登場するこの仁徳65年であるから、単純に計算すると実に(神功朝69年+応神朝41年+仁徳65年=)175年ぶりの再登場となる。
  これも、応神・仁徳両朝並立説だと、神功皇后の即位は西暦365年頃で、仁徳65年は西暦420年頃であるから差し引き55年ぶりの登場となる。これでも空き過ぎているが、可能性はゼロではない。

百舌鳥野陵・・・古事記で「御陵は毛受之耳原にあり」とする。
  仁徳67年10月5日に河内の石津原に陵墓地を定め、同18日には造陵を開始したという。そして87年に葬られている。その間の20年何事もなかった―と記すが、もちろん「寿墓」(生前に築いておく墓)にしても20年は掛からなかっただろう。百舌古墳群に属する「大仙古墳」がそれだと考えられているが、この前方後円墳は全長486メートルで、築造には毎日1000人を動員して4年はかかったと言われている。
 また、石津原は造陵中に「百舌鳥耳原」(古事記では毛受之耳原)と改名されたが、その改名譚には次の意味があると思う。
 説話は、
 「工事中に突然、人夫達の間に鹿が現れてばたっと倒れ込み、そのまま死んだ。不思議に思ってよく見ると鹿の耳を食い破って百舌鳥が飛び出てきた。それで、この地が百舌鳥耳原となった。」
 というもので、ここに登場する「鹿」「耳」という名辞は実は南九州の比喩であり、この記事は仁徳王朝が南九州を本貫とする応神王朝を完全に葬り去ったことの暗喩だろうと考えるのである。
 応神紀でも考察したように、応神王朝・宇治王朝と仁徳王朝とは並立しており、最終的には仁徳天皇が死ぬまでの約15〜20年間は仁徳の難波高津宮の単立全盛王朝であった。応神ー宇治と続く王朝は前代の神功皇后・武内宿祢という南九州クマソ王権を引き継ぐもので、クマソ王権の本拠地・南九州(古日向)は倭人伝の時代には「ミミ・ミミナリ」という武内・神功コンビに似た投馬国王権が支配していた。この「ミミ」(王)たる応神王権の影響力を畿内から駆逐したことを表現した説話がこの「百舌鳥之耳原」地名譚の持つ意味であろう。


                           (仁徳紀を読む・了)         目次に戻る