『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座


 第4回 大隅国 曽於郡 末吉郷 @

末吉郷は現在の曽於市にほぼ重なる大郷であった。地頭館(仮屋)は現在の曽於市末吉町「末吉小学 校」辺りに所在した。

位 置 概        要 備  考
<山水>
大八重山 地頭館の東
2里余り
 大裏(おおうら)村にある。連山重層して山林が深い。 現在の大淀川源流の山々
潮鶴山 地頭館の東
5里ばかり
 大裏村にあり、大八重山よりさらに東の鰐塚山系の南部、飫肥藩領との境の最高峰。 現在の牛ノ峠付近
宮田峯 地頭館の東南
1里半
 大裏村にあり、松山郷との境にある独立峰。上の二山とともに狩猟所となっている。 宮田山は標高520m
南郷川 地頭館の東を流れる  水源は大裏村の橘岳。中裏村を経て都城を貫流し、庄内川となって那珂郡の赤江に注ぐ。途中、岩瀬川を併せている。 大淀川のこと
松箇野川  水源は都城の大平野。当邑を経て下流は志布志邑で海に注ぐ。下流では安楽川と言っている。 大平野は現在の尾平野
<居処>
末吉野
  牧馬苑
地頭館の西南3里  梶ヶ野村にある。周囲は5里20町余り。牧馬350匹。元和3(1617)年に、志布志郷の笠祇嶽の牧から移植した。
 余り繁殖しないので、寛政元(1789)年に笠祇神を笠祇嶽から勧請して祀っている
<神社>
諏方
 大明神社
地頭館の北西25町  蔵町村にある。祭神は諏訪大社(上社・下社)のうちの下社で、鹿児島城下の福ヶ迫にある諏訪神社と同じである。大翁公(25代重豪)の信仰で、天文5(1536)年に勧請している。
 当村の宗廟で、別当寺は千眼寺、社司は安田氏。
諏訪大社の上社は「タケミナカタ」、下社は后の「ヤサカトメ」を祭る。
住吉
 大明神社
地頭館の南西25町  宮路村の檍原(あおきはら)の近く。祭神は「ソコツツノヲ」「ナカツツノヲ」「ウワツツノヲ」の三座。
 社山を「住吉山」と称し、山頂に「姥ヶ石」と呼ぶ大石があり、二つに割れてそれぞれが日向と大隅にあるといい、両国の境界をなしている。
 江戸時代草創の慶長年間に貫明公(16代義久)と慈眼公(18代家久)の参詣があり、短冊などの御親筆を残している。また寛陽公(19代光久)の時、吉田兼連に要請して「住吉大明神」の神号を執筆させ、鳥居に掲げた。
 当社は国内の住吉社の根本である。日本書紀・古事記に載る日向国小戸の橘のアワギ原は当地であり、住吉三神はイザナギノ命が祓いの後に産んだ「九神」の最初の神々であり、その由縁で当地に住吉社を建立したわけであるから、ここが国内の住吉社の根本なのである。
 摂津の住吉社は住吉系最大の神社ではあるが、あちらは「三韓征伐」の神功皇后の由緒に基くものであり、こちらのほうがはるかに古い。またこちらは住吉三神の荒ミタマで、向こうは和ミタマである、とする説もある(『兼良纂蔬』)。
熊野
三社権現社
地頭館の北西25町ばかり  村山村にある。祭神は熊野三神。勧請の年月は不明だが、永正5(1508)年の棟札があり、その檀那は「藤原忠武」とある。
 祭礼は2月と9月、社司は河野氏。
熊野神社の正月行事「鬼追い」は著名。
・藤原忠武は新納氏。志布志城主。
八幡宮
  (岩川)
地頭館の南
2里余り
 中島村にあり。万寿2(1025)年、山城国の岩清水八幡宮を岩川に勧請した。
 祭礼は旧10月5日。「浜下り」の行事があり、大人の人形を造り先払いとして行列の先導をする。身の丈1丈6尺、梅染めの単衣を着て大小の刀を佩び、四輪車の上に立たせる。
 この人型は土人「大人・弥五郎」と称し、また武内宿祢であるとも言っている。
・岩川八幡の「弥五郎どん祭り」は現在でも有名な行事である。11月3日に行われる。
神社合記 山口大明神社…祭神・天智天皇。応永17(1410)年、大檀那・伴兼元の棟札あり。 ○若一王子社…橋野にある。祭神不詳。文正元(1466)年、伴兼元安置すとの書き込みあり。 ○伊勢大神宮…西之村。天正8(1580)年、願主・鎌田(藤原)正家、再興すの棟札あり。 ○五位大明神社…蔵町村。祭神不詳。藤原(北郷)忠親・時久親子のそれぞれ棟札あり。 ○諏方大明神社…馬場村。応永3(1396)年、大檀那・藤原盛次の棟札。
天子大明神社…有持村。天正9(1581)年、当時の地頭・伴兼広の棟札あり。 ○六社権現社…稲井原村。享禄5(1532)年、飛松八郎左衛門の棟札あり。 ○加茂大明神社…柳井田村。天正18(1590)年、大檀那・藤原時久の棟札あり。 
<仏寺>
無量寿山
 深川院
  光明寺
地頭館の北西26町ばかり  城下大乗院の末寺で真言宗。当邑の祈願所。言い伝えでは昔悪七兵衛・梶原景清が日向の宮崎より敗退し、当邑の田尻村・柳井田門という所に来てこの寺を建立したという。
 当寺の鎮守社が熊野三所権現社である。
景清は宮崎市の生目神社にも祭られている。
和光山
 慈心院
  千眼寺
地頭館の西北13町ばかり  城下大乗院の末で、真言宗。建立の由来は不明。当邑に鎮座する諏方社の座司を務める寺院である。
達磨山
  興昌寺
地頭館の東南13町余り  中裏村にあり、城下福昌寺の末で曹洞宗である。開基の由緒は不明。ただし当寺の仏壇に「功正寺殿月舟海公大禅伯」との古牌があり、また境内にある二基の五輪塔の一基に正中3(1326)年と刻字されており、由来はそこまで遡ることができる。
弥勒山
 寶泉院
  光福寺
地頭館の西南8町ほど  西之村にあり。相模国藤澤山の末寺で、城下浄光明寺に属す。開山は遊行上人・第7世託阿。寺号の額に「文和二年」(1353)と記してある。
仏寺合記 持宝院…村山村。志布志の寶満寺の末寺で律宗。 ○大通庵…中島村。山号を「浮橋山」という。曹洞宗。
<旧跡>
 檍原
(あはき
  がはら)
地頭館の東南1里ばかり  中裏村にある。檍原は住吉大明神の項で記したごとく、神代の霊跡なり、と言い伝えられている。安楽川の最上流が上津瀬川で、中津瀬川と下津瀬川は檍原の東を流れる南郷川がそれである。また「小戸」と言われる池もある。
 檍原より西の地域を都城といい、そこは神代の旧都であり、高千穂宮のあった霊地なのである。
 ここには檍大明神社があり、祭神は二座「イザナギ命」「イザナミ命」である。当社はイザナギ命が中津瀬川において禊祓いされた名跡で、神社の創建は不詳だが、最初小さなものだったのを宥邦公(22代継豊)の寛保3(1743)年に重建されている。
 『古事記伝』(本居宣長著)には、「橘小戸」(たちばなのおど)は日向国にはそのような地名はないとして、特定の場所を挙げていないが、同じ伊勢国生まれの谷川士清(ことすが)は『日本書紀通証』において小戸アハギハラはここに間違いない、としている。
 ここのアハギハラにおいて禊祓いし、「九神」およびアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの「三貴神」を生み出したのであるから、まことにここは神代稀有の霊地と言うべきである。
・谷川士清
 (たにがわ
   ことすが)
は伊勢国津の生まれ。本居は松坂生まれで、谷川のほうが20年余り先に生まれている。『日本書紀通証』は日本書紀全巻を考証した初めての書である。
高千穂峯 霧島山と同義  皇孫二ニギ命の天降りたもう霊峰にして、二ニギ命はじめホホデミ命、ウガヤ命の三代の御陵はすべて薩摩藩内にあることからすれば、イザナギ命の旧跡アハギハラの由緒もここにあるとして差し支えない。

  
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