『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  第五回  大隅国・肝属郡・高山郷               (H21.10.20)

※ 肝属は『続日本紀』では「肝衝・肝坏」などと書くが『倭名抄』によれば、読みは「岐毛豆岐」すなわ  ち「きもつき」であり、どの漢字を使っても同じである。
  高山郷の地頭館は高山小学校敷地内にあった。高山の名称は内之浦の「高屋山」より出たという。

概      要 備 考
<山  水>
山岳合記 ○黒尊岳 ○国見岳 ○母養子山(甫余志岳)
境 川 上流は鹿屋川。当郷の宮下村から下流は串良郷との境をなしているため、境川の名がある。 ・現在の肝属川のこと。境川は今は別の川の名になっている。
麓 川 水源は和泉田村山中。 ・現在の高山川。
波見川 源流は国見岳。波見浦で境川に入る。 ・現在の荒瀬川。
波見浦 地頭館の東北東一里32町ばかり。境川(肝属川)河口より10町ほどの距離を占める浦。川の向こう側は串良郷柏原浦である。
 東海の要路なので四方からの船が入港し、浦人もたくさんいる。
・波見浦の浦人「重氏」は幕末の大豪商のひとりであった。
午の瀑 うまのばく。地頭館の南南東二里3町ばかりの山中の崖に架かる。前面の山や稜線の奥にあるため「午の時」の日光の照らし具合でようやく見ることが出来るので、「午の瀑」という。
<神  社>
四十九所神社 地頭館の南南東4町、新留村にある。伊勢両神宮を奉祭しているというが、四十九所の名称の由来は不詳である。
 寛永2(1625)年7月に神道管領・吉田兼苗が当社を「神号・伊勢御位」と記している。
 弘安6(1283)年11月、肝付伴兼石の神文に「四十九所大明神、肝付の鎮守」と書し、祭祀なども隆盛で二騎による流鏑馬があったという。再興の棟札が永正11(1514)年から正徳4(1714)までに8枚残されている。宮司は守屋舎人である。

属社…四所宮・三社大明神・若宮八幡廟・阿弥陀堂(弓張城 の中にあり、貞元元年976年に宇都宮真覚法印が下野国の宇 都宮より背負って来たりここに安置した秘仏を祭るという)
・現在の伝承ではアメノミナカヌシ以下天照大神までの神々をすべて祀るから・・・というふうに考えられているようである。
新正八幡宮 地頭館の東9町余にあり、楡井頼仲が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して建立したと伝えられる。
川上
洗井大明神廟
地頭館の南南西二里9町余の和泉田村にあり、猿田彦命を祭る。創建の年月は伝わらず、ただ、天文23(1554)年に肝付良兼が社檀を造立したとの棟札があるのみ。
 『倭名抄』に見える肝属郡川上郷とあるのはここである。
川上郷…他に川上を大根占の川上神社周辺とする説と雄川上流の田代とする説がある。
神社合記 ○熊野三所大権現 ○愛宕大権現 ○五社大明神 ○西ノ宮大明神社 ○大塚大明神廟…塚崎村。忠久公が地頭職を得た時、本田貞親が下向して当地方を巡撫し、秩父大権現をここへ勧請したと伝える。 ○六所権現社…宮下村。肝付氏が鵜戸六所権現を勧請したという。 大塚大明神…塚崎古墳の1号墳に祠がある。
<仏  寺>
摩尼山五大院
高崇寺
地頭館の東南4町余、四十九所神社の右脇にある。永観3(985)年に肝付氏祖・伴兼行が建立したという。享保の頃の失火で旧記等の亡失に遭い、来歴が不明になってしまった。 伴兼行…安和2(969年)太宰府大監だったが、追捕使として薩摩へ下向定着した。
神護山昌林寺 地頭館の南11町余。志布志大慈寺の末で臨済宗。開山は剛中和尚。嘉慶元(1387)年、肝付兼氏が創建した。 肝付兼氏…第10代。父は秋兼、子は兼元
曹渓山瑞光寺 地頭館の南南東一里14町。能登の曹洞宗総持寺の末。応永9(1402)年、肝付兼元が父・兼氏のために建立した。
柏尾山道隆寺 地頭館の南一里5町。志布志大慈寺の末で臨済宗。開山は蘭渓道隆(大覚禅師)。禅師は宋の蜀の人でこの地に招聘され、寛元4(1246)年、当寺を建立し、自作の観音を安置した。
 道隆禅師はその後鎌倉に至り、北条時頼の請願で建長寺を創建した。
建長寺…鎌倉五山の第一位。二位は円覚寺、三位寿福寺、四位浄福寺、五位浄妙寺である。
円通山長能寺 地頭館の南南東15町ばかりの宇都にある。本府の福昌寺の末で曹洞宗である。
 肝付氏が高山を去るに及び、開山の肖像と住持の位牌を最初は串良郷の安住寺、次は福山郷の大安寺へ持参したという経緯がある。
玉池山日新院 地頭館の西南西9町余。福山郷の曹洞宗大安寺の末。
 元亀元(1570)年8月、肝付兼続の正室は伊作島津家の忠良(日新斎)の娘・阿南であった。阿南は父が亡くなると日新院を建立して位牌を安置した。阿南は天正9(1571)年に逝去し、月庭桂秋大姉とおくり名された。
霊護山盛光寺 地頭館の西方6町半。弓張城の西に位置し、昌林寺の末寺。肝付氏5代の兼石が父兼員の菩提所として建立した。
 昌林寺の末寺と云うのはおかしい。というのは昌林寺は10代兼氏の創建と伝えられるのだが、この盛光寺はそれよりはるか昔の建立なのである。
笠野薬師堂 地頭館の北西一里21町余。和銅元年に行基菩薩が当地に現れて、薬師菩薩を柳の木で作ったという。日向三薬師(他は高岡法華嶽薬師・帖佐米山薬師)の一つ。
 神護景雲の頃(767年〜770年)、和気清麻呂ここに詣で、東3町ばかりの所へ堂宇を建立し、南柳山安楽寺と名付けて別当寺とした、という。
和気清麻呂…道鏡が称徳天皇に取り入り、法皇になろうとしたのを咎め、769年に勅勘を蒙って大隅に流されている。
仏宇合記 ○両谷山聖柔寺 ○水月山瑞祥寺 ○長野山光福寺 ○薬師堂 ○釈迦堂 ○阿弥陀堂 ○薬師堂 ○阿弥陀堂 ○地蔵堂
○地蔵堂 ○薬師堂 ○阿弥陀堂 
<旧  跡>
高山本城 地頭館の南南東およそ一里、一名山之城。肝付氏歴代の居城である。
 肝付氏の祖先は天智天皇から出ている。天智天皇の皇太子大友皇子の9世の孫・従五位上伴兼行、薩摩国に下向し、鹿児島伊敷の神食に館を建てて住んだ。その11世の孫兼貞に至り、長元9(1036)年に大隅国肝属郡に移り、子の兼俊は肝付姓を名乗ることになった。
 肝付氏第8代兼重は建武2(1335)年に後醍醐天皇の詔を奉じて勤王の旗を揚げた。
 16代兼続の時、勢力最も盛んであったが、島津氏との抗争に敗れ、天正8(1580)年には阿多12町へ移封された。
 歴代19代を数える大隅の雄族も550年という歴史を刻んだのち、大隅からは姿を消した。
・大隅の肝属郡に入部したのは弁済使職を得たためとされる。・・兼重…肝付兼石の二男で日向三股城主の兼市の養子に入ったが、本家に男子がいなかったため入籍して本家第8代を継いだ。
弓張城 きゅうちょうじょう。地頭館の東南4町ばかり、麓之城ともいう。地元の伝承では「楡井頼仲がここを拠点としたことがあった」という。
柳井谷陣 地頭館の南30町ばかりの所にある。永正3(1506)年8月、島津忠昌が本城を攻撃するために陣を構えた場所である。
 当時の城主は第14代肝付兼久で、兼久は志布志城主新納忠武に援軍を求め、島津軍を追い返している。
城営合記 ○宮下城…宮下村。 ○富山城…富山村。 ○検見崎城…肝付氏の別族・検見崎氏の居城。 ○御幣園城 ○大平城 ○波見城 ○下し丸陣 ○永山陣 ○宇都陣 ○堂園陣 ○合戦田陣
○波見陣 ○軍来原 


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