『三国名勝図会』から学ぶ <おおすみの歴史講座〉 第一回を開催 

   (平成21年6月14日午後2時〜4時 場所:鹿屋市立図書館・2階視聴覚室 )

※一昨年の6月、「大隅史談会」の活動をもっと活発にしようと、鹿屋市中央公民館において14,5年ぶりとい う「座談会」を開いたのだが、そのときに会員に向けて定期的に「講座」もしくは「史跡探訪」のような活動ができないか、というような話が持ち上がった。
  
 その後、何ら進展がないまま2年が経過し、やはり相変わらず「大隅」誌の出版のみに精力が注がれるだけの状態が続いていた。出版ももちろん大きな活動だが、歴史に興味を持つ一般人を呼び入れるまでにはなっていない。どうしたら歴史に、またわれわれの活動に興味を持ってもらうかがますます問われるようになって来た。


 そこで目を付けたのが『三国名勝図会』であった。
 この書は幕末近い天保年間に成立を見たが、島津氏の「玉里文庫」に秘蔵され、明治中期になってようやく一般の読み得る形に纏められた。だが、何と言っても「和とじ本」の十数分冊であったので、手に入れるのも難しく、実際には歴史の専門家しか手に取ることができなかった。

 熊本市の出版社「青潮社」は、そのことを惜しみ、原口虎雄・鹿児島大学名誉教授に依頼して和とじ本を一般書に編纂しなおすという快挙に出た。今、われわれが容易に読めるのも青潮社の賜物である。
 といっても、読むには簡便な青潮社版『三国名勝図会』も全4巻・総ページ3000にも及ぶ大冊で、個人の書架には到底並べることのできない代物であり、図書館に行ってぼちぼち読むしかない態の稀購本なのである(
全巻そろえると3万円もする)。

 それを逆手にとって思いついたのが「三国名勝図会」で学ぶ「おおすみの歴史講座」だった。どうせ図書館でしか学べないものなら、いっそ図書館にある「図会」を有効活用(コピー)して、みんなで学べばいいじゃないか――という結論に達したのである。

 しかも分量が多いので、到底一回やそこらでは終わるはずがないから、講座も長く続けられる。そうしたら大隅史談会の活動といずれリンクさせられるだろう。たとえば、2年目からは半分を「図会」の解読、半分を興味あるテーマについての学びあいに費やすことができる。また、そのことをめぐって発表者を募ることもできるだろう・・・・・。

 以上のような目論見のもと、6月14日(日)に第一回講座をスタートさせた。


 【 第一回講座の内容 】      〜講師:松下高明=大隅史談会会長〜

参加者:19名(男性14名・女性5名)

はじめに、今回の講座計画をただちに受け入れてくれた鹿屋市立図書館・館長の立石氏に挨拶していただいた。視聴覚室使用料・史料のコピー代などは無料で提供してくださると言う。ありがたいことであった。

第一回はまずテキストである『三国名勝図会』の成り立ちと、大隅国の成立、クマソ・ハヤトとは何ぞや、などがテーマであった。


(1)「三国名勝図会・序」

 三国名勝図会は天保14年(1843)に完成を見たが、編集者は薩摩藩の史官・五代秀尭(ひでたか)と橋口兼柄(かねもと)であった。五代が上司で編集委員長、橋口が副編集長といった役回りであった。

 薩摩藩では寛政年間(1789〜1801)に、各郷に命じてその地の「旧跡・名所・神社仏閣・物産」などを編纂させ、それをもとに『薩藩名勝誌』なる郷土百科全書のような書を完成させていたが、第27代藩主であった島津斉興(なりおき=斉彬・久光の父)は寺社についての解説が手ぬるいとして、改稿を求 めた。その結果、再録と再編集が行われ、ついに完成を見たのが天保14年であった。

 序の切り口はおおむね「薩摩藩こそ海内でもっとも風物に富んでいる。また、神代からの歴史があるのはわが薩摩だ」というものである。皇国史観を彷彿とさせるが、むしろ「薩摩藩ナショナリズム」というべきで、当時流行となりつつあった本居流国学を基準にした歴史論であることは間違いない。

  ただし、歴史論として、次の一文はいつの世でも正しいだろう。

   ――夫れ、物は人を待ちて著(あらわ)れ、事は書に因りて伝はる。
        
 物事のうち「物」は、人が探し当てて初めて世の中にあらわれ、「事」は文書によって伝えられる――というのだが、前者は今日では「考古学」が熱心にやっていることである。また後者は「金石文」「古文書」「公文書」などがそれにあたり、人間関係などを中心にした出来事が文字によって後世に伝わることになる。

(2)巻之一「薩隅日総説」

 「総説」では、「三国の古称」「クマソの由来」「大隅国成立」を取り上げて解読した。

・三国の古称

 古事記では南九州を「建日別(たけひわけ)」といっている。また「熊曽国」とも書いている。

 「建日別」の「建」は「猛建(もうけん)」、また「熊」も「たけだけしい」の象徴であるから、朝廷に反抗する蛮族としての比喩にふさわしい。

・クマソの由来

 「曽」は「襲」とも書くが、その原義は「畏るべし」の「おそ」という語幹であろう。

  ※以上の歴史論は本居宣長の「熊襲」論をほぼ踏襲している。私見では「曽(そ)」は「背(せ)」からの
   転訛であり、そう触れておいた。

 「隼人」は「はやびと」であり、隼の敏捷性を採用されて名付けられた。また隼人は熊襲の後裔である。

  ※おおむね受け入れられる所論である。

・大隅国の成立

 元明天皇の和銅6年(713)に、日向国のうち「肝付・曽於・大隅・姶羅」の4郡を割いて「大隅国」を分立した。
 「大隅」はもと「大角・大住」にしてあり、日向国の古い郡名であった。

  ※「大隅」は古い地名ではなく、天武朝のころに作られた「政治的郡名」だろう。大隅半島では「姶羅(あ
   いら)」が最古で「曽於」「肝付」と続くと思われる。また薩摩国・大隅国分立以前の日向と、分立以後
   の日向とは全く大きさが違っているので、注意を要する。
     

  ○ 以上が、第一回の講座の中身である。
    来月は7月12日(日)に開催する(時間・場所とも同じ)。

    次回は、肝属郡の中から「鹿屋郷」「高隈郷」など、具体的な土地(地頭が置かれた外城)の記述に
   入っていく予定である。



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