『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

    【 第二回 大隅国・肝属郡・鹿屋郷 】


 
T 肝属郡
とは・・・肝属郡は『続日本紀』の元明天皇・和銅6年4月3日の記事に

              ―日向国の肝坏・曽於・大隅・姶羅の四郡を割きて、初めて大隅国を置く。

             とあるのが初見で、西暦713年のことである。

              その次に見えるのが、『和名抄』(源順が10世紀前半に編纂)の中の「諸国郡郷一覧」で、
             大 隅国には8郡37郷があるとしてある。その郡名は次の通り。

              1菱刈郡 2桑原郡 3曽於郡 4大隅郡 5姶羅郡 6肝属郡 7馭謨郡 8熊毛郡 

              以上は10世紀(平安時代中期)の頃の郡郷配置であるが、17世紀の藩政期になると郡も
             郷も相当に異同がある。その原因の主なものは平安末期からの荘園の大開発が挙げられ、
             それが有力貴族・社寺に寄進されると、守るための私兵(武士)が台頭し、やがて「地頭」が
             大きな権限を持つようになり、公領と私領の間の争論などが絡んで郡郷の境界は混乱をきた
             すようになったのである。

              江戸時代末期に編纂された『三国名勝図会』の郡郷は戦国期末のいわゆる「太閤検地」の
             郡郷区分を踏襲していると思われる。以下に大隅半島の郡郷を列挙してみる。
             
    大隅国     1 曽於郡・・・国分郷・清水郷・敷根郷・福山郷・財部郷・末吉郷・恒吉郷・市成郷・・(8郷)
              2 姶羅郡・・・加治木郷・帖佐郷・重富郷・蒲生郷・山田郷・溝辺郷・・(6郷)
              3 桑原郡・・・日当山郷・踊郷・横川郷・栗野郷・吉松郷・・(5郷)
              4 菱刈郡・・・本城郷・曾木郷・湯之尾郷・馬越郷・・(4郷)
              5 大隅郡・・・桜島郷・牛根郷・垂水郷・小根占郷・大根占郷・田代郷・佐多郷・・(7郷)
              6 肝属郡・・・百引郷・高隈郷・新城郷・花岡郷・鹿屋郷・串良郷・高山郷・姶良郷
                       大姶良郷・内之浦郷・・(10郷)
              7 馭謨郡・・・屋久島郷・・(1郷)    
              8 熊毛郡・・・種子島郷・・(1郷)
              
    日向国(一部) 1 諸県郡・・・松山郷・大崎郷・志布志郷・・(諸県郡・20郷のうち3郷)
  
             
U 鹿屋郷とは・・・上で述べた『和名抄』「郡郷一覧」の中では、肝属郡ではなく「姶羅郡」に属していた。

             姶羅郡は4郷から成り、その4郷は次の通り。

              1 野裏(のうら)・・・おそらく「野里(のざと)」の誤記で、現在の鹿屋市中西部にあり、高隈山
                          から流れ落ちる「高須川」の中流域最大の田園地帯である。藩政時代は
                         「大姶良郷」に属していた。

              2 串占(くしら)・・・今日の鹿屋市串良町。藩政時代を通して、最大の米どころ。高隅山を源
                          とする「串良川」が潤す田園地帯。『大隅風土記逸文』に「久西良」とある。

              3 鹿屋(かや)・・・・中世には「鹿屋院」と呼ばれた。一般的には「かのや」と「の」を入れて
                          呼ぶが、その根拠はない。
                            もし『和名抄』時代に「鹿屋」を「かのや」と呼んでいたとしたら、編纂者
                           の源順(みなもとのしたごう)は必ずや「鹿之屋」「鹿乃屋」などと記した
                           はずである。
                            そうしなかった理由は「鹿屋」は「カヤ」と呼ばれていたからだろう。

              4 岐刀(きと)・・・・岐は「わかれ」「くなど」「ふなど」などと読まれ、港を指しているとされる。
                          現在の鹿屋の外港と言えば「古江港」だが、私見では「高須港」を想定し
                          ている。

V 鹿屋郷内の名勝・寺社・旧跡

     1 高隈嶽(たかくまだけ)・・・鹿屋郷に属する山は「権現嶽」「須磨嶽」「中嶽」の三山。
                         このうち権現嶽が最高で、頂上には「立蔵権現」の祠があり、中嶽には「蔵
                         王権現」が祭られている。(権現嶽は現在「御岳」と呼ばれる)
         ※近戸宮三所権現社・・・祓川地区の大窪村に鎮座。別当寺の「五代寺」が右手にある。また、祓川
                         がやはり右手を流れる。例祭は9月9日(旧暦)で、その日はこの権現社と
                         権現嶽の立蔵権現、中嶽の蔵王権現の三社を併せて執行される。
                          祭日はこれら三社を巡り山に登る者、三、四百人に及ぶと言う。
                          現在は「瀬戸山神社」と呼ばれている。

     2 鹿屋川・・・鹿屋市の中心部を流れ、河口は高山の波見(はみ)。満潮の時は鹿屋郷田崎村まで、河口
               から三里半(14キロ)の田崎地区まで船の往来ができる。

     3 高洲港・・・現在の高須の港。本府(鹿児島市)から肝付へ渡るの際は「古江港」を利用するのが普通だ
               が、実際は高洲のほうを使われることが多い。 

     4 笠野原・・・笠野原台地のこと。寛永初年(1704年)、伊集院苗代川にいた「朝鮮陶工」が繁栄したため
              ここへ移住させられた。
               集落より十町あまり北に、朝鮮神話から採用された「檀君(ダンクン)」を祭る「玉山宮(神社)
              」が鎮座している。享保10年(1725)に勧請されたという。

     5 鹿屋市(いち)・・・毎月4・8の日に立つ。肝付郡内はもとより、遠くは薩摩半島の山川・指宿からも交易
                 にやって来る。始めたのは天正8年(1580)にここに地頭として赴任してきた伊集院忠
                 棟(ただむね)だという。楽市楽座のような自由取引が行われていた。

     6 高牧野(たかまきの)・・・高隈連山の南部に位置する牧野で、その周囲は4里5町(16、5キロ)に及
                      ぶ。慶長の役で朝鮮に渡った垂水の武将・川上某が唐馬を持ち帰り、この高牧
                      野に放牧したという。

     7 七狩長田貫大明神社(ななかりおさ・たぬき大明神社)
                ・・・田崎本村にある。祭神は京都の下鴨神社と同じ「カモタケツヌミ」。京都の田丸玄蕃(
                  げんば)という人物が神像を背負ってやって来たという伝えがある。田崎地区の惣廟
                  である。永正元年(1504)の社殿造立の棟札があるので、少なくともその頃には
                  鎮座していたことが分かる。

     8 春日大明神社・・・中乃村の「打馬」に鎮座する。祭神は藤原氏奉祭の「天児屋根命(あめのこやね)」
                  天文3年(1534)に社殿造立「大檀那・伴氏」の棟札が残されている。

     9 世井六所権現社・・・高牧野(馬)の守護神を祭る。天文23年(1554)の棟札がある。「大檀那・伴
                    良兼(肝付氏17代・母は島津忠良の娘・阿南)」とある。

    10 波上三所権現社・・・高洲村に鎮座。祭神は熊野権現と同じ「イザナギ・イザナミ・コトシロヌシ」。
                    正平3年(1348)に昌光上人が建立した。南北朝時代は南朝方に属した。また社殿
                   の裏手には五基の板碑があり、南朝年号と北朝年号とが両方とも刻まれており、
                   当時の世相の一端がわかる貴重な考古資料である。

    11 医王院・・・現在の鹿屋小学校の向かい側辺りにあった。大乗院(真言宗)の末寺。本尊は薬師如来。

    12 安養寺・・・曹洞宗で、今に鹿屋中央公園下に残る。鹿屋郷の菩提所である。

    13 五代寺・・・真言宗で近戸宮三所権現の別当寺であった。

    14 神宮寺・・・真言宗で田崎の七狩長田貫神社の別当寺。

    15 光明院・・・真言宗。坊ノ津一乗院の末寺。高洲村の祈願所になった。

    16 蓮台寺・・・高洲村にあり、志布志の大慈寺の末で、臨済宗。

    17 長谷観音堂・・・由来について不思議な言い伝えがある。都からやってここに居ついた「炭焼五郎治」
                  と言う人物が山中で「からかね」を掘り出し、それを持って都へ帰ると、世に並びなき
                 長者になったので、常日頃信仰していた「長谷観音」を勧請し、お堂を建立したという。
                  鄙には稀な堂宇で、白木の観音木像も立派なものであり、その光背の裏には「永正3
                 年(1506)9月、権律師・慶朝」などと墨銘がある。現在の祓川・大園集落にある。
                  (※「からかね」が何なのかは不明である。「唐銅」のことだろうが、鉱山の「銅」なら「銅
                   鉱山」跡があってもよいが、それはない。貴重な「青銅器」ではないかと思われるが、
                   今は保留しておく。)

    18 亀鶴城・・・鹿屋城の別名である。北田地区にある。「築城の主は津野四郎兵衛尉で承久年間のこと」と
              案内板には記すが、「津野四郎兵衛尉」は『三国名勝図会』「串良郷」によれば、正中年間に
              串良院の地頭であったとしてあり、1220年頃と1320年頃とでは100年の開きがある。
               『三国名勝図会』「鹿屋郷」の記事には築城由来はなく、その代わり島津氏第7代・元久
              (恕翁公)が応永7(1400)年に肝付氏族・鹿屋忠兼に与えた地である、と書く。
               鹿屋忠兼(剃髪後は玄兼)は肝付氏第6代・兼藤の子・兼市の後裔である。その後は戦国の
              世の習いで「三国争乱」の中、取ったり取られたりが続くが、肝付氏も16代兼続(かねつぐ)が
              領有したあとは、伊地知氏・祢寝(ねじめ)氏の島津への降伏に続いて肝付氏も命運尽き果て
              ついに島津氏に帰することになった。
               (※鹿屋城は大隅一円を支配することになった島津氏族で家老だった伊集院忠棟=ただ
                 むね=の居城となり、修築され、また町並みも整えられたりした。忠棟が都城8万石の
                 当主として栄転するまでわずか8年間とはいえ、その功績は大きいものがあった。しかし
                 、忠棟は秀吉方に取り入り、8万石という大郷を手中に収めたことで、本家島津の勅勘を
                 こうむり、征伐された。このため島津正史では「逆賊」扱いを受けていることに注意)

    19 古城合記・・・「古前城(こせんじょう)」は地頭館の一帯を指す地名。昔は堀切りがあったと言い、古城だ
               った可能性が高い。「古戦場」と捉える向きもあるが、地形的には採用できない。
               「久恵(くえ)の城」は世井権現社の南、1キロ余りの野岡がそれである。南朝方の忠臣・楡
               井頼仲の配下の武将が守っていた。

    20 国司山・・・田崎村の七狩長田貫大明神(田崎神社」のうしろの叢林を「国司山」と呼ぶが、由緒は不明。
             (※「老神遺跡」という古銭=中国銭=が大量に発掘された遺跡がそれだろう。現在は市営住
              宅になっている。
               この「国司」は律令制下の国司でないことは明らかであるが、鹿屋管内にはその他にも「国
              司塚」(永野田町)・「国司山」(新栄町)・「国司山」(古江町)など国司を冠する伝承地が多く
              その謂れについては未だ定説を見ない。


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